東京高等裁判所 昭和25年(う)4120号 判決 1951年3月30日
主文
検察官の被告人竹内景助を除くその他の被告人らに対する本件控訴はこれを棄却する。
原判決中被告人竹内景助に関する部分を破棄する。
被告人竹内景助を死刑に処する。
原審における訴訟費用のうち証人藤田理吉、同氏井辰五郎、同名取義光、同新川盛親、同石井幾子、同下田留吉、同加藤武雄、同宮下憲太郎、同武井利勝、同熊谷重治、同山地巧、同中島英治、同御園浜吉、同芝義一、同石井方治、同西巻啓一、同高田武男、同相原一男、同坂本安男、同篠塚春夫、同西山誠二郎、同小峯勇、同竹内政に支給した分は被告人竹内景助の負担とする。
理由
検察官の控訴趣意は飯田七三外九名に対する電車転覆致死被告事件並に石川政信外一名に対する偽証被告事件につき、それぞれ昭和二十五年十二月二日附東京地方検察庁検事正馬場義続名義の控訴趣意書(附録二の証人中藤田光春はこれを削除する)の通りであり、被告人竹内景助の控訴趣意及び同被告人の弁護人今野義礼、同正木〓の控訴趣意はそれぞれ、同被告人名義及び同弁護人等名義の控訴趣意書の通りであり、検察官の控訴趣意に対する被告人等及び弁護人等の答弁の中重要なるもの並に弁護人布施辰治及び同神道寛次の検察官提出の控訴趣意書の不適法を理由とする控訴棄却決定を求むる申立の理由は、被告人外山、横谷名義の各答弁書、被告人竹内名義の一九五〇年一二月九日附、同月二七日附の各上申書、一九五一年一月六日附の附記と題する書面、被告人田代、伊藤の各答弁書、弁護人布施辰治、小沢茂、青柳盛雄、神道寛次、宮良寛雄、小関藤政名義の各答弁書、弁護人藤井英男、上村進連名の答弁書、弁護人上村進、牧野芳夫、藤井英男連名の答弁書(以上飯田外九名の電車転覆致死事件)、弁護人福田力之助、為成養之助連名並に為成養之助名義の各答弁書の通りであるから、すべてこれを引用する。これに対し当裁判所は左の通り判断する。
第一部 弁護人布施辰治、同神道寛次の控訴棄却決定申立に対する判断
記録によれば、飯田七三、清水豊、外山勝将、横谷武男、竹内景助、田代勇、宮原直行、伊藤正信、喜屋武由放、先崎邦彦に対する電車顛覆致死被告事件並に石川政信、金忠権に対する偽証被告事件について、原審がそれぞれ昭和二十五年八月十一日言渡した判決に対する控訴申立書は、それぞれ判決言渡の日である昭和二十五年八月十一日附で、東京地方検察庁検事正検事馬場義続名義で、同日原審に提出されたこと、右両事件の控訴趣意書が同検事正名義で作成されていること、当裁判所が右各事件について、昭和二十五年十月十二日控訴趣意書提出最終日を昭和二十五年十二月十一日と指定し、これを即日当裁判所に対応する東京高等検察庁に通知すると共に、被告人竹内にもこれを通知したこと、前記各控訴趣意書が昭和二十五年十二月二日東京高等検察庁検事石合茂四郎から当裁判所に提出されていることがそれぞれ明かである。
控訴趣意書の提出者については、刑事訴訟法(以下法と略称する)第三七六条に控訴申立人は裁判所の規則で定める期間内に控訴趣意書を控訴裁判所に差し出さなければならない。刑事訴訟規則(以下規則と略称する)第二三六条第一項に控訴裁判所は、訴訟記録の送付を受けたときは、速やかに控訴趣意書を差し出すべき最終日を指定してこれを控訴申立人に通知しなければならない。控訴申立人に弁護人があるときは、その通知は弁護人にもこれをしなければならない。規則第二三七条には控訴裁判所は、前条の通知をする場合には、同時に訴訟記録の送付があつた旨を検察官又は被告人で控訴申立人でない者に通知しなければならない。被告人に弁護人があるときはその通知は、弁護人にもこれをしなければならないと、それぞれ規定されているのであるが、右各条の控訴申立人とは第一審判決に不服を申立てた第一審における対等当事者たる被告人又は検察官を指すことが明かであり、(原審弁護人は控訴申立を為し得るが、右各条の控訴申立人とはならない。)第一審検察官が、控訴申立人である場合には、被告人が控訴申立人である場合と同様、自ら控訴趣意書を提出して、不服の理由を明かにすることができることは、第一審検察官が国家を代表し、被告人と対等の当事者として各種の訴訟行為をなし得る権限を持つことの当然の結果であるといわなければならない。
しかし、対等当事者としての被告人と検察官の権限の類似性にも限度があり、被告人はその人について国家刑罰権の存否が確定さるべき対象として、厳格な個別性が要求されるに反し、検察官には国家の公益の代表として、所謂検事同一体の原則が行われ、検察官個人の個性は重要な意義を持たない点に著しい相違を示すのである。従つて被告人たる控訴申立人に対しては、控訴趣意書提出最終日、記録到達の通知は、厳に当該被告人に送達されなければならないのに反し、第一審検察官が控訴申立人である場合には、右の通知は第一審検察官にこれを送達した場合であると第二審の検察官にこれを送達した場合であるとを問わず、いづれも適法であるといわねばならない。ただ検察庁法第五条にもとずく職務管轄の制限を受けるため、右送達は、不服を申立てられた裁判をした第一審裁判所に対応する第一審検察官又は当該控訴審を担当する控訴裁判所に対応する検察庁の検察官に対しこれを為す必要があり、第一審検察官が提出した控訴趣意書は、自らこれを陳述することができず、第二審の検察官によつてのみこれを陳述することができるに過ぎないだけである。
それ故に当裁判所が前記のように、対応検察庁に右の控訴趣意書提出最終日の通知をしたことは適法であつて、これによつて、控訴申立人たる第一審検察官が送達を受けたと同一の効果を発生したと解すべきである。
弁護人は独自の見解を以て、前記第一審検察官作成の控訴趣意書の違法無効を主張して、本件控訴の決定による棄却を求めているのであるが、以上説明の通り右申立は理由がないことが明かである。(弁護人は原審弁護人が控訴申立をした場合について引例しているが、かかる場合の弁護人が前記の控訴申立人に該当しないことは前記説明の通りであり、原審弁護人が控訴審における所論の各種の訴訟行為ができないのは、弁護人の選任が各審級毎にのみ有効なものとの限定があるため、被告人や検察官との間に権限の相違がある結果であるから、右引例は適切でない。)
第二部 被告人飯田七三外九名に対する電車顛覆致死被告事件の検察官控訴趣意に対する判断
〔一〕 第一点 訴訟の冒頭審理手続に関する法令違反
通常の刑事訴訟の冒頭手続が、所論のように、人定質問(規則第一九六条)、起訴状朗読(法第二九一条第一項)、黙秘権の告知、被告人、弁護人の公訴事実に対する認否(法第二九一条第二項、規則第一九七条)、検察官の冒頭陳述(法第二九六条)、被告人、弁護人の冒頭陳述(規則第一九八条)等の順序で進められること、刑事訴訟法が所謂起訴状一本主義を採り、起訴状には裁判官に事件につき予断を生ぜしめる虞のある書類その他のものを添附し又はその内容を引用してはならず(法第二五六条第六項)、検察官被告人及び弁護人はその冒頭陳述で、証拠とすることができず又は証拠として取調を請求する意思のない資料にもとづいて裁判官に事件について偏見又は予断を生ぜしめる虞のある事項を述べることができないこと(法第二九六条但書、規則第一九八条第二項)、従つて検察官にかかる制限が課せられるのみならず、被告人及び弁護人側にもかかる事項の陳述が制限せられ、検察官の起訴状朗読後にその制限が適用せられる以上に強い要請を以て検察官の起訴状朗読前にこの制限が適用せられることはいづれも所論の通りである。而して、この制限は起訴状朗読前には、証拠とすることができ又は証拠として取調を請求する意思がある資料に基くと否とを問はず適用されるものと解すべきである。勿論、すべての事件が前述のような冒頭手続を経るものとは限らず、小数の事件では例えば被告人の人定質問の段階で、既に被告人の同一性が争はれ、起訴状朗読を待たないで、被告人の同一性を確定する為の当事者の主張立証が為される場合もあり、法第三三九条の規定によつて決定で公訴を棄却すべき事由があるに拘らず、公判が開廷された場合に、被告人及び弁護人から、その事由を主張して公訴棄却の申立が為された場合の如き或は法第一九条の管轄移送の申立、法第二二条の忌避の申立が公判廷で為される場合には起訴状朗読前にこれに関する訴訟行為が行はれて差支ないのである。
然しながら、右のように起訴状朗読前に一定の訴訟行為を為すことが事柄の性質上当然に許されると考えられる場合の外は、起訴状朗読前においては当事者たる検察官、被告人及び弁護人の訴訟行為は許されないと解すべきである、例えば起訴状朗読前の政治的陰謀又は強制拷問による自白を基礎とした公訴であるとの理由による検察官に対する公訴取消要求、検察官の公訴提起の手続自体の違法を理由としないで、強制、拷問に基く自白を基礎として起訴したことを理由とする公訴棄却の申立の如きはその適例である。
而して各個別的で、内容において千差万別の訴訟を如何に進行するかは裁判長の訴訟指揮権の下にある。(法第二九四条)けれども、前記の少数の例外の場合を除いては通常の事件については前記のように法が示す順序が守られ法の制限に従つた訴訟指揮を行うことが要請せられるのであつて、裁判長が適切な訴訟指揮を誤り、当事者をして法の要請する基本的な順序に従はず又は法の制限する事項の陳述を許すならば、当該訴訟手続は法令の違反となるものと解せられるのである。蓋し、法が起訴状一本主義を採り、通常の訴訟の進行について前記のような規定をしているのは、法第一条規則第一条の規定している目的を達する為裁判の迅速と公平を期せんが為に他ならないのであつて、この目的に反する陳述は訴訟上の権利の濫用となるものと解すべく、法が訴訟の進行について一定の順序を規定し、前記のように裁判官に予断又は偏見を抱かせる虞のある事項の陳述を禁止するのは、訴訟手続が終局目的である裁判に向つて最も能率的に且順序正しく進められ、その間裁判官が常に公平且公正な立場に立つて、終局の判断に誤なきを期している為であつて、従来の訴訟と〓もこのような要請を充すよう工夫されていたのであるが、現行刑事訴訟法は所謂起訴状一本主義を採ることによつてこのことを明定したのであるから法の規定する順序は厳格にこれを守るべきであつて、例えば、起訴状朗読前に裁判所が被告人弁護人に裁判官に偏見又は予断を生ぜしめる虞のある事項を陳述することを許し又は前記の理由による公訴取消要求、公訴棄却申立に関する陳述を許すならば、検察官が起訴状にかかる事項を記載することが法の禁止するところであると同様の意味で、法の禁止するところを犯し、訴訟の基本的な順序を誤り訴訟手続の違反を来したものと謂うべきであるからである。
飜つて、本件において、所論のように、原審公判廷で起訴状朗読前に裁判官に事件について、偏見又は予断を生ぜしめる虞のある事項が、弁護人及び被告人から陳述せられた為、原審の訴訟手続に法令の違反があつたか否かについて考察することとする。
原審第一回公判調書には被告人等の人定質問を終つた後起訴状朗読に先立ち、直ちに被告人飯田七三、清水豊、外山勝将、横谷武男、田代勇、宮原直行、伊藤正信、先崎邦彦(雄とあるのは彦の誤記)、金忠権、弁護人布施辰治、林百郎、岡林辰雄、今野義礼、梨木作次郎は孰れも本件は強制並に拷問による自白に基き起訴されたのであつて公訴は無効であるから取消すべきであると述べた旨の簡単な記載があり、同第二回公判調書にも弁護人布施辰治は一、本件起訴は不当に為されたものであるからその取消を要求した、一、竹内被告人の自白について疑惑を持たれるが、自白については種々の内容があるからその経過を明かにして貰いたいと述べ、勝田検事は、訴訟進行に関しこれまでの被告人及び弁護人の発言は刑事訴訟法第一条の精神に背くものであつて裁判所に対し予断を抱かせるものである。かかる発言は起訴状朗読後に為さるべきものである。しかもその発言の内容はすべて根拠の薄弱なものである。本件は政治的陰謀に基くものでもなく強制拷問による自白を基にしたものでもない。公訴の取消を要求する理由はないと述べ、検事川口光太郎は被告人石川政信、同金忠権を除くその余の被告人等に対する各起訴状変更書と題する書面を裁判所に提出し、同数の謄本を同書面に添附した。本書面は孰れも各当該被告人等に対する起訴状の字句を訂正するにとどまるものであると述べ、特別弁護人鈴木市蔵は本件公訴を取消すべき理由がある。国鉄の当時の内部事情を明にするに先づ当時国鉄民同系より原因不明の事故を起せとの指令が出て居り、更に本件と相前後する列車顛覆事件、下山事件が発生し、此等一連の事件は共産党員によるものであるとの宣伝を故意に行い、しか訴本件については鉄道事故としての調査をしないで直ぐに検察庁の捜査に附されたものである。かかる事情によつて本件公もは取消さるべきであると述べ、検事天野一夫は此の発言は無用であつて異議があると述べたが、弁護人側より反対の意見を表明し、裁判長はこれを採用しなかつた。次で弁護人長野国助は、訴訟進行については充分寛容な態度で臨む事を要望する。弁護人布施辰治は、本件起訴は法律の手続によらないで為されたものであるから無効であつて検事は速やかに此れを取消すべきである。憲法第三十三条の基本的人権の保障は蹂躙され同条は理由となつている犯罪を令状に明示すべきことを要求しているにかかわらず、本件では逮捕される理由となる犯罪が明示されていない。次に憲法第三十四条に違反し正当な理由がなく拘禁されしかもその拘禁の間に拷問が行われた。又憲法第三十八条に違反して、被告人等に対しては多いものは四十回少いものは十四回にわたり自白を強要する取調があつた。被告人喜屋武由放、同先崎邦彦の供述調書に本人の署名がないことによつても明かである。次に憲法第九十八条に基き此等の憲法違反の見込捜査はすべて無効であると述べ、裁判長は被告人等及び弁護人等の公訴取消の主張につき立会検事に意見を求めたところ、検事川口光太郎は公訴はこれを取消さないと述べ、この時裁判所書記官補佐藤半二は被告人石川政信、同金忠権を除くその余の被告人等に対し各自の起訴状変更請求書と題する書面の謄本を一通づつ交付し、次で検事川口光太郎は被告人石川政信、同金忠権を除くその余の被告人等に対する各起訴状及び起訴状変更請求書と題する書面、被告人石川政信、同金忠権に対する各起訴状を順次朗読し、これに引続き各起訴状変更書に基く変更の許可について検事と裁判長の問答、裁判長の起訴状に関する検事えの釈明とその答弁、裁判長の被告人等に対する黙秘権の告知と被告人等及び弁護人等に対する公訴事実に関する陳述ありや否やの発問、弁護人の起訴状についての釈明と検事のこれに対する答弁があり、次で、被告人飯田七三、清水豊、外山勝将の陳述が記載されている。右記載によれば、裁判所が起訴状朗読前に被告人飯田七三、清水豊、外山勝将、横谷武男、田代勇、宮原直行、伊藤正信、先崎邦彦、金忠権、弁護人布施辰治、林百郎、岡林辰雄、今野義礼、梨木作次郎に、本件は強制並に拷問に基いた無効の起訴であるとの理由による公訴取消要求に関する発言を許可し、特別弁護人鈴木市蔵には検察官から右調書記載のような異論が出た後において、本件が政治的陰謀に出たものであるとの印象を与える理由に基く公訴取消要求の発言を許可し、この発言に関する検察官の異議を却下し、次いで、弁護人布施辰治に本件捜査の不当による公訴取消要求の発言を許可し、検事に対し、公訴取消についての意見を求めたこと、検事から公訴は取消さないとの意思を明示した後はじめて検事の起訴状の朗読が行はれたことが認められる。従つて前記説明のような理由により、原審は訴訟の冒頭手続において、適切な訴訟指揮権を行使しないで、起訴状朗読前には許すべきでないところの公訴取消要求の理由として本案についての被告人及び弁護人の発言を許し、検察官の異議をも却下したのであつて、原審の訴訟手続には訴訟手続の順序を誤り、法の禁止する裁判官に偏見又は予断を生ぜしめる虞のある事項の陳述を許した法令の違反があるに帰することを窺い得るのである。
検察官は前記公判調書の記載に併せて、所論の三鷹事件公判速記録(一)を援用しているので、その援用の当否を判断するに、控訴趣意書には訴訟記録及び原審裁判所で取調べた証拠に現はれている事実であつて明かに判決に影響を及ぼすべき法令の違反があることを信ずるに足りるものを援用しなければならないのであるが(法第三七九条)、検察官は所論のように第一、二回公判調書について、いづれも法第五十一条の法定期間満了前たる昭和二十五年八月二十四日所論の三鷹事件公判速記録(一)にもとづいて同条の公判調書の正確性についての異議申立を為し、右速記録は記録に編綴せられていて公判調書と同様の証明力を有するものと解せられるので、これにもとづいて前記原審第一、二回公判調書に記載された以外の所論の各訴訟手続又は訴訟行為が行はれたことを控訴の理由として主張することは適法であつて、当裁判所においても右資料を検討して所論の訴訟手続又は訴訟行為の存否を判断することができると解するを相当とする。而して右速記録によれば、原審検察官が原審裁判所の許可を得て、速記者をして原審公判廷における裁判所及び訴訟関係人の発言を速記せしめた結果を記載したものであることを認めるのに十分であり、多少不正確な記載があることが認められるが(誤字脱字がある等)、訴訟手続進行情況の大綱を見て行く上には何等の妨げとなるものではない。而してこの速記録と原審第一、二回公判調書の記載とを比較検討すると原審第一、二回公判調書は所論のように簡に失し、原審第一、二回公判期日における訴訟手続の進行は右速記録記載のような順序で進行したものと認めるのが相当である。(検事の法第五十一条にもとづく公判調書の正確性に対する異議申立は理由あるに帰するのであるが、右異議申立は公判調書の正確性を動揺させ異議申立にもとづいて記載された事項について公判調書と同様の証明力を附与するだけで、当該公判調書を無効ならしめるものではない。)
然るに弁護人は異議申立期間経過後の申立であるから、理由がなく且その援用ができないと主張するが、原審第一、二回公判期日が、昭和二十四年十一月一日及び四日(十一月四日及び十八日の誤記と認める。)開廷されたのに、本件異議の申立は前記のように昭和二十五年八月二十四日であるから、時期としては不適当の感があるが、法第五十一条の法定期間は経過してないことが明かであるから、この点に関する弁護人の主張は採用できない。
さて、右速記録にもとづいて、原審第一、二回公判期日における訴訟手続並に訴訟行為の大綱を見て行くと、第一回公判期日(昭和二十四年十一月四日)には冒頭に鈴木裁判長から人定質問に先立ち公平迅速な裁判を期する為、何等かの政治的意図をもつてこの法廷を利用するような行動は許さないとの注意があり、布施弁護人から緊急発言を要求し、裁判長がこれを許可したところ、第一、裁判の重要性についてとして、三鷹事件の鉄道事故、電車事故を国鉄首切りの反対闘争と結びつけ、日本民主化のために闘う日本共産党を弾圧して、日本の民主革命を実践しようとする人民大衆、国民精神(人民大衆の革命精神の誤記と認める。)を抹殺しようとする反動吉田内閣の陰謀に憤激する国民感情の爆発であるとし、第二に裁判の目標と意義は、弾圧検挙の不当を政府当局に警告し、全被告の無罪を主張するにあるとし、第三に「裁く者よ汝も亦裁かれるであろう」といい、第四に弁護人の法廷闘争の態度について、検事の職権濫用、本件起訴の不法不当を衝いて余すところなくその粉砕に努めると述べ併せて、被告人、検事、弁護人、裁判官の自己紹介を提議し、(第三頁乃至第七頁)岡林弁護人は、電車顛覆暴走に名を借りて、労働組合の会合を共同謀議と称し、労働組合を捜索し沢山の人々に罪名を着せようとする陰謀が行はれる可能性が十分であると発言し、(第七頁乃至第九頁)次いで、被告人の人定質問を終了したが、続いて、布施弁護人から重ねて自己紹介を希望し、岡林弁護人から、審理についての被告人の発言を許されたいと望み、裁判長は五分宛に時間を制限して、被告人等の発言を許可した。被告人飯田は検察官及び裁判官の自己紹介を希望し、被告人清水は、検挙の不当を理由とする公訴取消を要求し、(第二一頁乃至第二三頁)被告人外山は、自己紹介の要求と検挙の不当を述べ、(第二五頁)被告人横谷も自己紹介を要求し、被告人田代及び宮原は取調における自白強要を理由とする起訴の不当を述べ、(第二七頁、第二八頁)被告人喜屋武は検挙の不当を、被告人先崎は取調の不当を理由とする公訴取消を要求し、被告人石川から前記の自己紹介を要求し、被告人金も自己紹介を要求すると共に公訴取消を要求し(第二九頁乃至第三二頁)(正当な起訴状を貰つていないことを理由とすると共に人権蹂躙を理由とする)、正午一旦休廷、午後開廷するや布施弁護人から裁判長の許可を得て担当裁判官及び検事を紹介し、次いで、裁判長は弁護人側の要請を容れて、弁護人に事件についての発言を許した。長野弁護人から裁判所の公正を希望し、吉田弁護人及び稲本弁護人から、司法の正しい運用を希望し、田坂、坂田、和光、正木弁護人の同様の発言の後、足立弁護人は本件は政府陰謀であり、人権蹂躙があると主張し、(第五三頁、第五四頁)上村弁護人は本件は平事件、下山事件と同様共産党を弾圧するための政府の陰謀に基づく事件である。検察側は法律を濫用し、不当の起訴をしたものであると種々の理由を挙げて発言し、(第五五頁乃至第五八頁)加藤弁護人の簡単な発言の後、鈴木特別弁護人は、国鉄当局は三鷹事件について、事故原因の調査を遂げないで、司法官憲の捜査に任せたが、これは陰謀によつて事件をでつち上げようとしていたことであると述べ、(第五九頁乃至第六二頁)村川弁護人は検察当局のやり方は人権蹂躙の甚だしきもので、満洲における張作霖の爆死事件の如きものである。本件は政治的陰謀歴然たるものがあると述べ(第六二頁乃至第六三頁)、次いで裁判長は公訴取消問題について弁護人からの意見の開陳を求めたところ、被告人飯田において発言の許可を求めた上、本件の事件の性質について述べて置きたいとして、検事の不当な取調状況を詳細供述し、事件について無罪を主張して公訴の取消を求め(第六三頁乃至第六六頁)、被告人清水も公訴取消要求の根拠乃至具体的事実を述べるとし、検事の取調の政治的意図、不当の取調状況があつたとして事実を詳細に述べ(第六六頁乃至第七八頁)、続いて林弁護人は、検事が起訴状を朗読する前に、本件の公訴自体が無効である。検事は公訴を取消すべきである。それは人権蹂躙によつてでつち上げられた起訴であるからであるとし、その具体的事例を挙げ(第七八頁乃至第八一頁)、被告人横谷は、逮捕から以後の警察官、検事の取調状況を不当なりとして逐一捜査官との細かい問答を挙げて説明し、検事が同被告人の自白をでつち上げたものであると述べ(第八一頁乃至第八七頁)、宮本特別弁護人は、共産党の党員達が本件において事実無根の冤罪を被りつつある。検事は死刑、無期を度々口にして被告人に虚偽の自白を強要した。又共産党の流血革命だと虚偽の宣伝をした。本件は政治的な陰謀に出たものであると述べ(第八八頁乃至九〇頁)、今野弁護人は、検事が不当の取調を為し、その前提として弁護人と被疑者被告人の面会を極度に妨害した。刑務所もこれに協力したばかりでなく被告人らの処遇をも悪くした。このようにして検事が弁護権を制限して自白を強要したのは人権蹂躙であり、本件公訴は無効であるから取消さるべきものであるとし詳細具体的事例を陳述し(第九〇頁乃至第九四頁)、梨木弁護人は、先程来この法廷に現はれた事実、それは全く検察官によつてこの公訴がでつち上げられ、甚だしい人権蹂躙が行はれているという事実が明瞭になつた。立会検事の中に人権蹂躙、職権濫用の罪を以て告訴されている人もあるから、このような検察官が立会うことは遠慮すべきであるとし、本件は政治的意図を以て検挙が行はれた。而も本件は共産党員のやつた無人電車の暴走事故であるとでつち上げて吉田反動内閣に奉仕しようとしたものである。かかる検察官は退廷すべきであるとし(第九四頁乃至第九八頁)、岡林弁護人は公訴の無効と取消の理由として、本件で自白の強要が行はれたことは否定できない事実である。本件は共産党や労働組合を弾圧するためにでつち上げた事件であることが明瞭であるとして具体的な陳述をし(第九八頁乃至第一〇四頁)、林弁護人は、公訴の無効並に取消の主張は極めて重要である。各弁護人ともまだ意見が不十分であると思う。検事が先程布施弁護人がいつたように自分の非を悔いて取り消し、退廷されれば結構であるが、恐らくどんどんやらなければ悟りが出ないと思うから、次回にもう少し公訴の取消無効について述べたいと発言し(第一〇五丁)
第二回公判期日(同年十一月十八日)には、布施弁護人から公判進行についての発言を求め、裁判長の許可を得て、拷問検事退廷要求の処理、不当公訴取消要求についての検事の回答、被告人竹内の自白上申書の問題について発言し、被告人竹内の自白は強制された虚偽の自白であると述べ(第一〇八頁乃至第一一一頁)、勝田検事から、訴訟進行について発言を求め、速かに起訴状の朗読をしたい。前回及び只今の発言等を見ると、刑事訴訟法規に規定するように訴訟が進行していない。前回丸一日を費して訴訟法の規定する手続として履践されたのは、僅かに人定質問だけであつた。多くの被告人及び弁護人からの発言は、被告事件に関する陳述であり、証拠の証明力を争うような主張であり或は証拠調終了後の意見の陳述の如きものであつて、起訴状朗読前に許さるべきものではないのみならず、本件が政府或は検察庁の陰謀であるとの主張、本件捜査過程において数々の人権蹂躙と違法行為が行われたとの主張、本件公訴が無効で取り消さるべきものであるとの主張はいづれも法規の禁止するところであり、起訴状朗読前にこれが許されないことは当然である。先程異議を申述べたところ、発言中とのことで許されなかつたが、発言が終つてからでは意味がなくなる異議もあるから考慮されたいと述べた。(第一一一頁乃至第一一三頁)次いで、川口検事から起訴状の字句変更申請書を提出し、岡林弁護人から特別弁護人の発言の許可を求め、裁判長がこれを許可したところ、川口検事から、特別弁護人の発言内容が前回弁護人から主張された人権蹂躙の事由であるならば、裁判所に予断偏見を与える主張であつて訴訟法の趣旨に反すると発言し(第一一三丁)鈴木特別弁護人は前回弁護人が言つた公訴取消に関する継続的な意見を述べると前提して、要旨としては前記原審第二回公訴調書中の鈴木特別弁護人の発言として記載せられているような陳述を極めて詳細に陳述し(第一一五頁乃至第一二七頁)、その発言の途中勝田検事は先の訴訟進行に関する発言と同趣旨を以て、起訴状朗読後になさるべき旨の異議を述べ、異議を数度繰返し、川口検事も只今の発言は現在の訴訟段階で許されないとの趣旨の発言をしたに拘らず、裁判長は発言を続けてよいと許可し、発言終了後、天野検事は、只今の特別弁護人の発言内容は現在の訴訟段階では許さるべきかどうかに疑がある。発言内容及び検事がその都度立つて異議を申立てたことを公判調書に記載されたいと発言し、(第一一七頁乃至第一二八頁)布施弁護人は公訴取消に関する結論を述べて検事の回答を求めると前提し、要旨としては、前記原審第二回公判調書記載のように発言し(第一二九頁乃至第一三二頁)、裁判長から検事に対し、公訴取消について意見を求め、川口検事から公訴を取り消さないと答え、正午一旦休廷、午後開廷、はじめて川口検事から本件起訴状が朗読せられたことを認め得るのである。
従つて検察官が控訴趣意書に援用している(一)乃至(十三)の弁護人布施辰治等の発言及び特別弁護人鈴木市蔵の陳述(控訴趣意書七頁乃至一九頁)があつたこと、右陳述は総て裁判長の許可を得て、行われたこと、原審第二回公判期日において検事が所論のように再三に亘り異議を申立てたに拘らず、裁判長はこれを認めず、特別弁護人鈴木市蔵の前記のような発言を許したこと、加之右引用以外においてもこれと同趣旨の供述が繰返し行われたことを認めるに充分である。
而して弁護人及び被告人等の公訴取消要求の理由の骨子は本件は強制並に拷問によつて被告人等の自白その他の証拠が蒐せられ、これに基いて公訴が提起されたのであるから無効である。従つてこれを取消すべきであるというのであり、このような主張はそれ自体所謂公訴提起の手続がその規定に違反して無効である場合に該当しないことが明かであり、結局無罪の主張をするに帰するのであつて、無罪の裁判は通常の訴訟手続における冒頭手続、証拠調、弁論を経て、実体的終局判決を以て為さるべきものであることが明かであるから、このような主張を起訴状朗読前に陳述せしむることは、訴訟法の定める訴訟の基本的順序を紊ることになるのである。かつ前記の右陳述中には公訴事実の認否、証拠調の冒頭陳述、証拠調に関する意見、或は証拠の信憑力に関する陳述のように本案の実体的審理の際に述べることのできる事項を含んではいるが、その主張するところが、結局本件は政治的陰謀に基くものであつて、何等の犯罪もないのに不当の検挙が行はれたものであるとする根本的な主張を補充する理由として述べられていることを窺うに充分である。而して右の陳述は、前記説明のように、起訴状朗読前にこれを許すべきでないのみならず、事項としては裁判官に事件について偏見又は予断を生ぜしめる虞のあることは明かであるから、裁判長が、これを人定質問に先立ち或は起訴状朗読に先立ち長時間に亘り、多数の被告人及び弁護人から繰返し陳述させたことは、その訴訟指揮を誤り、前記説明のような理由によつて、訴訟手続の法令違反を来したものということができる。
弁護人は法は有罪の予断を禁止してはいるが、被告人は有罪判決の言渡がある迄無罪の推定を受けるから、裁判官が無罪の予断偏見を抱くことは法の禁止するところではないと主張するが、前記説明のように規則第一九八条と法第一条規則第一条とを併せ考えれば、法は被告人の基本的人権と共に刑罰法令の正当な適用をも所期するものであり、当事者たる検察官及び被告人、弁護人の対等を規定し、双方とも、訴訟法上の権利を濫用すべからざることを定め、検察官に有罪の予断又は偏見を生ずる虞ある事項の裁判官えの提出を禁ずると共に、被告人及び弁護人側にもこの義務を課し、当事者双方に対し、各種の訴訟法の規定の遵守を期待しているものと解せられるから、弁護人の所論は失当である。尚規則第一九八条の規定が憲法違反であるとの所論は前記説明に照し理由がないことが明かである。
よつて、次に、右の訴訟の冒頭手続における法令違反が、明かに判決に影響を及ぼすものであるか否かの点について考察することとする。
第一に、本件記録を通じて見た原審の弁論終結に至るまでの審理の経過即ち訴訟指揮、証拠の採否及びその取調並にその判断、その結論たる判決において、原審裁判官が、前記の陳述によつて、本件について偏見又は予断を抱いたものと認めることはできない。即ち前記第一、二回公判期日以後においても、原審公判廷において、被告人ら及び弁護人らから屡々繰り返えされた捜査過程において被告人らに拷問脅迫を加え、かつ共産党を弾圧する政治的陰謀に基き本件が捏造されたものであるとの主張に対し、原判決は証拠によつてこれらの主張を排斥し、本件取調に当つた検事及び府中刑務所関係官が、被告人らに対し拷問脅迫を加えた事実は認められないとし、政治的陰謀に基いて本件を捏造したとの形迹を認める余地は全然ないと強く宣明しているところであり、
第二に、原判決には後記第四点乃至第六点において説明するように判決主文及びその根拠となる法令の適用に変更を生ずる事実の誤認が認められない。而して訴訟手続における法令違反が明かに判決に影響を及ぼす場合に該当するためには、第一に、右法令違反と判決の誤謬との間に客観的な相当因果関係があり、この法令違反があつたため、当該誤謬が生じたことが明かに判断され、第二、しかもその誤謬が重大で、判決主文及びその根拠たる法令の適用に変更を生ずる場合であることを要するものと解すべきところ、前記のように本件においては原審の審理過程及び判決に、前記の法令違反から来た判決の誤謬が明かに認められないのみならず、判決主文及びその根拠たる法令適用に変更を生ずる程の重大な事実誤認がないのであるから、結局前記の法令違反は明かに判決に影響を及ぼさないものというべきである。
以上の説明のように、所論の一部は理由があつて、原審には所論のような法令違反があるが、右は結局明かに判決に影響を及ぼさないので、原判決を破棄する理由とすることはできない。従つて結局この点に関する所論は採用できない。
〔二〕 第二点 証拠書類の取扱の手続に関する法令違反
現行刑事訴訟法の当事者対等主義、起訴状一本主義の要請にもとづく所論のような諸規定があり、起訴状には裁判官に予断又は偏見をもたせるような書類その他のものを添附し又はその内容を引用してはならないものとされ、裁判所は第一回公判期日には全く白紙の状態で臨む建前となつており、公判の審理は主として当事者双方の攻撃、防禦すなわち証拠調の請求、弁論等によつて進行し、判決は口頭弁論にもとづいてこれを為し、判決の基礎となるものは事実問題にせよ、法律問題にせよ、口頭弁論において当事者によつて充分弁論されなければならないこと、証拠調の方式についても交互尋問等によつて当事者が重要な役割を担当することになつたこと、これによつて裁判所が公平な第三者として実体的真実を発見することを期待していることは所論の通りであり、旧刑事訴訟法の職権主義並に裁判官の訴訟記録事前審理の制度と著しい対照を示していて、旧刑事訴訟法においては所論のような上申書等については訴訟関係書類として訴訟記録に綴ることを通常の事態とし、特に必要ある場合の外はこれについて証拠調を為すことなく、所謂参考書類として訴訟記録の一部とすることに何等の妨もなかつたのであるが、現行刑事訴訟法の下においては、所論の上申書等の取扱については、旧刑事訴訟法当時と同一に律することはできないのである。従つて先ず現行刑事訴訟法の下において訴訟記録の取扱を如何にすべきかについて考察すると訴訟記録は訴訟進行の具体的進行情況に応じて順次に集積されて行くのであつて、起訴状一本主義の結果、通常第一回公判期日迄は起訴状とその送達報告書、弁護人選任に関する回答書、弁護人選任届、第一回公判期日の指定及び召喚状、通知状の送達報告書等以外には書類の編綴が厳に禁止されているのである。然しながら、第一回公判期日を経過すると同期日の公判調書が作成され、その訴訟手続が記載されると共に、同期日に証拠書類並に証拠物が取調べられるならば、当該証拠書類は裁判所に提出されて記録に編綴され、証拠物は領置の手続が取られる。(法第三一〇条)而して若し当該被告人が勾留又は勾留後保釈されている場合ならば、勾留、保釈関係等の書類が勾留に関する処分を担当した裁判官から送付されて訴訟記録の一部となり、爾後第二回、第三回と公判期日を重ねるに従つて、証人又は鑑定人の尋問を含む公判調書が作成され或は公判廷外で裁判所が取調べた証人鑑定人の尋問調書或は検証調書が公判廷に顕出された上記録の一部となるのである。捜査官の押収捜索調書、被疑者又は参考人の供述調書も適法な証拠調が履践されたならば記録の一部となり、公判廷外における証拠調の決定、当事者の証拠調請求書、証人尋問事項書等が記録の一部となることも勿論であろう。
右のように訴訟記録として編綴さるべき各種の書類の中最も慎重な取扱をしなければならないのは、訴訟の本体である当該公訴事実の存否の証明のために使用さるべき証拠書類であつて、証拠書類は公判廷に顕出して証拠調を履践しなければこれを記録に編綴することを許されないと解すべきである。これに反し、その他の書類については、証拠調をしないのを以て通例とし、証拠調を経ないで記録の一部とすることができるのである。各種の送達報告書、勾留保釈に関する書類、押収物の還付に関する書類等がこれに該当する。
而して証拠書類のこのような厳格な取扱は、現行刑事訴訟法が、旧刑事訴訟法に比較して、当事者主義を強化し、口頭主義直接審理主義を徹底し、起訴状一本主義を採用し、裁判官の予断偏見を生ずる事項の陳述を禁じた法意から出て来るのであつて、裁判官が公判廷において証拠調を経ない証拠書類を公判廷外で閲読し得る状態において訴訟記録に編綴することは、右の法意に反し訴訟手続の法令違反を来すものと解せられるのである。而してこのことは審理の如何なる段階にあるかを問はず妥当するものと考えられるのであるが、右の違法が判決に影響を及ぼす蓋然性は第一回公判期日前に最も高く順次公判期日が重ねられて行くに従つて当事者の主張、立証が集積されて行くのであるから、右の蓋然性は低下するものと考えられるのであつて、その違法が判決に影響を及ぼすか否かについての判断には、かかる訴訟手続に違反する書類の提出された時期の問題を重視しなければならない。
而して上申書等の書類が前記の意味の証拠書類であるか否かについては、表題によるものではなく、当該書類が、本案の公訴事実又はこれに関連ある事実の存否に関する主張を含むか否かによつて決定されなければならない。
次に、控訴趣意書において援用し得べき訴訟記録(法第三七八条、第三七九条、第三八一条、第三八二条)とは通常規則第二三五条にもとづいて、第一審裁判所から送付されたものをいうものであつて、第一審裁判所が控訴裁判所え送付する前一旦当該書類を記録に編綴していたとしても、記録整理に際しこれを取外したならば(その理由が他事件の関係書類を誤綴していたことを発見した場合であると、当該事件に関する書類を第一審裁判所の判断によつて記録の一部とすることを不適当と考えて取外した場合であるとを問わない。)控訴裁判所においてはその取外した書類を訴訟記録の一部として取扱うことは許されない。検察官主張のように異議申立期間満了の日における原審裁判所の訴訟関係書類の編綴されたものが、控訴審において援用し得る訴訟記録であるとする根拠に乏しいのである。しかしながら、訴訟書類の取扱方法が不当であつて、一旦編綴してあつた証拠書類が記録から取外された上、控訴裁判所に送付されたものとして、訴訟記録外の事実に基き主張するような異例な場合には、法第五十二条が公判調書の記載について、公判調書に記載された以外の訴訟手続については、他の資料による訴訟手続存在の主張を禁ずる法意でないこと、法第三七七条、第三八三条の規定が、控訴審に送付された訴訟記録に存在しない事由で控訴する場合は検察官、弁護人の保証書又は再審事由、刑の廃止変更又は大赦事由の疏明資料の添附を以て足ると規定しているところから見て、訴訟記録以外の資料によつて、これを裏付け、以て原審における取扱の不当及びこれに基く訴訟手続の違反を主張することが許されると解すべきである。而して控訴裁判所は提出された資料を調査した上、訴訟記録に顕われない事実の存在を認めることができ、その事実が原審の訴訟手続とどのように関連し法令違反を構成するか否かを審査できるものといわなければならぬ。
検察官は原審が公判廷外において、(一)昭和二十五年二月四日附「伊藤正信作成の相川判事宛上申書」(二)同月十一日附「被告人喜屋武由放作成の原審裁判官宛上申書」(三)同年四月五日附「被告人伊藤正信作成の原審裁判官宛の上申書」(四)同月十九日附「被告人喜屋武由放作成の原審裁判官宛の上申書」(五)同月二十六日附「被告人喜屋武由放作成の原審裁判官宛の上申書」(六)同年五月五日附「被告人宮原直行作成の原審裁判官宛の上申書」(七)同年七月十四日附「被告人田代勇作成の原審裁判官宛の上申書」(八)同月十五日附「被告人伊藤正信作成の原審裁判官宛の上申書」(九)同月十七日附「被告人宮原直行作成の原審裁判官宛の上申書」(十)同月二十六日附「被告人喜屋武由放作成の原審裁判官宛上申書」の十通の上申書を受理しながら、これを公判廷で検察官に示し或は検察官の意見を求める等法定の手続をしないで、これを訴訟記録に編綴しながら、控訴裁判所に訴訟記録を送付する際右上申書中(三)及び(四)の二通を除く他の八通を訴訟記録から取外した上、記録目次の該当個所の記載を抹消し、或は上申書の編綴してあつた間の丁数を落丁とした(検察官は原審における判決言渡後、原審裁判官の許可を得て訴訟記録の謄写をした際、右上申書十通を発見したので、昭和二十五年九月十九日から同月二十七日までの間において、筆写に代えてこれを写真に撮影しこれを控訴趣意書末尾に附録(一)として添附したと主張する)と主張するので、これを調査すると、先ず原審送付に係る記録中に、第二二冊一五五丁一五六丁に所論(三)の被告人伊藤正信作成の上申書、第二四冊二二一丁二二二丁に所論(四)の喜屋武由放作成の上申書がそれぞれ編綴されていること、記録第一七冊三〇五丁が落丁となつていること(検察官が所論(一)の被告人伊藤正信作成の上申書が編綴されていたと主張する個所)、記録第一八冊二一五丁乃至二二〇丁及び第二三冊二三一丁、二三二丁が落丁となつていること(所論(二)及び(五)の被告人喜屋武由放作成の上申書が編綴されていたとする個所)、第二四冊一二九丁、一三〇丁が落丁となつていること(所論(六)の被告人宮原直行作成の上申書が編綴されていたとする個所)、第二九冊一四〇丁乃至一四三丁が落丁となつていること(所論(七)の被告人田代勇作成の上申書が編綴されていたとする個所)、原審が所論(三)、(四)の上申書について証拠調を経ていないことが認められ、これと前記検察官が控訴趣意書に添附した提出した附録(一)の各上申書の写真とを彼此対照検討すると前記の検察官の主張する事実即ち原審が所論の(一)乃至(一〇)の上申書を受理し所論(七)の上申書を除きこれに受附印を押捺しこれを公判廷で検察官に示し或は証拠調をしないで一旦記録に編綴したが、記録整理の際にその中所論の八通を取外したことはこれを認めることができる。而してこの事実は控訴審でこれを主張できることは前記説明の通りである。(主張し得る理由が、検察官所論のように訴訟記録の一部であるからとの理由でないことも前記の通りである。)
よつて進んで訴訟記録及び前記控訴趣意書附録の写真について所論の(一)乃至(一〇)の上申書の内容が前記の証拠書類に該当するか否かについて見ると所論(一)の伊藤正信作成の上申書には、所論引用のような記載はあるが、右上申書の内容は全体を通じて見ると、接見並に物の授受禁止中に差押えられた手紙の交付不許可を取消してこれを交付されたいとの趣旨に帰し、その附随的理由に所論引用のように相川裁判官が検事調書を見ながら、これを確めるような尋問をしたと批難しているに過ぎないものであつて、この程度の記載があるだけでは直ちに証拠書類となるものとは解し難い。たとえば保釈請求関係書類に有罪或は無罪を主張又は自認し、又は犯罪事実の存否に関する記載があるとの一事を以て直ちに証拠書類としての取扱をしなければならないということはないと同様である。所論(二)の喜屋武由放作成の上申書には、所論の通り、第十七回公判における事実関係について意見を述べるとし、証人黒川義直に対する偽証被疑者としての逮捕を非難し、本件が法律を無視したデツチ上げであること、無罪であることは必然だと思うが、証拠不充分で無罪というのでは納得しない等の記載即ち犯罪事実の存否に関する供述であることが明かであるから、証拠書類であることは明かであるが、特に信用すべき情況も認められないからその証拠能力について第三二二条の被告人の利益な供述を含むものとしての制限を受けているのである。しかし所謂証明力を争う証拠として提出することはできるのみならず、相手方たる検察官の同意があるならば、右証拠能力の制限も亦解除せられるのであるから、この種の上申書の受理その他の手続については慎重な取扱を必要とし、(本来この種書面は当事者において公判廷において裁判所に提出し、裁判所は相手方の意見を求めた上これを証拠として採用するか否かを決定するのが本則であるが、旧刑事訴訟法当時の取扱が完全に払拭されないで、当事者から、かかる書類が郵送その他の方法で直接裁判所又は裁判官宛に送付せられ、書記課においてこれを受理しているのが現状である。)裁判所において、公判廷で当事者から、当該上申書等の証拠書類が提出されたことを告げ且これを相手方に示し、その証拠調についての意見を聴き、法第三二二条に所謂特に信用すべき情況の下に為された供述であるか否かについての審査を遂げその採否を決定しなければならず、若し特に信用すべき情況が認められなければ、相手方の同意なき限り証拠調はできないのであるから、これを直ちに提出者に返還する等適切な措置を採らねばならない。若し特に信用すべき情況があり或は相手方が同意したならば、これを証拠調した上、記録に編綴すべきである。それ故、かかる手続を怠り、本来速やかに提出者に返還する等適当な措置を採るべき書類を公判廷においてこれを相手方に示すことなく、証拠調を経ないで、これを記録に一時的にもせよ編綴しこれを閲読審査し得る状態に置いたことは訴訟手続において証拠書類の取扱に関する法令の違反があつたものと解せざるを得ないのである。(記録送付の際取外されたものと認められるが、受理後その際迄編綴されていたことは明かである。)
次に所論(三)の被告人伊藤正信の上申書は、捜査過程における事実を申述べると前提して、所論のように神崎検事の供述調書の作成を「一旦検事の頭で蒸溜され脚色されたもの」と述べ、相川判事の尋問調書は検事調書の丸写しであり、自分はただ署名するために呼出された感があつた、宣誓書を読まず、偽証の罰も告げられていないと述べ、尚本件発生当時の自己の行動について言及したものであり、前記(二)の上申書と同性質を持ち特に信用すべき情況の下に作成されたとは認め難い証拠書類である。
所論(四)の被告人喜屋武由放作成の上申書には所論のように、被告人伊藤、横谷の自白調書は検事の脅迫誘導によつて作られたものであること等が述べられている外、府中刑務所における取調の際の神崎検事の脅迫事実を主張したものであるから、前記(二)の上申書と同様の性質を持ち、特に信用すべき情況の下に作成されたとは認め難い証拠書類である。
所論(五)の被告人喜屋武由放作成、所論(六)被告人宮原直行作成の各上申書の内容も亦所論のように本案に関係ある事実の陳述を含む前記(二)と同様の証拠書類であると認めるのを相当とする。
次に所論(七)乃至(十)の各上申書はいづれも各被告人から最終陳述の補足として提出されたものではあるがいづれも相当詳細な本案に関する事実の供述を含むものとして、いづれも所論のような内容を持ち、前記(二)と同様の性質の証拠書類であると解するに妨げない。
従つて所論(三)乃至(十)の各上申書についてはいづれも原審において、所論(二)の上申書について説明したと同様の証拠書類の取扱に関する違法があると謂うことができる。
然しながら、前記の訴訟手続に関する法令違反が判決に影響を及ぼしたか否かの点については(一)原判決が単に公訴事実の証明不充分であることを理由としないで、公訴事実不存在の判決をしたこと、(二)此の種事実においては裁判官に対する供述なるが故に特段の証明力を認める訳には行かないと判示し、被告人伊藤の自白を郷里に移り平穏な家庭生活を回復したいとの希望からなした虚偽の自白であると判示していること、(三)原判決に証人楠名倭夫の原審公判証言について、同証人が事故発生に驚き当時冷静な観察をしたとは思えないとの記載があることが、所論のように前記の上申書の記載を基礎として認定せられたものと速断することはできないのであつて、右各原審認定の根拠は後記説明のように原審が本件にあらわれたあらゆる証拠を検討した結果出て来たことが認められるから、((一)の認定は全証拠の比較検討から出て来た結論であり、(二)の認定は被告人伊藤の検事に対する多数の供述調書の検討並に被告人横谷、同竹内、原審証人栗原照夫等の原審公判廷における供述、検事に対する供述調書の比較検討からの結果であり、(三)の認定も亦被告人宮原の原審公判廷における供述その他の資料と右証人楠名の原審公判廷における供述とを比較検討した結果であることが認められるから。)前記各上申書と右(一)乃至(三)の認定との間に相当の因果関係があり、これが原判決の事実認定に直接又は間接の影響を及ぼしたものとは認め難い。むしろ前記説明のようにかかる証拠書類としての上申書の取扱の違法が判決に影響を及ぼす蓋然性は訴訟の初期の段階において強く、順次その影響力を減少して行くのを通例の事態とするのであり、前記(二)の上申書は既に第一七回公判期日を経過した後、(三)の上申書は第三四回公判期日頃、(四)の上申書は第三七回公判期日後、(五)の上申書は第四〇回公判期日頃、(六)の上申書は第四十一回公判期日頃、(七)乃至(十)の上申書は弁論の終結された第五十九回公判期日(昭和二十五年七月十四日)後において提出受理されたものであつて、他の証拠調を経た尨大な証拠書類があり、多数の証人が取調べられた本件においては、その影響力は極めて微弱であつたものと考えられるから、結局前記違反は判決に影響がなかつたものと認めざるを得ない。従つてこの点に関する所論は結局これを採用することはできない。
〔三〕 第三点 刑事訴訟法第三二八条の証拠に関する法令違反
原判決が本件公訴事実中共謀の点に関する証拠として検察官が提出した証人栗原照夫、黒川義直、金沢卓、大久保安三の裁判官の尋問調書の信憑力を検討するに当り、所論(一)乃至(四)のように、それぞれ検察官が原審公判廷における同証人等の供述の証明力を争うために、法第三二八条の証拠として提出した検事に対する供述調書(反証)を援用して、結局前記裁判官の各証人尋問調書の信憑力を否定していること、右各供述調書はこれより先検察官が刑事訴訟法第三二一条第一項第二号の証拠書類としてその取調を請求したものであるが、原審においてその採否を留保したので、法第三二八条によつて、前記証人等の公判廷における供述の証明力を争うために提出したものであることはいづれも所論の通りである。而して、右第三二八条は「第三二一条乃至第三二四条の規定により証拠とすることができない書面又は供述であつても、公判準備又は公判期日における証人その他の者の供述の証明力を争うためには、これを証拠とすることができる。」と規定しているのであるが、前記の原審のこの種の証拠に対する取扱方法が所論のように、この規定に対する違反となるものか否かについて検討することとする。元来伝聞供述の一種と考えられている証拠書類(書証)は第三二一条乃至第三二四条の規定に該当する場合にだけ事実認定の資料となり得る証拠能力を有するものとされるが、右規定はこのような証拠能力を有しない証拠書類(伝聞の一種)又は伝聞供述であつても、事実認定の資料として使用するのでなければ伝聞禁止の例外として、公判準備又は公判期日における被告人、証人その他の者の供述の証明力を争うためには証拠として使用できるものとし、当事者が当該被告人証人その他の者の反対訊問に使用し又はその供述の反対証拠にこれを使用することを得させようとするものである。従つて本条の証拠には先づ第一に、本案の犯罪事実の存否の認定にこれを使用することができないという重要な制限があり、第二に、その使用目的は公判準備又は公判期日における被告人、証人又はその他の者の供述の証明力を争うためにだけ限定されている。それ故、その制限を超えこれを第一に、犯罪事実の存否を認定する資料として使用すること、第二に公判廷又は公判準備期日における被告人証人その他の者の供述の証明力を争い、その証明力を減殺又は中和するという限度をこえて、これを物証、公判調書、公判準備期日の調書以外の書証(証拠書類)の証明力を争うために証拠とすることはできない。この制限に違反することは本条の証拠の使用を誤つたことになるのである。
而して同条が証明力を争うために証拠とすることができると規定しているところから見て、これは一応訴訟当事者に課せられた証拠の使用制限に関する規定と解せられるけれども、前記第一の制限に違反して犯罪事実の存否認定にこの証拠を使用したならば、裁判所の訴訟手続が本条に違反したこととなるのである。
次に裁判所が、第二の制限に違反して当事者から第三二八条の証拠として提出したものを同条の規定する目的以外に使用した場合についても第一の場合と同様に解すべきである。これを本件について見ると、検察官は前記証人等が原審公判廷で検事の供述調書と異なる供述をしたので、その供述の証明力を争うために、本条の規定によつて反証として検事の供述調書を提出したのである。かかる場合においては、裁判所としては、前記第一、第二の制限に従い当事者の使用目的に従つてこれを同証人等の公判廷における証言と対照検討し、その証言の証明力、信憑力を決定する資料としてのみこれを使用するのが相当である。その資料を以て証人等の公判廷における供述の証明力が減少し或は覆えされたか或は当該資料によつてはその証明力を減殺し得ないと見るかはもとより裁判官の自由心証に任されているのであるが、この限度をこえて犯罪事実の存否の判断に使用し得る他の証拠と同様の取扱をして、これ等の証拠と彼此対照し、争おうとする供述以外の他の証拠能力ある証拠の信憑力、証明力に影響を生ぜしめるが如きは、本条が伝聞証拠に極めて限られた証拠能力を附与した趣旨と相反し、本条の証拠が恰も、通常の証拠能力ある書類又は供述と同一の証拠能力を有するが如き結果を将来することとなるのである。
然るに、原審は前記説明の通り、検察官が、原審公判廷における証人栗原照夫、黒川義直、金沢貞、大久保安三らの供述の証明力を争うため、反証として提出した検事に対する供述調書を、法第三二八条の制限に違反して、他の証拠たる前記裁判官の各証人尋問調書と比較対照してその信憑力を否定し、以て、宛も犯罪事実の存否の判断に使用し得る他の証拠と同様に取扱うと共に、検察官の使用目的の限度を超えてこれを使用したのであるから、原審は証拠の使用を誤り訴訟手続の法令違反となるものといわねばならない。
よつて進んで、右の証拠の使用に関する法令違反が判決に影響を及ぼすか否かについて案ずるに、後記第五点第一節第三款第三項二、において説明したように、右証人等の各尋問調書はその信憑力が極めて薄弱であつて、原審が右反証を使用した誤謬による影響を左程大きいものと認めることはできないのであり、若しその誤謬がなければ前記証人等の裁判官尋問調書の信憑力が支持せられ、これによつて直ちに本件公訴事実認定の有力な資料となし得るものとは解し得られないので、結局右法令違反と証拠価値の判断の誤との間に相当因果関係を認められないのである。又後記第四点乃至第六点で説明したように、原審には判決主文及びその根拠たる法令の適用に変更を生ずるような事実誤認がなかつたのであるから、右の違反は判決に影響を及ぼすものということができない。従つて所論は結局採用することができない。
〔四〕 第七点 理由のくいちがい
原判決が被告人竹内の単独犯行を認定し、その他の被告人等については「被告人らは何れも当公廷において強くこれを否認しており、当裁判所は当公判廷に顕はれたすべての証拠を綿密に検討して慎重に合議を重ねた結果、既に『第一、被告人竹内景助に関する部分』において判示しているように、右電車の発進は、被告人竹内の単独犯行によるものであつて、他の被告人等はこれに関係ないことを同所に掲げた全証拠によつて認定した。このことはおのづから右認定に反する証拠をすべて措信しないことを意味する」として無罪を言渡し、共同犯行否定の事情として動機の不明なこと等十点を挙げ、最後に本件が被告人らの共同犯行であるとの公訴事実は全く実体のない空中楼閣であると判示していることは所論の通りである。
有罪判決を言渡すには罪となるべき事実、証拠の標目及び法令の適用を示し、法律上犯罪の成立を妨げる理由又は刑の加重減免の理由となる事実が主張されたときは、これに対する判断を示さなければならないのであるが(法第三三五条)、無罪判決には、被告事件が罪とならないこと又は被告事件について犯罪の証明がないことを理由として無罪の言渡をすれば足り(法第三三六条)、有罪判決に要求される程の厳格にして充分な理由を備えることを必要としない。もとより法第四四条による裁判には理由を附すべしとの要請は無罪判決にも適用せられるのであるが、公訴事実自体が罪とならないこと、或は公訴事実が証拠上これを認めるに充分でないこと又は公訴事実は存在しないこと等の理由を合理的に説明するを以て足り、公訴事実不存在の認定をなすには有罪判決と同様な厳格な証明又は証拠説明を必要とするものとは解し難い。ただ原審は本件事案の重大性に鑑み特に共謀に関する部分の無罪理由を詳細に掲げたまでである。所論は独自の見解であつてこれを採用することはできない。
而して、本件は被告人竹内を含む飯田ら十名の電車顛覆致死被告事件として起訴されたのであり、被告人らの共同犯行の事実の存否が、常に原審の審理の全過程を通じて、その対象となつて来たものであることは、本件記録全体を通じて、明確な事実であるから、原審は当事者たる検察官及び被告人弁護人ら双方の提出した証拠並に原審が職権で取調べた証拠を常に右公訴事実と対照して検討したものであり、証拠の内容が極めて複雑で、その間に各種の矛盾不統一が見受けられるのであるから、原審がその証拠価値の検討、信憑力の決定に非常な苦心を払つたことはこれを窺うに十分である。これを本件の中心を為す共同謀議の成否とこの謀議にもとづく実行の点だけに限定して見ても、被告人竹内の単独犯行の供述(公判廷に於ける供述及び検察官に対する供述調書)に相対立して、同被告人の共同犯行の供述(裁判官の尋問調書と検事に対する供述調書)、被告人横谷の供述、同伊藤の供述(裁判官の尋問調書と検察官に対する供述調書)があり、同一被告人の供述についても時の経過に伴い、その供述が変化し、その間に矛盾不統一が生じ、そのいづれの時における供述が正しいのか、或はすべてが正しくないのかについて検討するに多大の苦心を必要とするのみならず、かくして一被告人の供述について供述全体から一貫したものを発見できても、これが更に他の被告人の供述と矛盾し、そのいづれを信用し得るか又はいづれも信用できないか等の検討に困難を生ずるのである。かくして原審はこれ等尨大な証拠群を綿密に検討して行つた結果被告人竹内の単独犯行の供述こそ、最も信用し得る証拠であると認めたものであり、原判決の説明中には後記のように、妥当でない部分もあるが、それだけでは、理由不備の結果を来す程の不当なところは認められないのである。蓋し絶対的控訴理由としての理由不備とは、判決自体の理由において不充分でなければならないのであり、記録全体を精査した結果、記録に顕われた証拠と判決とのくいちがいの如きは、事実の誤認又は法令違反となるに過ぎず、絶対的控訴理由とならないものと解すべきであるからである。
次に数人共同の犯罪が公訴事実である場合には、証拠関係によつて或は一人の犯行は認められるが、他の者の共同加功の事実の有無について証明が十分でないと認められる場合もあり、或は択一的に単独犯行が認められることによつて共同犯行が否定される場合もあるから、後者の場合においては、単独犯行を認定する以上は共同犯行が排斥されることは論理上当然であり、所論のように論理の飛躍はない。検察官は被告人竹内の単独犯行であるとの認定からいい得ることは他の被告人らはこれに関係があるかないか判らないということだけであると主張するが、右説明の通り、事案によつては、共同犯行の起訴に対し、単独犯行が認められて、他の者については証明不充分である場合もあり得るけれども、本件においては共同犯行の各証拠を検討し、その証拠価植を否定し、その他に共同犯行を推認し得る何等の資料もないとして、公訴事実は存在しないものと認めたものであつて、このような認定も可能であるから、所論は失当であり、到底採用できない。
原審が被告人竹内の単独犯行の認定に引用している所論の平山検事に対する被告人竹内の供述調書中に他の組合員が「モーターに水をかけろ」「一旦停止で脱線させろ」「電車をグランドに落せ」「今日あたり立てば全国一斉に立てる」「今日あたり、何とかしなければならぬ」等尖鋭な言葉が交はされた旨の記載はあるが、これが所論のように、被告人竹内が本件犯行を決意する上に何らかの影響を与えたとしても、そのことから直ちに被告人竹内の単独犯行に他の組合員が関与していることを認定する資料とすることはできないことは後記第四点乃至第六点において説明の通りである。
又原審が本件共同犯行を否定する事情として動機不明等十点を挙げて判示している点については必ずしも所論のような証拠説明を要するものではなく、所論の「七月十五日夜高相健二方の三鷹電車区細胞会議は本件電車の発進に関し特に設けられたものでない」との点及び「本件発生当夜電車発進現場附近で、被告人竹内以外の本件被告人らを時間的、場所的に本件電車発進に近接して目撃した者がない」との点については後記第四点乃至第六点の説明のようにいづれも本件記録を通じてこれを認め得るところであるから、この点に関しても原審には何等の違法もない。従つてこの点に関する所論はすべて失当である。
〔五〕 第四点 審理不尽に因る事実誤認、第五点 経験則違反に因る事実誤認、第六点 採証法則違反に因る事実誤認
第四点乃至第六点はいづれも原判決の事実の誤認を主張し、第四点は原判決は予断偏見に基いて審判の請求を受けた公訴事実について十分の審理を尽さず濫りに独断臆測を用いた結果、事実を誤認したものとし、第五点は、原判決は著しく経験則に違背して証拠の価値判断又は採証をした結果事実を誤認したものとし、第六点は、原判決は採証に関する法則に違反して証拠の取捨並に価値判断をした結果事実を誤認したものとし、いづれもその誤認が判決に影響を及ぼすものであるから、破棄せらるべきものであると主張し、その控訴趣意は原判決の理由特に無罪部分の理由の全部に亘つて詳細に述べられているので、以上の第四点乃至第六点の事実誤認に関する控訴趣意を一括し、原判決の無罪の理由を中心として、原判決に所論のような事実の誤認があつたか否かを判断することとする。
当裁判所は事後審としての立場から、控訴趣意と対照しながら、原判決の理由の当否を検討するため、本件記録全部を通読し、殊に公判調書、証拠書類及び証拠物を綿密に調査したのであるが、先づその結論を概括的に示せば左の通りである。
第一、本件記録には本件公訴事実について犯罪の成否を判断し得べき十分な資料があり、原審の審理には検察官が第四点で主張するような審理不尽はないこと、従つて審理不尽による事実誤認を主張する論旨は理由がないこと。
第二、検察官の主張する第五点経験則違反による事実誤認、第六点採証法則違反による事実誤認の論旨については一部理由があるものがあるが、その事実誤認は判決主文及びその根拠となる適用法令に変更を生ぜしめるものではなく判決に影響を及ぼすほど重大なものでないこと、従つてこの点に関する所論も結局理由がないこと。
その理由を以下に詳細に述べることとする。
尚本件を見て行く上に重要と思はれる点を冒頭に概括的に説明すると、次の通りである。
一、本件発生当時の一般社会情勢並に労働情勢及びこれを反映した三鷹電車区における労働組合をめぐる情勢は悪化していて、相当緊迫した空気に包まれていたが、この情勢が直ちに本件起訴に係る共謀による無人電車発進計画と結びつかないこと、従つて他に適確な証拠があるならば、この情勢は情況証拠となり得るけれども、それ自体ではいづれとも決し難いこと。
二、この事故は一人でも発生せしめることが可能であつて、数人の共謀によらなければ、実行することができないことは考えられないこと。
三、本件事故には二人以上共謀してこれを起したものであるとする確実な物的証拠又は動かすべからざる客観的証拠がないこと。
四、本件は非常に重大な結果を発生したのであるが、これを実行した者が、このような重大結果を望んで実行したものとは断定できず、却つて組合運動を有利に展開する手段――首切りに対する反射的手段――と見るのが妥当であること、即ち当時三鷹電車区の空気は相当険悪であつたので、警戒のため鉄道公安官数名が同電車区に来ていたので、若し重大事故が発生したならば、犯罪捜査活動が直ちに開始される状況にあり、捜査活動が開始されると、組合活動は不可能となるような事情にあつたこと。
五、従つて本件では、被告人伊藤、横谷、竹内、外山らの自白を信憑し得るか否かが中心問題になつて来るのであつて、これを情況証拠と対照検討する必要があること。
六、本件の証拠関係は極めて複雑多岐で、証拠相互間特に被告人等の自白調書相互間に矛盾不統一が多数存在し、その間から真相を発見することは曽て前例がないと考えられる程困難であること、従つて、その矛盾不統一が甚だしく、事実の確定ができない場合或は正しいと考えられる部分だけの証拠だけでは、本件公訴事実を認定するに不十分である場合には証拠法の原則の結果、証明不十分として無罪の言渡をすることは、訴訟法上の結論として当然出て来ることであること。
七、本件は被告人ら及び弁護人らの主張するような政治的陰謀でないことが明かであること。
八、本件の捜査過程において、被告人ら及び弁護人らの主張するような検事の強制、拷問、脅迫による取調又は刑務所関係官らの不当行為は認める余地がないこと。
本件公訴事実の要旨は、
「被告人飯田七三、同清水豊、同外山勝将、同横谷武男、同田代勇、同宮原直行、同伊藤正信、同喜屋武由放、同先崎邦彦、同竹内景助らは共謀の上、東京都北多摩郡三鷹町上連雀、国有鉄道三鷹電車区電車車庫内に停車中の電車を擅に発進させ、運転者なしで暴走させようと企て、昭和二十四年七月十五日午後九時二十分頃右謀議に基いて、被告人横谷武男、同竹内景助の両名が同車庫一番線に入庫中の七輛連結車の発進操作をし、無人でこれを三鷹駅下り一番線に向け驀進させて電車の往来に危険を生じさせ、因て同電車を同線車止を突破して脱線、顛覆、破壊するに至らせ、折柄同駅及び附近に居合わせた秦俊次、藤見正義、長谷川一道、海後隆一、遠山菊介、亀井静武を轢死させたものである」というにあつて、検察官の冒頭陳述要旨第一の八(記録第一四冊二六九丁以下)によると検察官主張の本件犯罪の動機は「被告人らはかねてより国鉄の行政整理に反対する闘争を行つていたが、思うように効果が上がらず、七月四日第一次整理、同月十四日第二次整理と逐次情勢が窮迫するに拘らず、一挙にストライキに入ることはもとより、遵法闘争に突入するにも機運が熟せず、何等かの方法により局面を打開する必要に迫られていたので、一つにはかねて危険であると宣伝して来た所謂六三型電車の自然事故と宣伝して宣伝効果を上げるため、一つには車庫入口を顛覆電車で一時閉塞することにより、間引運転と同様の効果を上げ、あわよくば全国的闘争の立上がりのきつかけにしようとしたもので、これに馘首に対する個人的憤懣、当局に対するいやがらせなどの気持が加わつていた」というのである。
而して、右公訴事実の中昭和二十四年七月十五日午後九時二十分頃東京都北多摩郡三鷹町上連雀国有鉄道三鷹電車区車庫一番線に入庫中の七輛連結電車が発進し、無人で三鷹駅下り一番線に向け驀進して、同電車が同車止を突破して脱線、破壊するに至り、その際同駅及び附近に居合わせた秦俊次、藤見正義、長谷川一道、海後隆一、遠山菊介及び亀井静武を轢死させたことは、原判決が説明するように(原判決三二丁表)、原判決が被告人竹内の単独犯行認定の証拠として挙げた原審証人山地巧、同芝義一、同御園浜吉、同中島英治、同小峰勇、同藤田理吉、同氏井辰五郎、同新川盛親、同名取義光、同加藤武雄、同武井利勝、同石井幾子、同下田留吉、同宮下憲太郎の供述、検事磯山利雄外三名作成の検証調書の記載、原審の昭和二十四年十二月十九日附検証調書の記載、原審証人篠塚春夫の供述、同東義胤の供述、鑑定人東義胤作成の鑑定書の記載、証人西山誠二郎の供述、鑑定人西山誠二郎作成の鑑定書の記載、押収の紙紐三本の存在、鑑定人斎藤銀次郎、同中館久平作成の秦俊次、藤見正義に対する鑑定書の記載、鑑定人斎藤銀次郎、鶴田亘璋作成の長谷川一道に対する鑑定書の記載、鑑定人斎藤銀次郎、同中館久平作成の海後隆一に対する鑑定書の記載、鑑定人中館久平、大村淳作成の遠山菊介、亀井静武に対する鑑定書の記載、検事橋詰利男の藤見正義、長谷川一道、海後隆一、遠山菊介、亀井静武に対する検視調書の記載によつてこれを認めることができる。更に、右電車の発進が人為的に為され、自然発車によるものでないことも右の証拠によつて明かであつて、以上の点については何等の争もないので、本件の中心は、右人為発車が、被告人飯田外九名の共同謀議に基くものであるかどうか、或は原判決認定のように被告人竹内の単独犯行であるのかの一点に帰するのである。而して被告人竹内については、同被告人の自白調書、証人坂本安男の供述等によつて右人為発車を実行したことが確実に認定できるから、被告人竹内を含め、被告人飯田ら十名が何時、何処で、何のような相談をし、その相談をどのように実行したかが立証されなければならないのであり、検察官は証拠調段階における冒頭陳述において、電車を発進せしめた者は被告人竹内、同横谷であり、その方法はコントローラーを針金を使用して開錠の状態にしこれを三ノツチに入れ、その頭の部分と運転士報せ灯の電気回線との間を紐で結びつけた上パンタグラフをあげ、同被告人等は電車発進前運転台よりとび降りる方法によつた(第五項)、右のように電車を運転士なしで走らせることについては被告人飯田ら十名の間に謀議が行はれ(第六項)、右謀議は十被告人の間に七月十日頃から同月十五日頃までの間に三鷹電車区内国鉄労働組合の三鷹電車区分会事務所、同電車区内整備第二詰所の古電車及びその附近並に三鷹駅前高相健二方等においてよりより数回に行われたものであつて、共同謀議の狙いは電車を車庫出口の一旦停止の点で脱線顛覆せしめるにあつた{第七項、後にこの点を七月十日頃古電車((整備第二詰所))内に被告人竹内、宮原を除いた他の被告人等及び小野明、栗原照夫、志村広己等が集つて会合を開き、電車でも走らせたらという様な話をし、七月十五日昼過組合事務所に被告人飯田、横谷、伊藤等が居り、此所に集つた人達の間に本件に関する話が出、引続き同日午後一時から三時頃までの間に前述の古電車内に被告人喜屋武、外山、清水、横谷、田代、先崎、伊藤等が出入し、随時組合事務所とも往復して謀議が進められ、その結果、被告人横谷が組合事務所附近で被告人竹内に本件の話をし被告人竹内もまた右古電車内に行つて、被告人飯田達と話をした、尚同日夕刻被告人横谷が被告人竹内とその自宅附近で話をし、又同日夜前述の高相会議でも本件の話が出たと釈明された。}、被告人竹内は事件当夜自宅より車庫一番線の電車に行き運転台に入り、被告人清水、外山、横谷、田代、宮原、伊藤は、同夜三鷹駅前高相健二方において、被告人飯田、喜屋武、先崎及び金忠権、石川政信等と会合中午後九時頃高相方を出て一番線の電車附近に行き被告人横谷は運転台に入り、残りの被告人清水、外山、田代、宮原、伊藤は右電車附近等で看視をし、被告人飯田、喜屋武、先崎は事故発生まで高相方に居り結果の報告を待つていた、(第九項)と述べているのであるから、本件が被告人飯田ら十名の共謀による共同犯行であるというためには以上の各項就中同被告人らの共同謀議が立証されなければならない。
検察官は第四点の冒頭(控訴趣意書第五八頁乃至第九九頁)において、裁判官相川米太郎の被告人伊藤正信に対する昭和二十四年八月二十八日附証人尋問調書外五七の証拠を挙げて、その証拠を綜合すれば、本件公訴事実の証明は十分であると主張するのであるが、
(一) 被告人伊藤に関する所論の裁判官の尋問調書(一、二)については、原判決が挙示しているように(判決第六四丁乃至第八六丁)右尋問調書作成前の十数回に及ぶ検事に対する供述調書並に上申書等があり、これ等と右尋問調書との間には密接な関連があるものと考えられるのであるから、その信憑力は、原審が説明しているように(判決第八八丁乃至第一〇一丁)これ等の証拠と共に被告人竹内及び横谷らの供述調書等との比較検討、各自白の相互影響と自白の原因について十分の検討を経た上でなければ決定できない。
(二) 被告人竹内に関する所論の裁判官の尋問調書(三、四)、検事平山長に対する供述調書(一七)については、原判決の説明の通り(判決第三二丁乃至第五二丁)その他に多数の供述調書、上申書があり、相互間に密接な関連があり、その他に原判決が挙示した同被告人の単独犯行に関する供述調書を初め多数の検事に対する供述調書があり、これ等と被告人横谷、同伊藤らの供述調書との比較検討等被告人伊藤について右(一)に説明したような点について十分検討しなければ、容易にその信憑力を決定できない。特に被告人竹内の供述調書については、原判決が説明するように(判決第三二丁)、同被告人は平山検事の取調に対し、当初本件犯行を否認していたが、昭和二十四年八月二十日初めて本件の単独犯行を全般にわたり相当詳細に供述し、その後同趣旨の供述の態度を続けたが、全被告人が起訴された後である同年九月二十九日、三十日の神崎検事に対する供述調書において本件の共謀を供述する兆しを示し初め、十月十四日の上申書では全面的に本件共同犯行を認めるに至り、前記十月二十八日の相川裁判官の証人尋問調書における供述まで、その態度を維持しているのであるから、単独犯行の供述を信頼し得るか、共同犯行の供述を信頼し得るかが、本件の成否を決する鍵であるから、特に慎重な調査を必要とする。
(三) 被告人横谷に関する所論の上申書(八及び十三)検事に対する供述調書(一四乃至一六)についても、右(一)(二)と同様、原判決が説明するように(判決第五二丁乃至第六三丁)その他に多数の検事に対する供述調書、上申書等があり、その供述自体において、矛盾、不統一があつて一貫したものがない上に、被告人竹内、同伊藤らの供述調書との間に矛盾、不統一が多数存在するので、これらを綿密に調査しなければ、その信憑力を決定できない。
(四) 所論の被告人外山の検事に対する供述調書(一八)についても、原判決の説明しているように(判決第八七丁第八八丁)検討すべきものがあり、被告人横谷、同伊藤、同竹内の自白調書との関係を検討してはじめて、その信憑力が決定される。
(五) 所論の黒川義直に対する証人尋問調書(五、六)、栗原照夫に対する証人尋問調書(七、二一)、同人の裁判官に対する陳述調書(二二)、金沢卓に対する証人尋問調書(一九)、大久保安三に対する証人尋問調書(二〇)、志村広己に対する証人尋問調書(二三)、検事に対する加藤一郎、小野明の供述調書(二四、二五)についても亦その内容自体の検討と共に前記被告人伊藤、同竹内、同横谷、同外山らの自白調書との比較検討を要すべきものがあり、その上でなければその信憑力を決定できない。
(六) 所論の原審証人楠名倭夫の供述(九)は本件事故直後の被告人宮原の行動に関し、同証人小川仁の供述(一〇)、同証人篠和男の供述(一一)はいづれも、本件事故発生前被告人等が所謂高相会議から中座した事実に関し、同証人坂本安男の供述(一二)は本件事故直後の被告人竹内の行動に関するものであり、最後の坂本安男の供述を除いてはいづれも本件共謀の認定に相当有力な間接証拠となつているものであるが、これ等の供述についても原審において説明しているように(判決第一〇一の二丁乃至第一〇三丁、第一〇九丁、第一一〇丁)検討すべき問題があるばかりでなく、それ等の供述だけから、本件共謀の全事実を認定することは到底できない。
(七) 所論の原審公判廷における石井方治(二六)、同西巻啓一(二七)、同相原一男(二八)、同高田武男(二九)、同小峰勇(三〇)、同志村広己(三一)、同加藤武男(三二)、同氏井利勝(三三)、同下田照蔵(三四)、同下田留吉(三五)、同岩崎薫(三六)、同芦沢角蔵(三七)、同吉田晟(三八)、同熊谷重治(三九)、同山田重雄(四〇)、同中西重夫(四一)、同仲谷保次郎(四二)、同山地巧(四三)、同氏井辰五郎(四四)、同篠塚春夫(四五)の各原審公判廷における供述は本件の情況証拠となり得ても、これ等の証言だけから本件の共謀による共同犯行を認定することができないばかりでなく、後記のように却つて共謀を認定するのに否定的な情況証拠となるものもあるのである。
(八) 所論の各検証調書(四六、四七)、検視調書(四八)、各鑑定書(四九、五〇、五一)、事故原因調査報告書(五二)等の記載中にも亦共同犯行立証の資料となり得るものはない。
(九) 所論の証拠物たる各新聞(五三)、被告人竹内作成の「憂囚録」(五四)、プラカード(五五)、紙紐(五六)、針金(五七)からも本件共同犯行を立証し得べきものはない。(憂囚録の記載を証拠となし得ないことは後記第四点第二に説明の通りである。)
従つて検察官の所論のようにその挙示の各証拠を通読することによつて言い得ることは、以上のような検討を経た後挙示の証拠が信用できれば本件共同犯行の事実が認定できるということ、換言すれば、挙示の証拠が信用できるとの条件があるならば、これ以上の証拠の取調を必要としないで本件共同犯行について有罪の認定ができることである。
以上の、本件の中心問題は前記のように原判決認定のように被告人竹内の単独犯行が真相であつて、検事の公訴事実は実体のない空中楼閣であるか、或は本件が被告人ら十名の共同謀議に出たものであるか又これを裏付けるに足る証拠があるか否かに帰するのであるが、その結論に到達するまでには、前記のような各種の証拠相互間の綿密な検討を必要とする。
以下控訴趣意書の順を追つて調査検討して所論の当否を判断することとする。
〔Ⅰ〕 第四点 審理不尽による事実誤認
前記説明の通り検察官が挙示する証拠が信用できるならば、本件公訴事実はこれを認定できるのであり、その証拠の信憑力の有無によつて事案をいづれかに判断し得る場合においては、特に新たな証拠を取調べることによつて事案の真相を明確にし得るとの見込が十分である等特別の事由がない限り、審理が不充分であるとはいえないから、審理不尽による事実の誤認を主張する本論旨は理由がない。以下検察官の挙げる各項目毎にその理由を説明することとする。
第一、検察官の証拠調請求の却下について。
原判決が本件公訴事実中、被告人竹内を除く被告人飯田ら九名の無罪の理由を説明する冒頭に「右電車の発進は被告人竹内の単独犯行によるものであつて、他の被告人らはこれに関係ないことを同所に掲げた全証拠によつて認定した。このことはおのづから、右認定に反する証拠をすべて措信しないことを意味するものである」と判示したことは所論の通りであるが、このような表現が所論のように先づ証拠によつて被告人竹内の単独犯行を認定し、かかる認定を基礎として他の証拠を一々排斥して行つたかのように誤解される虞がないではない。しかしながら、判決形式の問題を捕えて判断の経過または心証形式の過程を批難するのは当らないのであつて、共同犯行として起訴された事件を審理する場合には、この共同犯行があつたか否かが常に審理の対象とされ、証拠調もこの観点から行はれ、共同犯行が認められるか否か若し共同犯行が認められない場合は単独犯行が認められるか否かが、審理の全過程を通じて問題になつているのであるから、取調べられた証拠を綜合的に判断して共同犯行又は単独犯行のいづれの認定が正しいかが調査されるものであり、その結果このような場合は共同犯行と単独犯行とは択一的な関係にあつて、一方が肯定されれば他方は否定される場合もあり得るものと解すべきである。従つて、被告人竹内の単独犯行であるという認定からいい得ることは、常に、他の被告人が電車発進に関係があるか否か判らないというだけであるとする所論は失当である。原判決のいわんとする趣旨は、本件におけるあらゆる証拠を綜合的に判断した結果、被告人竹内の単独犯行が正しいのであつて、他の証拠は措信できなかつたというに在るのであるから、原判決には所論のような違法はない。
検察官が原審において多数の証拠の取調を請求したところ、原審が控訴趣意書附録(二)記載のように松村丈夫外五十数名にのぼる多数の証人の取調請求を却下したことは所論の通りであるが、原審がこのような決定をしたのは、原審の取調べた各証拠によつて、この審理の対象である共同犯行の成否を判断するに足る資料は十分であると考えたからであり、当裁判所において本件記録を調査したところによつても、これを是認することができるのである。
現行刑事訴訟法の下においても当事者の証拠調請求は全部これを許容しなければならないということはないのであつて、証拠調の限度は裁判所が公訴事実とこれと関連ある重要事実とを考慮して決定すべきものであり、事実誤認の原因となるべき審理不尽とは、当該犯罪事実又はこれと関連ある重要事実について、事実自体を調査せず(共同犯行であるとの起訴について、日時、場所、方法を以て特定された共謀の具体的事実について調査しなかつたとき)又は右事実に重要な関連があるとして証拠調の請求があつた場合にこれを取調べず、その結果、若し当該証拠を取調べていたならば、事実の認定に重要な影響を及ぼすことが認められる場合(アリバイの主張の裏付として証拠調を請求した場合にこれを取調べないで有罪認定をしたときの如し)を意味するのであつて、同一立証事項について、既に相当多数の証人その他の証拠の取調が行はれ、その立証事項については既に判断し得る証拠の蒐集ができたと認められる場合は、裁判所の判断によつてその余の当事者請求の証拠調をしないことができ、その余の証拠の取調請求を却下したからといつて、それだけのことから直ちに審理不尽ということはできないのである。
原審が却下した所論の証人は検察官の各証拠調請求書を通読すると、それぞれの立証事項について他の証人又は証拠書類が取調べられていてその事項についての唯一の証人でないばかりでなく後記説明のように、本件の各立証事項について判断に熟すると認められ、従つてこれ以上の取調を必要としないものと思はれるから、所論は採用できない。
第二、被告人竹内景助関係について。
原判決が被告人竹内の共同犯行の自白について、所論のように同被告人の各上申書、供述調書、証人尋問調書について細部に亘つて各項目毎に検討し、「竹内の共同犯行に関する供述は単独犯行に関する供述と打つて変り、再三、再四変更し、その間多くの矛盾に富み推測と想像を逞しくしているのであつて、とうていこれを真実に符合するものとして措信することができない。」(判決五二丁)とし「最後に最も注意すべき点は竹内の共同犯行における動機がいかなる供述からもこれを認められないことである。或は竹内の単独犯行における動機と同様に見て省略したのであろうか。しかし竹内は他の被告人達と異なり、共産党員でなく又三鷹電車区分会の執行委員その他重要な地位についていない。殊に竹内は横谷その他から共産党に入党を勧告されたが、これを肯じなかつたことは、被告人竹内の当公廷における供述によつても明かである。従つて竹内がこれら他の被告人達と本件を共同して犯す決意をするには異常なものがなければならない。とうてい本件を単独で犯す決意をするのと同日の談ではない。この重要な動機について何等竹内の供述からうかがうことができないということは、おのずから竹内の共同犯行に関する供述が虚構のものであることを示唆するものといえる。」(判決第五二丁)と判示していることは所論の通りである。
又所論のように(一)被告人竹内が共同犯行を自白した後も同被告人の弁護人や妻政と接見を継続しながら供述を続けたことは推認し得るけれどもこれを裏付けるに足るものはなく、却つてそのことは単独犯行を自白した後共同犯行を自白する迄の間については同被告人の検事に対する昭和二十四年八月二十一日附供述調書(記録第二五冊第四五四丁以下中の第十一項)、同八月二十三日附供述調書(同冊第四七四丁以下中第七項)、同八月二十六日附供述調書(同冊第四八七丁以下中第二項)、同八月二十七日附供述調書(同冊第四九九丁以下第四項第五項)、同八月二十九日附供述調書(同冊第五〇六丁以下)、同九月一日附供述調書(同冊第五二四丁以下中第二項)等によつてこれを確認し得るのである。(二)被告人竹内が犯行後努めて犯行の模様を忘れようとしていたと述べていること(原審第十三回公判廷における供述)、(三)所論の「憂囚録」にそれぞれ所論のような記載があること、(四)被告人竹内の単独犯行の場合の動機については、原判決は所論のように摘示していること(判決第三丁第四丁)、(五)所論の証拠(但し後記のように憂囚録の記載は証拠とできないからこれを除く)によれば、被告人竹内が当時共産党を労働者の味方たる唯一の正しい政党であると支持し、三鷹電車区分会においても共産党員或は執行委員たる他の組合員よりも一層積極的に人員整理反対闘争に従事していたが、家庭を有するため時間的束縛を厭うて共産党に入党しなかつたものであること、六月十日頃の国電ストのときは積極的に活動し、被告人飯田らと共同して電車側面に落書するなどの行動があつたことはいづれもその主張の通りである。
然しながら、
(一) 被告人竹内の前記共同犯行に関する供述は本件発生後約二ケ月を経過して為されたものであつて、さほど日時の経過はなく、この程度で本件犯行に関する記憶がそれほど不明確になるものとは考えられないから、たとえ同被告人が努めて犯行の模様を忘れるようにしていたと述べても、直ちに同被告人の記憶が不明確になつたものと速断することはできない。従つて同被告人の供述が前後矛盾し、不統一を来し、或は瞹昧である事情については、その原因を追及する必要があるのであつて、所論の理由からは、同被告人の供述の矛盾不統一を合理化することはできない。勿論、供述の信憑力を検討する場合に、時間的に前後して行はれた供述を平面的に並べて、些細な字句の差異を誇大に取上げ、その信憑力を否定し去ることは許されないところではあるが、字句の差異に止まらないで、前後の供述内容に本質的な差異が認められ、或は余りに多くの点で矛盾撞着し、不統一がある場合においては、前後の供述のいづれが正しいか或はその供述の瞹昧不確実であることからいづれも措信し得ないか等を当該供述者の供述当時の心境を検討しながら調査する必要があり、被告人竹内の供述は、前記のように否認から単独犯行え、更に共同犯行えと変化し、更に共同犯行の供述にも時の経過に応じて、共謀の日時場所方法等に関して変化があるのであるから、これを検討した原審の態度は相当であるといわなければならぬ。
(二) 弁護人及び同被告人の妻との接見を続けながらも共同犯行の供述を維持していたとしても、直ちに同被告人の共同犯行の供述の信憑力を支持する決定的な資料とはならない。
(三) 「憂囚録」の記載中恐ろしき夏の夜と題する詩は共同犯行を暗示するかのようであるが、右「憂囚録」(被告人竹内の日記三冊)は第四十五回公判期日に検事から、証拠物として存在自体について取調が請求され(記録第二六冊第六九丁)、第四十九回公判期日において、裁判所の取調決定に基づき、検事がこれを展示する方式による証拠調が行はれ(記録第二八冊第一七丁、第一八丁)、その内容の朗読が行はれていないので、この記載を適法な証拠として判断の資料に加えることはできない。所論は援用できない資料に基く主張であるから採用できない。
尤も原審の右「憂囚録」に関する証拠調の方式が妥当であつたか否かについては、疑問があるのであつて、「憂囚録」は存在自体が証拠になるのでなく、検察官の証拠調請求の趣旨は、存在と共に記載内容が証拠となるもの、即ち証拠物にして書面の意義が証拠となるものであることにあつたものと考えられるから、原審としては、この点を考慮し、証拠の採否を決定し、若し証拠能力なしと判断したならば、特に存在自体が意義を有する場合の外その取調請求を却下すべきであつたと考えられるからである。尤もその必要がないのに存在自体について証拠調をしたからといつてこれによつて何等かの違法を生ずるとは考えられない。
右「憂囚録」が証拠能力を有するかどうかについて、検討すると、右は被告人竹内の日記ではあるが、その作成の始期は昭和二十四年十月二十二日で、同被告人が本件につき起訴勾留後、本件共同犯行を自白した後、府中刑務所内で作成されたものであつて、事件と無関係に過去の出来事を記載した通常の日記と異なるので、法第三二三条第三号の特に信用すべき情況の下に作成された書面として証拠能力を有する場合に該当しないばかりでなく、法第三二二条第一項の不利益な事実の承認を内容とし又は特に信用すべき情況の下に作成されたものであるとして証拠能力を有する場合にも該当せず、証拠能力を有しないものと解すべきである。従つて結局検察官の右証拠調請求はこれを却下すべきものであつたと考えられる。しかし、原審のこれに対する取扱は前記のようにただその存在について証拠調をしたに過ぎず、それ自体において何等の違法もないと考えられるのである。
以上の理由によつて、憂囚録の記載内容は、本件の適法な証拠として判断することを許されないのである。
(四) 被告人竹内の供述の信憑力は、同被告人の原審公判廷における供述、同被告人の多数の上申書、供述調書、裁判官尋問調書を他の被告人等並に証人等の供述、供述調書、尋問調書と対照検討する方法によつて充分判断ができるものと認められるから、所論の証人(被告人竹内の共同犯行についての陳述を聴取した検事、判事、弁護人、府中刑務所看守)の取調は必要的ではない。所論の証人はいづれも伝聞供述を為し得るに過ぎないからである。これを取調べないことが審理不尽による事実誤認の原因となるものとは解し難い。従つて所論は採用できない。
(五) 原判決における単独犯行における動機の記載、前記のように被告人竹内が組合運動に熱心であり、被告人飯田らとも接近していた関係は、同被告人が被告人飯田らと共謀の上本件犯行を実行する場合の動機と為り得る可能性は相当に含んでいるのである。これを記録について見ると、原判決が説明するように、被告人竹内が共同犯行を供述している各調書並に上申書中には特に共同犯行を決意した動機としての記載はないけれども、十月十四日附上申書、(記録第二五冊六〇〇丁以下)には、「十三日頃からの組合員の馘首に対する慷慨の気持から今日十五日は最高潮に達したのではないかと思はれる如く組合幹部を含め職場から集つた二十名余りの人々が或は組合事務所内で、或は出入口の前あたりで盛に過激な言葉を交していました。誰々と記憶はありませんが、或者は電車を顛覆させようとか、又或者は電車をグランドへ落させるぞ等冗談乍ら真に馘切られた者の腹の底からの怒りが出て居り、何処かで立ち上がれば必ず今度こそ全産業は馘首反対の為に立ち上ると皆考えていたのです。当時北海道室蘭地区や大阪吹田操車場、福島郡山機関区、金沢地区などからの情報として今度こそ何時でも立ち上ると云う事を組合幹部からも聞かされていました(青柳書記長、飯田氏、伊藤氏など)、私も六・九ストの時連絡員として田町電車区品川電車区等へ参り其処の執行委員長にも会つて話し、且又十三電車区の団結と友愛も信頼して居りましたので、第二次整理こそ必ずやそのキツカケを得て全労働者は立ち上り、資本官僚(当時私は欺様に考えていました)の一方的馘切りを徹回させ得ると信じていました(以下原判決の引用部分に続く)」とあり、十月十六日附供述調書(記録第二五冊第五六九丁以下)中にも、「七月十日頃から毎朝点呼後日勤の組合員は赤旗(組合旗)を押立てて第二次整理反対のデモ行進をして気勢を挙げて居りました。そして七月十四日第二次整理者の通告が始まるとこの整理に反対する組合員の憤慨は最高潮に達し特に整理にあつたものは非常に憤慨し組合事務所その他で電車を顛覆させるとか或は電車をグラウンドへでも落して仕舞わうかと言つて居りました。自分は家族が多いので今度の整理では首切りは助かるのではないかと思つていたところ、七月十四日区長室に呼ばれ塚越区長から馘首を言渡された時には十一年間鉄道へ勤めて来たのに余り酷いと心の底から怒りが出てきました。そして他の首を切られた弱い労働者に対して何とかしてこの首切りだけは撤回させなくてはと考えました。当時藤田、田村、外山等は何処かで立上れば必ず全産業が立上るという様な事を言つて居つたので、私も今度の第二次整理の時こそ何とかきつかけを作つてストに入りこの一方的首切りを撤回させる事が出来るものと信じていました。」とあり、被告人竹内の共同犯行の動機は略単独犯行のそれと同一のものとして述べられているものと見ることができる。被告人竹内としては組合運動としてのスト突入による全産業の立上りと馘首撤回を目的としていたのであるから、共産党員でなく、三鷹電車区分会の執行委員その他重要な地位に就いていなくとも、右の目的の実現手段として相当と考えるならば、一人にてもその目的のため本件犯行を敢行する決意があつたのであるから他の被告人らと共同して本件犯行を行うことの決意には容易に到達し得る心境にあつたことを窺い得るのである。従つて前記のように原判決が被告人竹内が本件犯行を共同して犯す決意には異常なものがなければならないとし、このことから、共同犯行の供述が虚偽のものであることを示唆していると判示している点は行き過ぎであり、この点に関する所論は理由があるのであるが、この程度の瑕疵は直ちにそれだけで重要な事実の誤認とならないことが明かであり、後記説明のように被告人竹内の共同犯行に関する供述がその他の理由から信憑力の薄弱なものと考えられる本件においては結局右の所論は原判決破棄の理由とするに足らないものである。
第三、被告人横谷武男関係について。
原判決が第五二丁乃至第六三丁に被告人横谷の各上申書、各供述調書を詳細に検討して、八月十五日附自供書について、「この短い供述の中には本件に関する重大な事項が含まれている。ただそれが骨子のみに触れ、その文脈が不自然な形を備えていることは、この供述に何か異常なものがあることを物語るものといえる。」とし或は結論として「以上を綜合するに被告人横谷の各供述で明かにされた被告人横谷自身の行動が極めて不自然な点と被告人竹内を初め他の被告人たちの行動の曖昧な点及び動機の不明な点(八月十八日附供述調書では六三型電車を原因不明で動かし当局にいやな思いをさせ、同時に首切りに対する闘争に利用することになつているが、これは横谷の全体の供述からはたやすく措信し難い。)を考えれば、被告人横谷の共同犯行に関する自白も亦被告人竹内の共同犯行に関する自白と同様これを真実のものとして措信することはできない。」と判示していることは所論の通りである。
被告人横谷の供述全体に対する検討は後に譲り、ここでは所論の(一)八月十五日附自供書は異常のものでなく信憑できる。(二)被告人横谷が父義一と面会をした後も共同犯行の自白を続け、その後共産党員たる弁護士と度々接見してその自供を撤回したことは、同被告人の自白の信憑力の裏付けとなるのにこれに思を致さなかつた原審判決には審理不尽があるとの点についてだけ判断することとする。
(一) 所論の原審証人田中良人、同富田康次の原審公判廷における供述(記録第二二冊第八二丁以下、同一六〇丁以下)によれば、八月十五日夕食後に至り、被告人横谷が犯行の自供を初めたので、その詳細を録取するいとまがなかつたため、田中検事が紙、富田検事が万年筆を出し、犯行の要旨を書いてくれと要求した結果、被告人横谷が自筆によつて書いたものが前記八月十五日附の自供書であることが認められる。右自供書(記録第二五冊第一五八丁)は原判決も引用しているように(判決九四丁)
「三鷹事件で犠牲になられた方々のレイに対してモクトウす(八時三十分)谷保の両親に対しても尚別のいみでおわびして次の事を書きます。
此度の三鷹事件に関しては闘争の方法として外に取るべき道がなくやつた事ですが、此の様な惨事をおこすとは夢にも思ひませんでした。
一、グループ会議に喜和竹、外山、田代、清水、飯田らが話し合ひ電車を走らせる事を定め竹内氏にたのんだ処聞き入れず二度目をたのみに行きやつと引きうけました。
一、其後吉祥寺に行き前に述べた通りの事をして組合に帰り、九時頃と思ひますが、其の日交番検査をした電車が一番線に入つているのを(四時頃)私がパンを上げる為電車の運転台よりヒモを引いて上げました。其の内に竹内氏が電気部分をやつて居りました。発車したので、グラウンドの方に出て組合に行き、それから現場に行きました。
右は自分が書いたものです」
と記載されている。これを後に同被告人が作成した八月二十三日附上申書、同被告人以外の者が作成した上申書等と比較し、これを原判決が説明しているように(判決第九六丁)同被告人の自白の状況(異状に興奮した状況において自白したこと)を併せ考察すると、その信憑力自体とは別に、文脈等の異常性を認めることができるのであるから、原判決の当該部分の説明をとらえてこれから直ちに信憑力を否定したものとの批難はあたらない。原判決の前記説明は、右自供書の記載はその後の供述調書、上申書等の記載或は他の被告人の供述との関係において措信できないと結論するにあるのであるから、所論は失当である。
(二) 所論の接見又は面会と同被告人の供述の信憑力とは直接の関連性がないことは、前記第二において、被告人竹内に関して説明した通りであるから、その説明を援用する。
第四、被告人伊藤正信、同外山勝将関係並にこれと被告人竹内景助、同横谷武男の各供述相互間の関係について。
原判決が被告人伊藤の自白について、同被告人の二十回に及ぶ供述を所論の各項目にわたり逐一検討し、結論として、「被告人伊藤の供述は初めは本件に関し傍観者的、第三者的態度をあらわし、他の被告人達の行動について本件に最も密接でない事項から次第に直接関係ある事項に供述を徐々に変更し、これを維持し難くなるや、自己の本件に関する見張の行動を認めながら、専ら他の被告人たちの行動を爼上に載せ自己の行動を曖昧にして責任を免れようとしているものということができる。供述の動揺と浅薄、供述の打算的、利已的意図、これが被告人伊藤の供述の特徴であり、しかも右の如く矛盾撞着に富む不自然なものであつて、その措信することのできないことは右の点からも明白である」(判決第八六丁)とし、被告人外山の自白についても、所論のように措信しない理由を説明し(判決第八八丁)、被告人竹内、同横谷、同伊藤の各自白相互間における矛盾と不統一を摘出してこれら自白の信憑力のないことを一層明かにし(判決第八八丁)、最後に「被告人竹内、同横谷、同伊藤、同外山の各自白の信憑力のない点を明かにする上に重要な資料を提供するものは、これら自白相互の影響と各自白の原因である」(判決第九一丁)とし、「被告人竹内、同横谷、同伊藤の三人のうち、最も早く本件について自白したのは被告人伊藤である。続いて横谷である。したがつて被告人伊藤の自白が同横谷の自白に影響を及ぼし、この両名が相俟つて同竹内の共同犯行に関する自白に導いたであろうことはほぼ推測するに難くない。」と推定し(判決第九一丁)、「これによつて見てもこれら自白をそのまま真実として措信することはできない。」(判決第九二丁)と判断していることは所論の通りである。
(一) 被告人伊藤がその弁護人と度々接見しながらも共同犯行の供述を繰返していて、公判開廷後これを否認するに至つたことは推測し得るところであるが、この事実が直接同被告人の供述の信憑力を支持する理由とは考えられない。
(二) 被告人伊藤の共同犯行の供述が詳細を極めていること、一般の場合において、犯罪人心理として、当初自己の犯行えの関与を秘匿し、後にこれを改めその供述が変化して行くことがあり得ること、時間的経過を無視して平面的に排列して調書の片言隻句の差異を誇大に取上げることの不可なることは所論の通りであるが、被告人伊藤の場合にこれがそのまま該当するか否かを決定するには、原判決がしたような種々な角度からの検討を必要とする。このような検討をするに際して所論のように被告人伊藤から直接共同犯行の供述を聴取した神崎検事、川口検事或は相川判事について、当時の同被告人の供述態度、心境等を取調べ、或は当時同被告人に朝夕接してその戒護に従事していた府中刑務所看守について、同被告人の自供当時の言動、その後自供撤回の際の言動等について取調べることは、その一資料を加えることにはなるけれども、この取調をしなければ、同被告人の供述の信憑力を決定できないものではなく、原審が行つたような調査方法を以ても十分その目的を達成し得るものと認められるから、この点に関し原審に審理不尽の点はない。
(三) 原判決が「被告人伊藤がなぜ現実に電車を動かした者は竹内と横谷であつて運転台のコントローラー寄りに横谷、その右に竹内がいたと述べたのであろうか、この点について伊藤は当公判廷において自分はすでに新聞によりコントローラーハンドルを紐で縛つたのを知つていたこと、八月二日附朝日新聞(三多摩版)をたまたま見て、横谷、竹内両名が実行したと見られているのを知つたこと、横谷と竹内の取調状況を知つたことを述べている。右供述は押収した関係新聞の記載に照らし、不当とは見られないので、右供述にある事情によつて、伊藤がこの自白をしたことが推認できる。」(判決第九四丁)と判示していることは所論の通りであり、被告人伊藤の右弁解が公判終結に近い昭和二十五年五月八日第四十一回公判期日(記録第二四冊第六八丁)において述べられたこと、右八月二日当時被告人伊藤は逮捕拘禁中であつたこと(記録第三十七冊第一丁逮捕状によれば、同被告人は昭和二十四年八月一日午前六時四十分逮捕され、午前七時五十分立川地区警察署に引致せられ、同月三日勾留状の執行を受け右立川地区署留置場に勾留されていた)が認められ、同被告人が、所論の新聞を見る機会があつたか否かに疑が存し、原審がこの点について特に証拠調をした形跡がないことは所論の通りであり、原審の説明する押収した関係新聞中には、本件電車の発進方法がコントローラーハンドルを紐で縛つたのを知つていたことは記載があるが、八月二日附朝日新聞(三多摩版)は証拠調をして押収された形跡がないから、押収した関係新聞の記載に照し不当と認められないと説明した部分には不当、不充分な部分があることになるのである。しかし逮捕勾禁中であつたからといつて、右新聞を絶対に見られないとも断定できないのであるから(偶々取調室、又は留置場内看守者の机上等)、原審の推認が明かな誤認であるとも断定できない。このような被告人の弁解の当否を判断することも亦供述の信憑力を検討する一資料であり、この点については、当事者に対し立証を促がした上証拠調を為し、或は職権で証拠調をすべきであつたと思はれる。原審がこれをしなかつたことは審理を尽さなかつた場合に該当するのであるが、同被告人の供述全体を検討する上においては、右の点は極めて限られた間接事実に関するものであるから、この取調を行はなかつたことが同被告人の供述の信憑力に直ちに影響し原判決の事実認定に影響を及ぼすものとは認め難いから所論は結局採用できない。
(四) 被告人外山が三鷹電車区共産党細胞責任者であつたこと、同電車区における最も尖鋭な分子として人員整理反対闘争に従事しつつあつたものであることは所論原審証人石井方治、同志村広己その他の原審における証人の供述によつて認められるが、その立場から一時共同犯行の一端に触れた供述が真実であるとの認定はできないし、所論の屋代検事を証人として取調べなければ、同検事に対する同被告人の供述調書の信憑力が検討できないものではなくて、同被告人の供述こそ、被告人伊藤、同横谷、同竹内の供述との関連対照によつてその信憑力を決定さるべきものであるから、原審にはこの点に関する審理不尽はない。
(五) 本件捜査に従事した検察官が事案の性質に留意し、特に慎重細心に捜査にあたり、その間被告人らに対し、拷問脅迫を加えなかつたことは、原判決が諸般の証拠によつて確定しているところであり(判決一三一丁)、検事の供述調書には同一被告人の調書についても、被告人ら相互間についても、供述の間に矛盾不統一があるが、右はいづれも任意性のある供述であることはいづれも、所論の各証拠によつてこれを認めることができ、被告人が自白する場合において、なるべく自己の刑責を軽からしめんとする心持があり、逐次漸進的な供述を為す場合もあること、人の供述の基礎となる記憶には不正確な点もあつて思い違いもあり得ることは所論の通りであるが、被告人伊藤、同横谷、同竹内の供述相互間の影響の有無を調査するに当り、所論の被告人等の取調関与の検事、検察事務官、裁判官、裁判所書記官の取調は、これを実施すればこれに関する一資料を得ることができることは勿論であるが、この取調は右の調査のために絶対に必要ではなく、原審が取調べた証拠の範囲内で、原審の採用した方法によつて十分検討ができるものと解されるのである。従つてこの点についても審理不尽はない。
第五、物的証拠について。
原判決が物的証拠についてと題して、「本件共同犯行を直接又は他の証拠と共に立証する十分な物的証拠は全然ない(判決第一〇八丁)と結論していることは所論の通りである。
検察官が他の証拠と相俟つて本件共同犯行の物的証拠となるものとして電球及びソケツトの取調、これに関連した証人田中洞龍並に運転台における指紋その他の犯跡の有無について証人金沢安文、本件事故の検証によつて知り得た事実について証人磯山利雄外三名をそれぞれ申請したところ、原審がこれを必要なしとして却下したことは、前記第一に関し既に述べた通りである。この点について、所論の証拠調をしなければ、原審のような断定ができないか否か、若し右の証拠調をしたならば、検察官主張の事実が立証される可能性があるか否かについて案ずるに、
(一) 押収の紙紐の存在又はその切断自体からは数名の共同行為であるとの結論は生じない。原審のこの点の説明(判決第一〇八丁裏)はそのまま是認される。
(二) 本件事故電車の先頭車運転室の捻込式電球及びソケツトについては既に原審説明のように証人篠塚春夫、山地巧の原審公判廷における供述があり、先頭車運転室の右電球はその発車当時異常がなかつたが、事故発生後その金具が落ちたことを認め得るのであつて、右証人田中洞龍もこれと同一事項を立証しようとするに過ぎないものであるから、重ねて同証人を取調べる必要はないと認められる。当該電球及びソケツト自体の取調は、これに指紋がある等の特別の事情がない限り、右のように発車当時異常のない電球が事故後落下していたことが発見せられたことの立証せられた本件においては必要的な取調であるとは認め難い。而して落下した電球及びソケツトの存在自体からは、共同犯行の事実は立証されない。共同犯行の事実は、他に落下原因が絶対になかつたこと、本件電車発進を実行したと認められる被告人竹内が、これを消燈するため緩めたことがないこと、被告人竹内以外の何人かがこれを緩めたことが確定的に認定されてはじめてこれを推定し得るに至るのである。
右証人山地巧は原審第十一回公判期日において(記録第一六冊第一〇八丁以下)「本件事故電車運転室の電燈は入庫する際に点いていた。」と述べ、右証人篠塚春夫は、原審第三十回公判期日において(記録第二一冊第八〇丁以下)「八月になつて田中副検事が来て調べた時に運転室の電球のソケツトと電球の金の部分が運転台と別室の敷居の間に落ちているのを発見して持つて行つた。六三型の電球は裸でついていて、普通家庭にあるものと同じの捻込式である。完全にしまつていれば金具だけは衝突位では落ちるものではない。客室内の電燈は他の調査員の言うところによると異常がなかつたといつている。」と述べ、被告人竹内は原判決引用のように、十月二十八日附証人尋問調書で、「発進した電車に電燈が点いていないとすれば、誰かが消したのではないかと想像されます」と述べていて文字通り想像に過ぎない。しかし、右引用の部分の証拠の外は他にこれを立証し得る証拠はなく、右証拠だけでは共同犯行の事実を確認することはできない。(多少電球が緩んでいて本件衝突によつて落下することもあり得ないことではない。)
(三) 次に、指紋の点であるが、磯山利雄外三名作成の検証調書(記録第四六冊)の記載によれば、運転台左側車体表面中扉の附け根から十糎程前側、床底から高さ約一米二、三十糎の部分に指紋一個、又運転台右側扉硝子戸面外側に上辺枠木に接し無数の指痕が附着しており、その略々中央に指紋一個を発見したので、これを採取させたとの記載があるに拘らず、検察官はその結果を証拠として顕出しなかつたものであるが、これは現場保存が十分でなく多数の人々が事故電車に立入り、或は運転台に入り又は機器類の上に堆積した塵埃があつたためであつたものと考えられ(検察官論告要旨第三八丁)、従つて証人金沢安文、同磯山利雄外三名を取調べたとしても指紋自体から多数人の共同犯行であることを立証できないものと考えられる。
(四) 尚所論の栗原照夫の検事に対する供述調書(記録第二八冊第二一五丁以下)は、検察官が前記控訴趣意第三点で主張しているように、原審証人栗原照夫の原審公判廷における供述の証明力を争うために、法第三二八条によつていわゆる反証として提出されたものの中の一つであるから、これを犯罪事実そのもの又はこれと関連ある事実の証明に使用することができないものである。このことは、検察官自ら主張しているのであるから、その主張に矛盾してこの種の証拠をたとえ間接的な事実を立証せんとするとはいえ、有罪認定の資料に使用することは許さるべきではないのである。
従つてこの点に関する所論も理由がない。
第六、証人栗原照夫外三名関係について。
原判決が証人栗原照夫、同黒川義直、同金沢卓、同大久保安三が、本件公判前相川裁判官に対し、本件謀議並に被告人らの高相健二方よりの中座に関して為した証言について検討した上、それぞれ所論引用のように説明して、その証明力を否定していることはいづれも所論の通りである。
これ等の調書の信憑力の検討は後記第五点の説明に譲り、ここでは所論の証人を取調べなかつたことが審理不尽であるか否かについてだけ検討することとする。
所論の証人天野検事、富田検事、検察事務官西山良夫、相川裁判官、加藤政夫、霜越二郎等の証人尋問は、他に右調書の信憑力を判断する資料があると認められる本件においては、これを取調べないからといつて審理不尽を来すことはないと認められる。所論は採用できない。
第七、被告人らのアリバイ工作について。
原判決が被告人らのアリバイ工作について所論引用の通り判示していること(判決第一二五丁以下)はその通りであるが、この事実をどのように判断するかについては必ずしも所論の証人後藤市三郎の取調は必要ではなく、他の資料から十分その事実と本件共同犯行との関連を考察し得るのであるから、原審には所論のような審理不尽はないものと認められる。
所謂偽装アリバイ工作が、犯罪隠蔽の手段として使用された場合には、これを行つた者が犯罪を犯したことを疑うに足り、それは有力ではあるが情況証拠の一種に過ぎず、本件事故が共産党員たちによつて敢行されたとの宣伝が行はれたと否とを問はず、共産党員たる被告人等が、本件事故発生によつて、捜査当局から嫌疑を受け検挙される危険性ありと考えることもあり得ることは原審証人石井方治の証言(記録第一七冊第二四丁裏)によつても窺うことができるところであり、本件発生当時の社会情勢は下山事件が共産党員によつて起されたかの如き感をいだかせる新聞報道が行はれていたときであつたことが押収に係る各新聞紙によつて認められるところであるから、被告人らがそのように考えて、事故発生後アリバイ工作を行つたといい得る。従つて本件記録によつて、原審証人仲谷保次郎、同吉田晟の証言中に所論に副うように、本件について事故当夜現場附近ではそのような宣伝が行はれなかつたと認め得たとしても、これを以て直ちに、被告人らのアリバイ工作を以て犯跡を隠蔽するための偽装アリバイ工作であると断定することはできない。所論は理由がない。
第八、証拠の綜合判断について。
原判決が「証拠の綜合的判断について」と題し(判決第一二九丁乃至第一三一丁)、その最後に所論のように、本件が共同犯行であつたことを否定する事情として軽視することができないものとして十点を挙げていることは所論の通りである。
以下この点に関する所論を逐次判断することとする。
(一) 本件共同犯行の動機が明白でないとの点。
検察官主張の本件共同犯行の動機については既に先に本件公訴事実の要旨と併せてこれを挙示しておいた通り、被告人らは予てから国鉄の行政整理に反対する闘争を行つていたが思うように効果が上らず、第一次第二次整理と情勢が窮迫するに拘らず、一挙にストライキに入ることはもとより、遵法闘争に突入することもできず何等かの方法によつて局面を打開する必要に迫られていたので、一つには予てから危険であると宣伝して来た所謂六三型電車の自然事故と宣伝して宣伝効果を挙げるため、一つには車庫入口を顛覆電車で一時閉塞することにより間引運転と同様の効果を挙げ、あわよくば、全国的闘争の立上りのきつかけにしようとしたもので、これに馘首に対する個人的憤懣、当局に対するいやがらせなどの気持が加はつていたというのであり、所論引用の当時の三鷹電車区の雰囲気(原審証人西巻啓一、同高田武男、同石井方治、同相原一夫、同熊谷重治らの供述、その他原審挙示の各証拠によつて認定できるもの)、被告人竹内の十月十六日附供述調書、被告人伊藤の八月十四日附上申書、被告人横谷の八月十日附供述調書等を綜合すれば、本件共同犯行の動機となり得る要因は幾多存在したものと見ることができる。即ち原判決は第一被告人竹内景助に関する部分の事実認定として「同分会(国鉄労働組合八王子支部三鷹電車区分会)は組合本部が全国的に展開していた人員整理反対闘争運動に呼応し、昭和二十四年六月九日率先して中野電車区、中野車掌区等の各分会と共同してストライキ(所謂国電スト)を敢行し、更に同年七月四日の分会大会では、その直前行はれた熱海における国鉄労働組合中央委員会の決定に従い、情勢の成熟と共に再びストライキを含む実力行使を行うことを可決し、併せて職場闘争を実行し(すなわち遵法闘争を行い、職場復興綱領を作り)、外部団体と提携して共同闘争を活溌に行うことを確認した。これに伴い、三鷹電車区分会執行部においては、同分会執行委員長飯田七三を中心として常に執行委員会等を通じ、個々の対策に躍起となり、同時に同電車区共産党細胞においても、同細胞責任者外山勝将を始め、伊藤正信、田代勇らが一体となつてしばしば細胞会議を通じ、或は共産党地区委員会の指導を受け、内面から闘争運動を激化することに努め、同分会では従来の広汎な国鉄防衛闘争に重点を置き、その一環として国鉄の荒廃の実情を外に宣伝することとし、殊に戦時中の設計に基き製作された六三型電車の不備を暴露してその危険を周知徹底させ、これに馘首反対を絡ませた宣伝を伴わせることとし、活溌に宣伝隊を街頭その他に繰出し、ポスター、壁新聞を各所に展示し、演説その他の方法により大衆にこれを訴えた。その間国鉄の人員整理は順次に具体化し、七月四日には第一次整理、同月十四日には第二次整理が発表され、三鷹電車区においてもこの二回にわたる整理により約八十名に上る解雇処分が個別的に通告されるに至つた。これに対し同分会としては、右通告を受けた者に辞令の受理を拒否する戦術を採らせ、区長、助役らとの交渉においても、多数を動員して過激な言動を行わせる等、その態度を硬化し、ますます当局に対する憤懣の念を深めその結果三鷹電車区内には緊張した空気が漂つていつた。同分会内部では、断片的ではあるが、「モーターに水をかけろ」「油に砂を入れろ」或は「一旦停止で脱線させろ」という尖鋭的な言葉が交され、殊にその後の悪化した雰囲気を反映して、七月十四日頃には同電車区仕業詰所等において「電車をグランドに落せ」と口走る者もあり、被告人竹内は同月十五日午後二時頃組合事務所内で「今日あたり立てば、全国一斉に立てる」「今日あたり何とかしなければならない」と急進的なことを言う者があつたので、これを受けて「みなが立つならおれ一人でもストの状態を起してやる」ともらしたほどであつた。こうして同電車区の各所で多数の組合員が激昂し、当局の措置に対し不満の言葉を放つていた」と判示している。このような情勢は十分に本件共同犯行の下地となり得べき情勢であると考えられる。
又被告人竹内の十月十六日附供述調書には前記第二被告人竹内景助関係について。の(四)に掲げたように、当時組合員の整理反対の憤激を述べ、同被告人がストに立上つて首切りを撤回させ得るものと信じていたとの記載があり、
被告人伊藤の八月十四日附上申書(記録第二五冊第三五一丁以下)には、「六月十日の国電ストライキに於て強く批判された事は特に宣伝の方面であつた。それ以後に於て共産党は宣伝について之を大きく取上げ機関紙赤旗の主張として広く全党員に指令を発していた。六月十九日北多摩地区共産党党員総会が招集され、議題として国鉄電車のストと日本製鋼の問題であり、やはり、宣伝の面が欠けていたということがいわれ、亦当時闘う目標をはつきり認識する意味に於て復興綱領をつくれと地区委員長は党員に訴えていた。その席上地区委員の喜屋武氏より都委員会主催の重要経営グループに出席せよとの指示が与えられその事を翌日直ちに外山、飯田両氏に報告し、之は毎週月曜日に開催されるもので、六月二十日の月曜日には飯田氏が出席している。此の会議に三鷹電車区が参加するようになつてから、飯田氏は六三型電車の写真と線路施設の荒廃の写真を池袋電車区から借り受けて組合として正式に宣伝に乗り出すことになり自らその指導に当つていた。此の写真宣伝をやり出した意味はやがて来るべき八、九月危機と言われるものに備へ電車と施設の宣伝を徹底する事により容易にストライキに入れるだろう。国電が何時でもスト態勢にあれば、後はただ外部の左翼組合の立上りを待つのみであり、案外たやすく吉田内閣を打倒できるのではないかという事であつた。この宣伝には全党員は積極的に立廻つていた。亦当時たまたま青梅線乗入れの六三型が立川駅で脱線した事故も大きく取上げその公開状を飯田氏が起草し大きな宣伝材料とした。第一次国鉄人員整理以後に於て組合としては、その対策に万全なやうな感を持つていたが、実際になつて見ると中々うまくゆかない部面があり、整理された人達はその陣営から離れて行くものが多くなつて来た。そこで党員としては何とか打つ手を考えなくては民同の擡頭を許すことになるという見地から漸くあせりが出て来たのは事実である。」と記載されており、被告人横谷の八月十日附供述調書(記録第二五冊第一四七丁以下)には、「七月五日第一次首切り以来整理されたものが辞令を受取つて段々組合に来なくなり首にならない者はほつとした様子で遵法闘争をやろうとしても具体的に何もやり様がなかつたので、此の侭では何等かの対策を樹てねばいかんと言う空気が飯田外組合執行部の者が考えるようになり十日前後からあせり気味になつていたことは間違ひありません」との記載があり、
以上を綜合すると、被告人飯田ら共産党員たる組合員の間ではスト突入の考えは持つてはいなかつたが六三型電車の不備の宣伝、遵法闘争、民同との関係等についてその運動方針を検討し、馘首されて戦列から離れて行く者を如何にして喰い止めるかについて局面打開を図る必要にせまられていたこと、被告人竹内としてはストの口火を切り全産業の立上りによる馘首の撤回を考えていたことが認められるので、これ等の事情は本件共同犯行の動機となり得るのであつて後記第五点で説明した共謀成立に困難な否定的な事情を度外視すれば、被告人竹内以外の被告人らは、六三型の自然事故と見せかけてこれを宣伝材料とすると共に間引運転の効果によつて戦列から離れようとしているものを統一して行くことを考え、被告人竹内は同床異夢的ではあるが、スト突入を考えたとしても本件犯行の動機として理解できないことはないのである。従つて検察官の主張する動機は被告人竹内以外の被告人らが、全国闘争のキツカケとしようとしたとの点を除いては概ね認められるところと考えられるので、原審が原判決に掲げたような理由で本件犯行の動機が明白でないとしている点は失当である。しかし、かかる本件共同犯行の動機となり得る事情が存在したことと、現実に本件共同犯行が謀議実行されたか否かということとは別問題であるから、犯罪事実の存否については後に第五点で検討したように本件共謀はこれを確認できないのであるから、原審のこの点に関する判断の誤は、結局判決に影響を及ぼす程重大なものではないことに帰するのである。
(二) 七月十五日の高相健二方における細胞会議は本件電車発進に関し特に設けられたものでないとの点。この点に関し所論のように検察官は昭和二十四年十二月二日の公判準備期日において、右会議は特に本件電車発進に関し設けられたものではなく、国鉄の人員整理反対闘争の実行に関し設けられ、その過程において本件電車発進の件が話題となつたと釈明しており、右会議を中野電車区に移して開くことが飯田によつて考慮されていたとの原審の説明は、被告人伊藤の八月十四日附上申書(記録第二五冊第三五一丁以下)及び八月十五日附供述調書(同冊第二二四丁以下)にこれに符合するような供述もあるが、現実には高相方で会議を開いたことは関係被告人及び証人等の供述によつて明かになつているところであり、証人黒川義直に対する昭和二十四年九月六日附裁判官の尋問調書(記録第一九冊第二五二丁以下)、同大久保安三に対する同月十四日附証人尋問調書(記録同冊第二七六丁以下)、同栗原照夫の同年八月三十日附証人尋問調書(記録第二〇冊第七五丁以下)によれば被告人飯田が、中野から細胞会議があるから来てくれという通知があつた、誰か手のすいている者があつたら行つてくれと話したところ、今日は遅いし行けないということになり、その旨を被告人清水が中野電車区に連絡したとの事実が認められるので、原審の説明は不適当であると考えられる。而して当日原審説明のように確定的に中野電車区と合同で細胞会議を開くことが事前に決定されていたのならば、格別関係被告人等の供述で明かなように当日の細胞会議は高相方において開催さることが決定されていて、右のように中野電車区から電話連絡があつたが、その出席を断つた事情にあると認められるならば、たとえ、被告人飯田が、右電話連絡を受けた際、中野電車区と合同して細胞会議を開くことを考慮したとしても、この事情を否定的な事情と見ることは、必ずしも適切ではない。しかし、この点に関する原審の判断の誤も、本件公訴事実に関しては、極めて間接的な情況事実に関し、結局後記第五点の説明の通り、本件共謀事実はこれを確認することができず、結局判決に影響を及ぼすものとも認められない。
(三) 細胞会議に非共産党員金沢卓や新入党員黒川義直、大久保安三らが加わり又同室で共産党三鷹町委員の会合もあつて特定の者だけで本件謀議を図ることが困難な状況にあつたとの点。
証人金沢卓に対する昭和二十四年九月十日附証人尋問調書(記録第一九冊第二六七丁以下)によれば、同人は共産党に幾分興味は持つていたが、党員ではなかつたこと、同人が右高相会議に行つたのは、細胞会議でもあれば出て見たいと思つていたところ、同日午後三時頃横谷か伊藤か何れかの一人から今晩六時から整備係詰所で細胞会議を遣るから出て見ないかと言はれ出る気になり、午後六時半頃整備係詰所に行くと誰も居なかつたので組合事務所前に行くと被告人飯田と伊藤とが居り、駅前で会議をやるといわれ三人で出かけ途中宮原を誘つて一緒に右高相方に行つた事実が認められ、
証人黒川義直に対する同年八月二十二日附証人尋問調書(記録第一九冊第二五八丁以下)によれば、同人が共産党に入党したのは右会議の当日である七月十五日で、同日午後四時頃大久保から今晩六時に高相宅で共産党の細胞会議があるから顔見せの為めに出てくれと言うので出席することになつた事実が認められ、
証人大久保安三に対する同年九月十四日附の証人尋問調書(記録第一九冊二七六丁以下)によれば、同人が共産党に入党したのは、昭和二十四年七月八日であつて、右高相方の会議に出席するようになつたのは同日午後三時頃電車区の分会事務所に立寄つた際横谷からと思うが、今晩六時半(或は六時)から細胞会議をやるから出てくれと言はれたからであることが認められ、
又同室で共産党三鷹町委員会の会合のあつたことは、原審証人金井健、(記録第二〇冊第一五六丁以下)、田口鉱二(同冊第二七四丁以下)、大谷忠弥(記録第二一冊第四丁以下)、李教舜(同冊第三五丁以下)の各証言によつて明かである。
苟くも共産党細胞が何等かの秘密の計画を協議するに際し、かつて傍聴させたことさえない単に党に興味を感じている程度の非党員を同席させるようなことは、その者を加担せしめる意図ある場合を除き、極めて稀にしか考えられないところであるから、非党員である金沢が加わつていたことは原審説明のような否定的な資料となると考えられる。然し、黒川義直や大久保安三が新入党員であることは必ずしも否定的な事情となるものとは考えられず、殊に共産党三鷹町委員の如きは、その組織上三鷹電車区細胞の指導機関であるから、これを以て否定的な事情となし得ないことは所論の通りである。従つてこの点に関する原審の説明は理由がないものといわねばならない。
しかしながら、この程度の原審の事実に関する判断の誤は左程重大ではなく、後記第五点の説明のように結局原判決には判決に影響を及ぼす程の事実の誤認がないので、結局この点に関する所論も採用できない。
(四) 本件電車発進現場は見張に不適当な所であるとの点。
所論の原審証人中島英治(記録第一六冊第一一六丁以下)、同芦沢角蔵(記録第二六冊第一一丁以下)の各供述、原審の昭和二十五年五月二日附検証調書(記録第二三冊第三〇三丁以下)によれば、本件電車発進現場は広大な野天であつて、点々と構内電燈の設備あるに過ぎないこと、本件犯行当時、夕刻のラツシュアワーが終り入庫が一段落して、相当多数の電車が入庫中であり、構内に現に作業している者の数は少数であつたことは認められる。しかし所論のように構内の状況を知悉する被告人らにとつては他人に発見されることなく現場に出入することが極めて容易であるとは断定できない。そうかと言つて、原審の認定するように見張に不適当だとの断定も行き過ぎである。従つて本件発進現場の模様自体から、本件共同犯行の肯定的事情或は否定的事情を導き出すことはできないと解するのが相当である。
この点に関する原審の判断の誤も間接的な事実に関する誤であつて、判決に影響を及ぼす程重大なものとは認められない。
(五) 本件発生当夜電車発進現場附近で竹内以外の被告人ら六名を目撃した者がないとの点。
証人坂本安男が被告人竹内と本件電車発進現場附近で遭遇したとの事実が、被告人竹内の本件犯行について有力な肯定的証拠となると同様、本件事故直後電車発進現場附近で被告人竹内以外の被告人らについて、目撃者があるならば、有力な肯定的証拠になるのであるが、これと反対に、同被告人らについては目撃者がないとの事情は原審説明のように否定的事情となることは疑のないところである。目撃者があつても進んで証言しないことも考えられるとの推測については根拠に乏しいものといわなければならぬ、この点の所論は理由がない。
(六) 本件事故発生後被告人竹内と他の被告人らが善後策を協議したことがないとの点(第六点)及び七月十六日及び十七日のアリバイその他に関する被告人らの会合に竹内が加つていないとの点(第七点)。
所論の被告人竹内の検事に対する供述調書(記録第二五冊第四〇八丁以下、昭和二十四年八月九日附)に、「即ち帰り道家内を外に待たせ私一人で事務所に入つた所飯田元委員長やその他四、五名の者が居り飯田氏は凄い事故だと申したので、私は首になつたのでは手も出す気もしない、首になつた方が大きいと申しました。飯田氏は組合員の者に嫌疑がかかるかも知れないから、身元を整理しアリバイを判然りして置いた方が良いと申して居りました。時刻は午後十一時過だと思います。」との記載があり、原審証人坂本安男の供述(記録第一九冊第一七七丁以下)によれば、被告人竹内が、翌十六日組合事務所に来て誰かと話していた事実が認められるのであるが、これだけでは本件について善後策の打合をしたことを推定することはできない。被告人竹内と他の被告人らが本件の善後策について協議を為し、アリバイ工作をしたという事実があるならば本件共同犯行の有力な証拠となるのであることは勿論であるが、反対にこのような事実が全然認められない場合は原審の説明する通り本件共同犯行否定の一資料とすることは可能であると考えられる。尤も本件犯行が極めて周到な計画の下に実行せられ、善後策を協議し、アリバイ工作に被告人竹内を加えることが共同犯行発覚の端緒となることを考えて、これをしなかつたというような特別な事情があれば格別であるが、このような事情がなかつたものと認められる本件においては、原審の説明は妥当である。
殊に原審が説明するように、被告人竹内以外の被告人はいづれも直ちに事故現場に行き、或は事故発生原因を究明しようとし、或は救助作業の手伝に当り、或は被害者救援のために奔走するなどの行為をしていたことは、原審公判廷における関係被告人の供述によつてこれを認め得るところであり、この事情は本件共同犯行を否定する事情となり得ることは原審説明の通りである。この点の所論は理由がない。
(七) 原審において被告人竹内は、当初単独犯行を認め、落着いた態度を示していたが、事実を否認して以来、全くその落着きを失つて憔悴し、ふたたび単独犯行を認めるに至つてから平静をとりもどし、真摯な態度で単独犯行に関し、詳細陳述したのに反し、他の被告人らはいづれも終始事実を否認し殆ど変らない態度であつたとの点(第八点)、被告人竹内の右態度には、共産党又は共産党員である他の被告人らを恐れ若しくはこれを庇護して殊更真実を隠蔽し他の被告人らの責任を免れしめるために事実に反して自己の単独犯行であると強弁している痕跡が全然ないとの点(第九点)、竹内は原審公判廷で他の被告人らの行動に対して鋭どい非難の言葉をあびせながらもなお且本件は自己の単独犯行で他の被告人らとの共同犯行ではないと訴え他の被告人らを無実の罪におとしいれぬようにと悲痛な叫びをあげている点(第十点)。
被告人竹内以外の他被告人らが終始変らない否認の態度を続けた事だけから、本件共同犯行を否定する事情とはなし得ないことは所論の通りであり、原審公判廷における証人竹内政の供述(記録第二六冊第八六丁以下)によれば、昭和二十四年十月か十一月頃犠牲者の家族というわけで労農救援会から毎月二千円位昭和二十五年二月頃まで貰つたこと、被告人竹内宅が一時家族救援会の事務所になつていて、加藤政夫が事務をとり、大久保、黒川、金沢等が話しに来たことは認められるけれども、それ以外の主張事実は認められない。(所論の憂囚録の記載を証拠として援用できないことは前に説明した通りである。)以上の事実だけで原審の説明する事情を否定できないし、原審の挙示する前記の事情は本件共同犯行の否定的事情として働くことは謂うまでもないところであるから、この点について原審には所論のような審理不尽はないのである。
第九、捜査経過の批判について。
原判決が本件の捜査経過の批判をしたことは所論の通りである。
元来捜査経過の批判の如きは証拠の価値判断、信憑力の検討に必要ある場合の外特に判決に説明を要すべき事項でもないのである。ただこの批判は被告人ら及び弁護人らの拷問脅迫、政治的陰謀、証拠湮滅の主張を排斥する際の附随事項として述べられたもので、判決の構成から見ても、左程重要性はないものと考えられる。旧刑事訴訟法による事件では当該事件の捜査の経過を明かにした全記録を裁判所に送付し、裁判所がこれを事前に審査して公判に臨んで、審理をして来たのであるから、この種の事件については、裁判所は或る程度その事件についての捜査過程における知識を得ることができたのであるが、現行刑事訴訟法は起訴状一本主義を採り、公判における直接審理主義を原則とし、捜査過程に関する資料の提出は極めて限定されるのであるから、裁判所としては捜査過程における資料に接し又はその知識を得る機会が少ないものと謂はなければならない。本件においても捜査過程における資料は殆んど捜査官の手許にあつて、公判廷に顕出せられた資料は相当限定されたものであつたことが、記録全体を通じて窺えるのであるから、このような乏しい資料から捜査過程を批判することは可なりの独断を伴う危険性が大きいものであると謂はなければならない。
従つて原審が批難する飯田の取調の続行、起訴、被告人清水ら六名の被告人に対する検挙、栗原照夫らの逮捕勾留、被告人相互間の矛盾不統一ある供述をそのまま看過したこと等についても、それぞれ検察官主張のような理由があるとも考えられるところであり、その当否は本件にあらわれた資料のみならず、すべての捜査過程にあらわれた資料を完全に検討しなければ軽々に判断できないものと考えられる。原審公判廷で証言した取調検事たる田中検事の供述が不充分であつた一事から、前記のように判断したことは所論のように審理不尽による事実の誤認を疑う余地がある。
しかしながら、この誤認は捜査経過の誤認であつて、犯罪事実そのもの或はこれと密接に関連ある事実或はこれらを認定し得る証拠に関する誤認ではないから、判決自体に直ちに影響を及ぼすものとは考えられないから、この点に関する所論も結局採用することができない。
第十、以上の綜合判断。
以上説明した通り審理不尽に因る事実誤認を主張する所論には一部正当なものがあるけれども、当該部分が直ちに判決に影響を及ぼすものとし難いこと前記説明の通りであるから、結局第四点全部の控訴趣意はこれを採用することができない。
〔Ⅱ〕 第五点 経験則違反に因る事実誤認。
本論旨の要点は、原判決は著しく経験則に違背して証拠の価値判断又は採証をした結果、事実を誤認したものであつて、その誤認は判決に影響を及ぼすことが明かであるから破棄せらるべきものである。即ち一定の証拠の価値判断、その取捨並該証拠に基く事実の認定は本則として事実承審官たる原審の専権に属する所であるが、これ等の判断及び事実の認定は須らく経験則に照らし合理的にして妥当なものでなければならぬ。従つて一定の証拠により一定の事実を認定するに際してその証拠又は供述の趣旨は、それらが経験則上有する意義に従つて解釈され、判断されなければならないのであり、又二つ以上の相矛盾する証拠がある場合、その何れを措信し採用するかの判断又は一定の証拠により認定した事実に基いてある結論を導き出す如き場合にあつては、その判断の過程において、これまた経験則に照らして合理的でなければならぬ。
然るに原判決は本件共同犯行を証明する数々の証拠につき、著しく経験則に反してその意義を解釈し、また価値判断を為し、ひいてはその証明力を否定した結果、重大なる事実の誤認をしたものであるというにあつて、その所論は第一「被告人竹内景助らの自白について」第二「証人栗原照夫らの関係について」第三「相川判事の証人尋問調書について」と題し、原判決の無罪理由中主要部分全部に触れ(第三二丁乃至第一〇一丁、第一一〇丁乃至第一二五丁、第一二九丁)、本件の中心を為す部分であるから、順次これについて判断することとする。
第一節 被告人竹内景助らの自白について。
原判決が被告人竹内の供述について、各項目毎に比較検討した後の結論として「以上を綜合するときは、竹内の共同犯行に関する供述は単独犯行に関する供述と打つて変り、再三再四変更し、その間多くの矛盾に富み、推測と想像を逞しくしているのであつて、とうてい真実に符合するものとして措信することはできない。」(判決第五二丁)とし、
被告人横谷の供述についても、各項目毎に検討した上、「以上を綜合するに、被告人横谷の各供述で明かにされた被告人横谷自身の行動が極めて不自然な点と被告人竹内を初め他の被告人たちの行動の曖昧な点及び動機の不明な点(八月十八日附供述調書では六三型電車を原因不明で動かし、当局にいやな思いをさせ同時に首切りに対する闘争に利用することになつているが、これは横谷の全体の供述からはたやすく措信し難い。)を考えれば、被告人横谷の共同犯行に関する自白も亦被告人竹内の共同犯行に対する自白と同様これを真実のものとして措信することはできない。」(判決第六三丁)と結論し、
被告人伊藤の供述についても同様の検討を加えた後結論として「以上考察した結果を綜合するときは、伊藤の供述は初めは本件に対し傍観者的、第三者的態度をあらわし、他の被告人たちの行動について、本件に最も密接でない事項から、次第に直接関係ある事項に供述を除々に変更し、これを維持し難くなるや自己の本件に関する見張の行動を認めながら専ら他の被告人たちの行動を爼止に載せ、自己の行動を曖昧にして責任を免れようとしているものということができる。供述の動揺と浅薄、供述の打算的利己的意図、これが被告人伊藤の供述の特徴であり、しかも右の如く矛盾撞着に富む不自然なものであつてその措信することのできないことは右の点からも明白である。」(判決第八六丁)とし、
被告人外山の供述についても同様の検討の結論として、「この検事の発問とこれに対する外山の供述の模様から見れば、外山が検事に対し、真実の自白をしたものと認め難い。」(判決第八八丁)とし、
被告人竹内、同横谷、同伊藤の各自白相互間における矛盾と不統一を検討した上「これら矛盾不統一を前に述べた各自白の内容の矛盾と照し合わせて考えるときは、これらの自白をそのまま真実のものとしてとうてい措信することができないことが明かである。」(判決第九〇丁第九一丁)とし、
被告人竹内、同横谷、同伊藤、同外山の各自白相互の影響と各自白の原因について検討を加えた結論として、「以上竹内、横谷、伊藤三者間の各自白の影響について考察を加えたが(なお外山については、その八月二十二日附供述調書にあるように、検事の間の中に検事が外山に対し「あの電車を動かすについて重要な役割を担当した人々がすでに事実を述べていることをいつた」とある点からみてもその抽象的な影響が外山の自白にも看取される)、これによつて見てもこれら自白をそのまま真実として措信することはできない。」(判決第九二丁)、「以上検討したような被告人竹内、同横谷、同伊藤、同外山の各自白相互間の影響と各自白の原因等を前に述べたこれら自白の矛盾と併せ考察するときは、各自白の信憑力のないことは一層明かである。結局被告人竹内、同横谷、同伊藤、同外山の各自白を総括して考究するときは、各自白は被告人伊藤の利己的、打算的動機から誘致されたものであつて、各供述の再三にわたる変化と本質的矛盾を含み、断片的、形式的、紛飾的言辞に富み、供述の態度に首尾一貫したところがなく、とうていこれら自白を真実に符合するものとして措信することはできない。」(判決第一〇一丁)としていることは所論の通りである。
而して、同一人の相矛盾する供述の何れを措信するかは、須く諸般の状況並に経験則に照らして判断すべきことは所論の通りであり、証拠の価値判断これに基く事実の認定は事実審裁判所の専権に属するところであるが、その証拠判断及び事実認定が経験則に照らして合理的でなければならないことも勿論である。
本件のような被告人多数の事件で、その中数人が自白し、その中一人の多数回に亘る自白調書相互間に既に矛盾不統一があるのみならず、その各人の自白相互間にも矛盾不統一があるような場合の自白の信憑力の決定は、極めて困難な問題であることは何人にも容易に肯認さるべきところである。検察官所論のように同一人の前後数回に亘る供述に矛盾不統一があるからといつて直ちにその全部が虚偽であると速断することが許されないことはいうまでもないところである。又、前の供述が後の供述によつて変更訂正された場合は訂正前のものが依然正しいのか、訂正変更後の供述が正しいかを検討しなければならないであろう。
凡そ供述の信憑力を決定して行くためには先づ、
第一に、供述自体を検討しなければならない。供述の正確、適切、或は経験則に合致することは当該供述の信憑力を高からしめるに反し、供述自体の曖昧、不統一、矛盾又は経験則違反はその供述の信憑力を低下するからである。たとえば、同一人の供述において、あの事項については「そうである。こうである。」と断定的に述べるに反し、他の事項については、「と思う。」「かも知れない。」と推測的に述べるのでは、その信憑力が異なり、断定的の場合はこれに依つて事実認定が可能であるに反し、推測的な場合はそれと反対の場合もあるかも知れないとの疑の余地を残すからである。
又一個の供述は供述調書が全体として矛盾なく、正確な内容を以て首尾一貫している場合はその信憑力が高いのに反し、前後矛盾し、不統一があり、或は推測的事実ばかりで曖昧である場合はその信憑力は低からざるを得ないのである。而して矛盾不統一が甚だしく曖昧の程度が甚だしいため、それ自体から、他の証拠と比較するまでもなく、信憑力の否定される供述又は供述調書も絶無とはいえない。次に同一人の前後数回の供述又は供述調書がある場合に、その個々の供述又は供述調書は内部的には矛盾不統一がないけれども、他の供述又は供述調書と比較すると矛盾不統一があつて、そのいづれかの供述又は供述調書が否定される場合もあり得るのである。
第二に、同一事項に関し、被告人、証人その他関係者多数が供述し、その間に矛盾、不統一がある場合においては先づ各被告人証人等について、第一の方法によつて検討し、然る後各人の供述を比較し真実を採り、虚偽を捨てて、これにもとづく事実認定をしなければならないし、更に各供述を綜合して出て来た真実と思はれる事実を、この事実を取巻く客観的事情に照らして見て、その真偽を判断する必要のあることも勿論であろう。
第三に、供述の信憑力を決定して行く上に、重要であることは、当該供述の行われた動機、原因、当該供述と他の供述との相互影響関係、法廷における被告人、証人らの供述態度等の検討である。
而してこれらの調査検討は個々別々に為さるべきでなく、綜合的に為されなければ正しい結論を得ることができないことは勿論である。
本件についてこれを見れば、一被告人の自白の信憑力の決定については、当該被告人の前後数回にわたる個々の供述について検討し、これに数個の供述相互間の検討を加え、当該自白の行われた動機、原因を検討すると共に、他の被告人の供述との関連における比較対照、相互影響の有無の調査、更に、被告人以外の証人等の供述との比較対照、本件を取巻く客観的事情の考察等、結局本件にあらわれたあらゆる証拠との綜合判断を実施しなければならないのである。原審は被告人竹内、同横谷、同伊藤、同外山の各自白について、先づ分析的に各重要事項毎に、同一被告人の数回に亘つて行はれた供述について、前記第一のように供述自体の正確であるか曖昧であるかその間の矛盾不統一があるか否かについて検討し、次いで綜合的に第二、第三のように供述相互間の矛盾不統一を検討し、各自の自白の相互影響及び自白の原因を調査し、その結論を導いているのであつて、供述又は供述調書の信憑力の決定に必要にして十分な調査を遂げたことはこれを認めるに十分である。而して前記の各証拠の綜合判断を遂げていることも、判決全体を通じて十分窺い得るところである。ただこのような綜合判断を判決文として記載して行くためには、技術的に原審のとつたような形式になるのは己むを得ないところであり、先に説明したように、原審判決の表現形式をとらえて、綜合判断を欠いているとか分断方式をとつているとかいう批難は当を得ないものといわねばならない。
さて本件の中心である共同犯行の成否について被告人らの自白を検討する段階になるのであるが、これらの自白の内容を日時の順を追いこれを項目別に示せば、原判決が挙示しているように、
1 七月十五日前における本件事故に関する話合について。
2 七月十五日午後における整備第二詰所古電車内と組合事務所の状況について。(以上原判決第六四丁及び第六七丁被告人伊藤関係(一)、(二)の事項)
3 被告人横谷が七月十五日組合事務所で被告人外山から本件の企てを知らされた点について。(判決第五三丁被告人横谷関係(四)の事項)
4 七月十五日午後整備第二詰所古電車内の共謀と組合裏における被告人竹内、横谷の協議について。(判決第五五丁以下被告人横谷関係(五)の事項及び判決第三三丁以下被告人竹内関係(一)の事項)
5 七月十五日午後における整備第二詰所の古電車内の会合と被告人竹内の関係について。(判決第三九丁以下被告人竹内関係(二)の事項)
6 七月十五日夜の高相健二方における本件共謀について。(判決第五七丁以下被告人横谷関係(六)の事項、判決第七三丁以下被告人伊藤関係(三)の事項)
7 右会議における中座について。(判決第五八丁以下被告人横谷関係(七)の事項、判決第七三丁以下被告人伊藤関係(三)の事項)
8 七月十五日午後九時頃に被告人竹内が自宅を出るときの決意とその後の変更について。(判決第四一丁以下被告人竹内関係(三)の事項)
9 本件犯行の見張について。(判決第七九丁被告人伊藤関係(四)の事項)
10 本件事故電車の発進現場の模様について。(判決第六〇丁以下、被告人横谷関係(八)の事項)
11 被告人竹内が本件事故電車の運転台に上るまでの行動について。(判決第四三丁、被告人竹内関係(四)の事項)
12 本件事故電車の運転台における被告人竹内、横谷の行動について。(判決第四八丁、被告人竹内関係(五)の事項)
13 運転台を下りた後自宅に帰るまでの被告人竹内の行動について。(判決第四八丁以下被告人竹内関係(六)の事項)
14 本件事故発生後の被告人竹内の行動について。(判決第五一丁以下、被告人竹内関係(七)の事項)
となつている。
以下この項目の順序に従つて、各被告人らの自白の内容の当否を前記のような綜合的見地から判断することとする。綜合判断に際し常に省察を加えなければならないのは、他の被告人の供述はどうか、他の証人その他の関係者はどう言つているか、本件をとりまく他の客観的事情はどうかということであり、これ等のことを考慮しながら、以下右項目別に説明することとする。
以上の各項目の判断について、常に参照されなければならないのは、本件事故の発生前における三鷹電車区労働組合を繞る情勢であつて、前記第四点第八の(一)において説明したような緊迫した情勢があつたことである。即ち被告人外山の検事に対する八月十日附供述調書(記録第二五冊第四一丁以下)には、
「(五)四月下旬(昭和二十四年)琴平大会が行はれましたが、その直後分会定期大会が三鷹電車区建物の二階講堂で確か吉原三四郎さんが議長となり組合員三百五十名位が出席の上で行はれました。組合員は約五百七十名位居ります。議題は琴平の決議を分会として如何にあつかうかという事でしたが、結局此れを呑むことに決しました。すなはち(一)首切り反対の為に国鉄防衛闘争を行うこと、すなはち国鉄が現在荒廃して居る実状を大衆に訴え此の状況下に予算を削減したり首切りを強行したりすれば、一層荒廃することになると言う点を強調して首切りに反対し、国鉄の荒廃を防衛しようというのです。(二)来るべき首切り反対の為めの争議で、当局から一方的に首を切られた組合員は依然として組合員と認め其の組合活動を認めると言つたものでした。
(六) 此の分会の決議は分会の執行部により具体的に実施されたわけです。執行部は、執行委員長飯田七三、副委員長石井方治、委員青柳正雄、石井良司、田村則夫、西巻某、今成秀吉、伊藤正信、田代勇等の執行委員長から成り尚副委員相原一男が居りましたが、常任ではなく、自分の仕事がありますので、たいして活溌には動きませんでした。
(七) 分会には委員が三十名位居り、私もその一人です。右の執行委員中分会の役員となつているのは次の通りです。書記長青柳正雄、物資部長西巻某、文化体育部長今成秀吉、社会部長伊藤正信、青年部長田代勇となつて居ります。
(八) 琴平決議を呑む分会の態度は此等の執行部で企劃されたのですが、私共細胞としても側面から関与したわけで、執行委員の中飯田、青柳、伊藤及び田代は細胞ですから、其の意味で関与できるわけです。
(九) 分会及び細胞としては其の頃から国鉄防衛闘争を以て、当局の一方的首切りに反対することに重点がおかれたわけで、其の具体的な方法として国鉄の軌道や車輛が現実に荒廃して居る姿を写真や漫画や口頭等で大衆に理解せしめる様に努力したわけです。荒廃の実情として軌道が破損したり鉄橋の桁にひびが入つて居たり、又六三型と言はれてゐる古い車輛が事故が多く戦時中造られたものである為たとえばヒユーズがとんで車が動かなくなつたり、ドアーが進行中開いたり又停車しなくなつたりと言う事故が多く、私自身の体験としても六三型ではありませんでしたが、一部六三型を編成した車輛が昨年八月頃水道橋駅附近で動かなくなり、又四ツ谷駅でも動かなくなつたこともあり、それらが原因不明の事故が多いので、此等の事故を写真展、壁新聞、ビラ等で宣伝した次第です。もつとも此の宣伝は組合が主としてやつたもので、細胞としては三鷹駅前で一回写真展を開いた折組合の手伝をした程度です。
(十) 其の間六月上旬車掌区の新交番制が実施され大量首切り近しと見られたので、同月八日頃臨時分会大会を開きストを含む実力行使を行う事になり、分会は闘争態勢に入り、闘争委員長飯田七三、副委員長石井方治、同相原一男、書記長青柳正雄、共同闘争部長伊藤正信、情報宣伝部長今成秀吉と夫れ夫れ役員となり闘争委員約四十名の一人として私も加はりました。
(十一) その夜中野電車区、車掌区、駅連区と協議の上、同月九日と記憶しますが翌日からストを実施する事にしました。翌九日頃の一番電車から進駐軍関係を除きストに入り、私は行動隊員の一人として、乗客にストの止むなき事情を納得させたり、又スト破りを警戒したりする仕事に努力しました。翌十日頃も一番から行いましたが午後になり、中止命令がGHQから出され午後三時半頃闘争委員会でも中止命令を出すに到り此れで終つてしまいました。
(十二) その間分会の民同派がスト破りをしたり、又此の国電ストの為飯田委員長を始め、十一名の首切りが行はれたので、組合員の間にスト反対の空気が強くなり来るべき大量首切りに対し分会が共同闘争の第一線に立つてストを行う事は出来ないと言う見通しが強くなり結局他の分会が起つた後ででもなければ起てないと言う状況となりました。
(十三) 其の後細胞は三鷹電車区の整備第二詰所と言はれる古電車の中や同区の仕業詰所及び三鷹駅前の高相小間物店等で町委員会の方も参加ししばしば、細胞会議を持つて対策を考えましたが、結局来るべき首切りにはストはやれない、単に組合の分裂を防ぎつつ電車区長え首切りの人選の理由を開示する事を要求し、退職辞令は受取らずに返上すると言つた事しか考えられませんでした。一方組合としては国鉄荒廃宣伝に努力すると言う位の事でした。
(十四) 其の間に熱海で六月下旬国鉄労組中央委員会が行はれ、その決議として、(一)宣伝を強化すること、(二)遵法闘争を行うこと、(三)ストを含む実力行使をも辞しないこと等の事が決まりました。分会は其の頃前述の講堂で臨時大会を開き、岩田助役を議長とし三百五十名位集つて四百名位だつたかも知れませんが、とに角其の結果此の熱海の決議を呑み、最悪の場合にはストをも行うと言うことになりましたが、その場合の犠牲者の救済をどうするかと言う点では結論として、組合員各自から二百何円かを出して貰うことになりました。
(十五) 此の分会決議の実施は飯田委員長以下の執行部で企劃実施され、その間細胞も関与しました。結局規則通りに仕事をして電車の安全度を高めるが、其の輸送力をおとすと言う遵法闘争は分会としては技術的に出来ないと言う事になり又ストを含む実力行使と言うことも已に述べた事情で、国電ストの結果を見るとストは出来ないし又其の他の実力行使として考えられる安全運転や又検修及び整備等で手をぬいて事故を多くすると言つた事をやる事も出来ないと言う事になり唯一の方法として結局国鉄の荒廃を大衆に宣伝すると言う事以外には大量首切りに対する分会及び細胞の対策としては考えられなかつたのです。
(十六) 此の様な情勢の下で七月五日頃第一次首切りが発表されました。(中略)此の首切りで私も整理されたのです。(中略)而し私は首を切られた人々と共にその日以後しばしば区長室に押掛け、今考えると誠に過激な言葉で区長さんに「首切りの理由を聞かせろ、誰れが人選したのか」とか「下山総裁は自殺したが社会を前進させる歯車の前には何ものもかなはないのだ、下山は政局の動きや吉田政策の行づまりから自殺したのだろう、犬養さんでさえも吉田さんには背を向けて居る、区長も私共と共に首切に反対するかどうか」等と立ち乍ら過激な態度で話したり、「区長の態度がおれ達に荒い態度を取らせるのだ、よそでは色々混乱が来ているが、分会が混乱しないのは区長だけの力ではなく組合が強いからだ、大事にならぬ中に理由を聞かせろ。」等と述べ更に「電車区でも区長官舎へどなり込んだそうだが此以上組合の秩序は責任が持てぬ」等と言つた。(下略)
(十七) (前略)第一に見通しとして今度首を切られても遅くとも半年位後には再び復職出来ると考えていたからです。私は吉田内閣が其の頃迄には政策の行づまりから倒れ、其の後には社会党、共産党、労働組合等を中心とした政府が出来、国鉄の建直しをやると考えていたのです。(下略)
(十八) 第一次首切り発表後組合や細胞では其の対策を考えましたが、やはりストは出来ないし、実力行使も遵法闘争も実行出来る見込はなし、単に荒廃の宣伝と区長への理由を明かにせよと交渉する事以外には、たいした対策も活動も出来ませんでした。区長に辞令引渡を拒絶するという戦術も其後老人や婦人等が受取り始め遂に殆んど効果はなく、区長への理由開示を求める交渉も次第に単にいやがらせのものとなつて行きました。
(十九) 国鉄防衛闘争の一環としての国鉄荒廃状況の宣伝は結局此の大量首切りに対する対策として残つたわけで分会では飯田委員長が分会長会議で宣伝用の写真や漫画等を渡されて来て伊藤や今成、清水等が企画し、七月九日頃から無人電車事故の起つた十五日頃迄の間に三鷹駅前で、六三型が原町田駅でやけた情況や軌道が磨耗したり、鉄橋にヒビが入つた情況等の写真展を開いたり、各工場えビラをくばつたり壁新聞を貼つたりした程度のものです。
(二十) 七月十四日か十五日頃に私か先崎かが三鷹電車区細胞としての復興綱領と言うビラを刷つた記憶はありますが、これは其の前にも刷つて組合員に配つた事があり足り、なかつたので作つただけの事です。此れはアカハタ等に各職場で綱領を作れと言う記事があり国電ストの後に細胞が批判をした結果私共は事件屋やストライキマンではないというので、六月二十日頃から飯田、清水、伊藤、私等で中野電車区で作つたものを伊藤が持つて来たので、それを資料として同月下旬頃草案を作つたのです。其の後例の古電車の中で飯田さんを始め、私、清水、伊藤、田代、田村それに志村も居たかも知れませんが、電車区以外の喜屋武氏等も加はり此れを検討し一部訂正して決定されたものです。
(二十一) 其の綱領の内容は、三鷹電車区は人民皆んなのもので俺達が此れをあづかり修理したり走らせたりして居るので、俺達は使はれて居ると言つた卑屈な考えをすてて真剣に働かねばならない、其の為に資材をよこせ、六三型電車を改造しろ、鉄道研究所の縮少に反対する、吉田内閣を打倒せよ等と言つたものでした。
(二十二) 三鷹人民電車区等と言う言葉は私共として真剣に考えたわけではなく、現在の分会としては宣伝出来ない事だし、又単一の電車区だけでやれるものではありません。国電スト前後の頃に私が清水から、「仕業で聞いて来たのだが、岩田助役は分会の大会の議長として助役さんなのによくやつた、今度は岩田さんを区長にして飯田さんを首席位にしよう等と言つている」と聞いた事はあります。而し人民電車区と言う言葉を聞いた覚えはなく又其の様な事は単に冗談と思い聞き流して居りました。
(二十三) 此の様な情勢下で七月十四日第二次首切りが発表されました。而し此れに対する対策も活動も前述の通りストも遵法闘争も実力行使も行える見通しは無し組合としても細胞としても、(一)首を切られたものの救済をどうするか、(二)首を切られたものと切られないものとの融和をどうして計るか、(三)組合の団結をどうして維持するか等と言う点に重点が置かれ、大衆に対する運動としては(一)首切りを強行した結果事故の発生が多くなつたと言う事、(二)国鉄が本当に荒廃している事等と言う事を宣伝すると言つた方法しか考えられませんでした。(下略)」とあり、
原審証人石井方治の原審公判廷における供述(記録第一七册第二丁以下)として
「私は昭和二十四年六月十日の国鉄ストの責任者として懲戒処分のため馘になつた、その時馘になつた者は当時組合の役員であつた私の外飯田七三、伊藤正信、今成秀吉、青柳正雄、田代勇、浅子喜一、浜野、清水豊、横谷武男、先崎邦彦の以上十一名であつた。昭和二十四年三月定期改選のとき三鷹電車区分会の執行副委員長となつた。国電ストの原因は、当時の国鉄の行政整理反対闘争が四月以降新執行部発足以来の大きな問題であり、日が経過するに従つて、各組合員の心理的動揺と闘争意識が非常に強くなつて来た。六月五日に分会の大会が開かれ、その後六月九日に再び分会大会が開かれ、その時が国鉄ストをする前の大会となつた。その席上ストライキを決行するかどうかが大会の議題で、本部中闘の指令にもとずいてストを行うもの、十三電車区を中心にストをやるという者、中野ブロツクでストをやるというものもあつたが、結局最後には本部の一貫した指令でストをやるかさもなければブロツク的にストをやるかと言うことになつた。当時議長には岩田啓氏がなり、採決は中野ブロツクでストをやれという者が三百三十三名、それから本部の一貫した指令でストをやれと言う者が二十八名結局三百三十三対二十八で此のストが大会で可決され、国電ストが初まつた。このストは十日初電より初まり十一日夕方に中止とされた。本部の指令によつてやろうと言つた人々の気持は非常に微妙で、ストを回避しようとする者とやるという者があり、ストを回避することが困難なときには、戦術上、今すぐやる事を抑えてこれを延期するため本部の指令を待てという作戦のようであつた。当時国鉄の職員はストをすることは非合法であつたが、馘切りに反対する気持からストを阻止することは不可能であつた。国電ストは中野地区と連合して行つたが連絡が仲々とれず、世論は不利で、スト突入が早過ぎたので、スト打切についても何も具体的方法がなく、ストに入るときは気勢があがつていたが、スト打切の時は非常な困難さがあつた。三鷹電車区は当時中闘を縮少したように発足以来組合員が共産党派と民同派に分れていたので、此の両者間に軋轢がありスト決行に非常に困難があつた。又ストを打切つた時組合事務室で外郭団体が見えてストの批判を話合つたことがあるが、その席上飯田七三氏が此のストライキは共産党の方針通りやつたといつたので私はそんな馬鹿なことはないと議論し飯田氏はそれを取消すということになつたことがある。民同と共産党の対立は何か起きないかという不安さがあつた。七月四日の分会の臨時大会の時はストを含む実力行使をするかどうかが大きな問題であつたが、此の時はストに反対する者が非常に多くなつた。行政整理は七月上旬第一回があり、七月十四日第二回が発表された。区長からその人々に対して馘首の通知があつたが、組合員は二、三を除き、整理されても組合の方に出勤し反対闘争に参加していた。七月十五日当日ストに入るといつていた者については記憶がない。大局的に見てストに入ることは無理であるように思つた。第一次、第二次整理に対して組合執行部の措置は、七月四日の大会の決議を推進することであつた。此の大会では三百三十七票対百七十四票でストを含む実力行使をする事を決定したが、組合員の心境から推してストを実行することは困難であると見られたので、然らば他にどう言う方法をやるかと言う事も定まつていなかつたので一日一日と日が経過するにつれて闘争力が鈍つて行つた。右七月四日の大会は熱海の中央委員会が終つて最初の大会であつたので、熱海の大会を縮少したもののように思はれ、左右両派の対立で闘争方針や第五項ストをやるかどうかについて論議が交された。六月九日の国電ストの批判からストに反対するものが非常に増えて来た。当時スト反対派は私、高橋、高田武男、田村、横地、賛成側は飯田、伊藤、青柳、外山等であつた。被告人竹内は右大会に出席して、ストに対しては賛成の方であり、共産党側のやうな発言をしていた。
組合の闘争方針について、私と共産党のものとは全く考えが異うのであつて、執行委員会や大会でスムースに事が終つたと言う事はなく議論が絶えまなく交された。又正式な席でなくとも理論闘争は大抵行はれていた。記憶に残つているものでは七月上旬組合事務室に朝出勤すると民主人民政府が出来たら石井方治は絞首刑にすると言う噂があるが、そんな事はあるまいかと論争したことがある。その時たしか外部団体の者が二名程来ていたがけりがつかないで別れてしまつたが、その所へ田代君が入つて来て突然そのやうなことを言つたので、飯田さんが田代君を外に呼んで注意をしていたことがあつた。人民電車区という言葉は共産党の人達から時折出ていた」との記載があり、
此の反対の立場にある両者の供述を綜合すると略々前記のような情勢を窺うことができるのである。
第一款 七月十五日前における本件事故に関する話合
1 七月十五日前における本件事故に関する話会について。(趣意書第五点第一の三の(一)、二七七頁以下)
原判決はこの点に関する被告人伊藤の供述を比較検討しその結果を表とした上、「右表の特徴とするところは、事故を起す話を始めたのが飯田又は横谷のいづれかであること、その話の一任を求めて実行することにして話を結んだのが飯田であることである。これによつて飯田及び横谷がこの事件で中心的役割を演ずることを示唆するようであるが、このときの話合は宣伝の具に供する電車事故を対象としていて、この事故によりストライキを企図する模様がない。また電車事故の内容が具体的に一定されていない。これ等の発言はいづれも断片的に各人の口から飛出しているに過ぎないのであつて、これをあくまで実行に移そうとするものの言とは見えない。このことは先崎が手を叩いて面白がつたという<8>の供述によつても裏ずけられる。
次にこの会話における伊藤自身の態度を見るに、専ら他人の片々たる言葉を思い出し、自己の言葉については<5>の供述でわずかに独白的な口吻を洩らすのみである。しかもこの一語は続く<6>の供述では抹殺されている。電車事故に関して話合を進め、その間に飯田、外山、清水、横谷に次いで田代と共に発言したと自認する(<2>の供述)伊藤が、自己の発言の内容を明確にしないことは、この供述が虚偽を含むものであることを思はしめる。この虚偽が自己の行為に関するか、又は他人の行為に関するかは、結局その供述全体を検討して決定さるべきであろうが、少くともここに挙げた部分の供述からすれば、余りにも句々たる言葉を捉えてこれを他の被告人たちに結びつけた疑いが十分看取される。」(判決六七丁)と判示している。而して所論の証拠その他被告人らの公判廷における供述によれば、本件発生前三鷹電車区共産党細胞に属する被告人らは相当多数回に亘つて会議を開いたことが認められ、被告人伊藤が前の度々の会議における自己や他の被告人らの発言を一々詳細に記憶していない場合もあり得るところであるから、この点については十分の検討を必要とするのである。
原判決が、「この事故によりストライキを企図する模様がない」と説明している部分は前記本件当時の三鷹電車区の情勢を説明したところによつて明かな通り、当時ストライキの実行は非常に困難であつたのであるから、ストライキと本件事故とを結びつけて判断することはできない。(被告人竹内が個人としてストライキを考えていたとしても、これは同床異夢的に考え得るに過ぎないことは前に説明した通りである。)自然事故発生と見せかけて、六三型電車の危険であることの宣伝に使うこと、これに併せて当局に対するいやがらせをすること、間接的には事故発生による職場全体の意気の昂揚と職場の統一を意図することも本件事故との関連を持ち得るからである。
次にこの点に関しては、右の話合が行はれた会議に出席した原審証人志村広己、栗原照夫及び小野明等の供述があるのであり、これと対比してこの点に関する被告人伊藤の供述の当否を判断するのが相当であり、かくして確定し得た事実があるならば、これが本件共謀とどのようなつながりがあるかを調査し、その法律的価値判断を加えなければならない。
原審証人志村広己の原審公判廷の供述(記録第一七冊第一七一丁以下及び第二一五丁以下)として、
「七月十日頃整備第二詰所で会議を持つたことがあり、そのときは復興綱領を作るというような会議だつた記憶がある。そのとき午後七時頃から九時半頃までで、出席者は伊藤、飯田、横谷、田代、先崎、外山、清水位であるが宮原は記憶がない。電車区以外では喜屋武も出ていたようであるが、その他に名前を知らない共産党員の者が一人いて、全部で十五、六人いたと思う。議長は飯田と思う。会議の内容はそのころ会議を多く持つたのではつきりしないが、問題になつたのは遵法闘争のことであつた。たしか伊藤が、田町電車区あたりでは遵法闘争が徹底していると発言し、それから田代と思うが、三鷹電車区も遵法闘争をやれば動かない電車が多いだろうと云つていた。たしか外山がいつたと記憶するが、電車の検査をするときに手を抜けば自然事故が起りストをやつたと同じ効果があるというようなことを言つたと思う。前に裁判官や検察官に調べられたときの記憶が一番はつきりしていたと思う。」との記載があり、
志村広己に対する昭和二十四年九月二十八日附証人尋問調書(記録第二〇冊第六一丁以下)によれば、
「本年(昭和二十四年)七月八日頃整備第二詰所(古電車内)で共産党の細胞会議を開いたことがある。出席者は、飯田、横谷、田代、清水、先崎、外山、伊藤、青柳、栗原、藤田及び私、その外奈良、浜野、小野、宮原、加藤等が居た様にも思うが、はつきりしない。外部の者としては喜屋武の外に一人の地区委員が出席した様に思う。(他の日であつたかはつきりしない。)会議の内容は共産党の復興綱領について、それを至急作成することであつた。其の次は七月十日頃かと思うが、車輛手詰所になつていた古電車内で細胞会議を遣つた様に思う。その時の出席者は前の時より幾分少いように思う。会議の内容は党員の不和のないように結束する。それにはお互の言葉も慎むとか資金カンパ等が議題となつた様である。尚此の日には大久保安三も出席していて、共産党に入党した。
其の次に今一つ細胞会議を遣つたが、それは七月十日であつたか、或は過であつたかどうかがはつきりしないが、此の時の出席者は大体七月八日の出席者と同じ様で、飯田、伊藤、田代、外山、清水、横谷、先崎、青柳、栗原、浜野、加藤、藤田、奈良及び私と思う。(一人二人は違つているかも知れない。)外部の人としては喜屋武が出て居つたように思う。其の時の議題は、伊藤が中野電車区細胞の復興綱領を写して来て、夫れに就いて、その草案を作る為の討論が主なものであつた。その外雑談なんかをやつて電車を動かさないようにするとか(モーターの中へ水を入れれば電車は動かん)田代は遵法闘争を厳格にやれば三鷹の電車は大部分運転してはいかんと言う電車が多いとか、飯田は三鷹では前に実力行使をやつた事もあるから、今度はとどめを指せば良いとか、突破口は東海道方面で作るようになつているとか、色々な話が出た。尚その話の中には、横谷であつたと思うが、電車を動かさないようにするには俺にでも出来る。人に頼む必要ないと言う様な事を言つていたことも記憶している。」との記載があり、
栗原照夫に対する九月十四日附証人尋問調書(記録第二〇冊第九一丁以下)によれば
「七月十日頃と思うが、三鷹電車区内の整備第二詰所(古電車)で細胞会議をやつた。出席者は飯田、外山、田代、伊藤、横谷、宮原、清水、青柳、志村、先崎、奈良、木村、小林、私、その他加藤一郎、藤田光春、大久保安三等も出て居たと思う。部外では喜屋武が来ていた。その他一、二人はあつたように思うがはつきりしない。会議の内容は三鷹電車区復興綱領の作成、第二次整理に対する対策、六三型電車の宣伝等であつた。後は議題を定めず、自由に発言して色々な話をしていた。その中には行政整理の批判とか下山事件の批判とか等である。喜屋武と思うが、遵法闘争の話を持ち出して規定通りやれば車輛は動かぬとか、検修の事、モーターの事等で、遵法闘争をゲリラ的にやる方が効果的だとか言う様な事など色々と話しが出た。又三鷹にも下山事件が起るぞとか全国的にも起るかも知れんと言う話が出た時誰れが言つたかは記憶がないが「原因不明の事故を起したら」とか或は、「一寸手を加えれば自然発車する」とか言う話も出たと思う。その時喜屋武と思うが「誰か一つやらんか」と言うと、田代だつたと思うが、「俺は心臓が弱いから駄目だ」と言い、清水ではないかと思うが、そんな話はよせよせといつたと思う。然し横谷が「俺がやらうか」と言うと、外山が「大丈夫か」と念を押し横谷は「大丈夫さ」と言つていた。」との記載があり、
小野明の検事に対する昭和二十四年十月五日附供述調書(記録第二四冊第一八一丁以下)によれば、
「七月十日前後と思うが、整備掛第二詰所の古電車の中で会議を開いた。出席者は飯田、外山、田代、清水、先崎、伊藤、栗原、加藤、横谷、及び地区委員の喜屋武並に私ははつきりしている。青柳、奈良、宮原、加藤政雄、志村、藤田、浅香はいたように思うが断定できぬ。会議は午後六時半頃から始めて九時半過ぎ頃終つた様に思う。私は四、五人集つた時行き会議が大体終つた頃出たが、私が帰るときまだ二、三人残つていたように思う。会議の内容は、飯田が前から三鷹電車区復興綱領を作るようにいつていたが、そのとき伊藤が草案を読み上げ、それを各自が討議して案を作り(謄写版に刷つて皆に配つてあつた)まだ不充分だというので時間の関係で後にすることになつた。次に飯田が六三型電車の欠点や事故の話などをしていた。又喜屋武だと思うが、内外の情勢や下山事件及び遵法闘争の事を話し出し、遵法闘争は規定通りにやると車が動かなくなつて自然にストと同じ様になると誰かが説明し、遵法闘争の方法もゲリラ的にやつた方が効果的だと言う話が出た。誰であつたか記憶がないが、牛若戦法と言つて此処と思えば又あちらと言う様に柔軟性のある闘争をしなければならないといつていたことを記憶する。多分飯田だつたと思うが、三鷹電車区は前にストをやつた経験があるから、今度は他の電車区が立ち上つてから後でも遅くなく、最後にやるんだと言つた趣旨のことを話したように思う。尚この点は判つきりしないが、誰かが自然発車や原因不明の事故が起れば六三型電車の宣伝に都合が良いと言う意味の事を話し、それについて又誰かが話して居た様な気もする。」との記載があり、
以上の供述と原判決の挙示するこの点に関する被告人伊藤の<1>乃至<9>の供述と対比して検討すると、
七月十日頃整備第二詰所古電車内で、三鷹電車区細胞会議が開かれ、被告人らの中飯田、清水、外山、横谷、田代、伊藤、先崎、喜屋武が出席し、その他の議題と共に遵法闘争が議題となり、議題以外に雑談的に、六三型の宣伝に関連して原因不明の事故又は自然発車と見られるような事故を起すことに関して被告人らから発言があつたが、結局雑談の程度に止つて真剣にこのような事故を起すことを協議決定するに至らなかつたと認めるのが相当である。即ちこれ等の供述(右の伊藤と関係証人らの)を些細に検討すると電車事故の内容がまだ特定されないで、原審が表示しているように、「ちよつと手を加えてもわからないような事故を起せばよい宣伝になる。」「グランドえ落してしまう。」「仕業に頼んで手を加えてもらう。」(以上伊藤の供述)とか、「モーターの中え水を入れれば電車は動かん。」(志村の供述)「原因不明な事故を起したら。」「一寸手を加えれば自然発車する。」(栗原の供述)とか、各人がそれぞれ思いついたまま発言していて、それが統一されて実行に移そうという協議に到達したと見られないからである。被告人飯田が「おれに任せておけ、やろうではないか」と話を結んだとの伊藤の供述は、前記の証人らの証言に見られないところであり、以上の会話の状況とも睨み合せて考えると、そこまで話がまとまつたということには疑問があるものといわなければならない。
而して右の雑談的な話合は、原因不明事故を六三型宣伝の手段として利用しようという萌芽が見られる意味において、決して軽視すべき事情でなく、たとえ、最後の飯田のしめくくりがなくて、雑談に終つたとしても、本件事故の萌芽或は雰囲気として見逃すべからざる事実である。原審の此の点に関する説明は、前記のようにストと本件事故との関連を以て一つの判断資料としている点を除いては、この雑談的な話合を全然否定している趣旨ではないのであつて、ただ伊藤の供述中に虚偽(たとえば前記の飯田のしめくくりの発言)があるものと疑はれるとしているのであるから、概ね妥当であつて、判決に影響を及ぼす程の事実の誤認はなく、これを全部措信し得るとの所論は結局において失当である。(検察官は論告要旨において、検察官主張のように飯田が伊藤の述べるようなしめくくりをしたことを前提として、右の会合は本件にとつて極めて重要な意味をもつもので、いわば、本件謀議の萌芽であるが、この会合だけでは未だ本件謀議は成立しなかつたものと認めると述べている。(四五頁))
而して、右会合には、本件事故の実行者であることの明かである被告人竹内は出席していないことが明かであるから、被告人竹内の実行と右会合における話合との関連性を認めることはできない。従つて右会合において本件共謀が成立しなくとも被告人竹内に対する教唆又は幇助が成立するのではないかとの問題も成立の余地がない。
第二款 七月十五日午後における整備第二詰所古電車内と組合事務所及びその附近における共謀
2 七月十五日午後における整備第二詰所古電車内と組合事務所の状況について。(趣意書第五点第一の三の(二)、二八〇頁以下)
3 被告人横谷が七月十五日組合事務所で被告人外山から本件企てを知らされた点について。(趣意書第五点第一の二の(一)二五九頁以下)
4 七月十五日午後整備第二詰所古電車内の共謀と組合裏における被告人竹内、横谷の協議について。(趣意書第五点第一の二の(二)、二六一頁以下、同第一の一の(一)、二〇九丁以下)
5 七月十五日午後における整備第二詰所古電車内の会合と被告人竹内の関係について。(趣意書第五点第一の一の(二)、二二五頁以下)
2の点に関する原判決の説明は、被告人伊藤の<1>乃至<12>の供述調書の供述を比較検討しこれを表として示した上、
「ほとんど供述する度ごとに、本件に関する話合の内容が区々にわたる有様で、しかもその話合の内容たるやいづれも断片的に終始している。伊藤はすでに八月十四日の上申書で「その行動において実際の計画を実行に移す段取りにまで進んだのは、ごく少数の人たちで、殊に外山、飯田、横谷だろうと思います。私にはその話の片鱗を告げたものと思います。」と述べながら、その外山の言動には事故を起す方法についてまだ知悉していない風を示し、伊藤自身も、外山、横谷、飯田からいよいよ事故を起すことに触れた言葉をかけられても、これに強い関心を示すとか、協力する意向を示したように見えない。あくまで電車事故を発生させることを他人のこととして取扱い、自分の関知しない態度を執つている。したがつて<3>の供述で、横谷と外山に別々に、大丈夫か(大丈夫だろうな)と念を押した言葉も、その後の供述から姿を消している。
次に横谷が飯田に向つて「もう一度頼んでみようか」と述べた点である。これに対し飯田が「そうしてくれ」と依頼したということは<3>、<7>の供述で述べられているが、この点は飯田の地位及び問題の重要性から見て納得し難いところであつて、横谷が一旦話がだめになつたといつて報告している以上、飯田はこれに基いて再度交渉するかどうかを決定し又は横谷と協議するのが普通であろう。それがこの場合、横谷の方が積極的に更に交渉する気構を示し、飯田はただこれに引きづられて返事しているに過ぎないのであつて極めて不自然である。
また、喜屋武の言動はこれまでしばしばよくわからないと述べていたにかかわらず、<8>の供述で初めてその片鱗を示したが、それまでの供述に徴しても、これを直ちに全面的真実を語るものと認めるわけにはいかない。先崎については<10>の供述によるも全く推測的であつて、これをそのまま信用することはできない。」(判決第六七丁)といふのである。
3の点に関する原判決の説明は、被告人横谷の<1>乃至<3>の供述調書を比較検討し、
「まづ七月十一日頃といわれる細胞会議に出た本件に関連ある話の内容についてであるが<1>の供述では六三型電車のパンを上げてノツチをちよつと入れて動かすこと、これを信号所までことんことんと走らせること、これによつて六三型がひとりでに走り出した宣伝になることが決定されたことになり、<3>の供述では電車のパンを上げてノツチをちよこんと入れて動かすこと、これを信号所の辺までことんことんと走らせることが大体諒解されたようになつている。この両供述で目立つことは、六三型電車を特に選ぶか、六三型電車の自然発車の宣伝に利用するかという点が異ることである。この点は本件について考慮する上に少からぬ関係を持つものといえる。ただここで明白に承認してよいことは信号所辺まで走らせることは一旦停止辺における脱線事故を狙うものではないという点である。したがつて次に七月十五日午前中外山が横谷に語つた「この間の話」というのも、その実信号所辺まで走らせるだけであつて、脱線させることではないことになる。六三型電車の宣伝に利用するかどうかは疑問というほかはない。また<1>、<3>の供述ともこの細胞会議に参加した者は被告人たち(<1>は飯田、外山、田代、清水、先崎、喜屋武、<2>はその上伊藤、宮原を追加)に限らない。青柳、加藤、志村もこれに参加していることは同人らがその後共同犯行に加担していないところからみて未だ一定範囲の者たちで決行するような確定的な話でないことを推察させる。殊に<1>の供述では、外山が横谷に語つた「やり方の具体的なことは高相方で話す」という点が<2>の供述には見られないことを注意すべきである。それはおそらく後に触れるように横谷が本件において外山以上に関与することになるので、修正されたのであろうが、この点から見れば外山の横谷に対する話も疑問の点を少からず残すわけである。」(判決五五丁)
4の点に関する原判決の説明は、被告人横谷に関し、同被告人の<1>、<2>の供述、供述調書を検討し、
「この二つの供述とも、七月十五日午後の整備第二詰所での話は、誰が実行するかという点に関する。前の十一日頃の細胞会議で電車を走らせる日時は後で決定されることになつたということは前述の通りであるが、横谷はこの決行の日時がいつ決められたか知らないうちに――この点は八月二十一日附供述調書で推定することができる、――決行する人を決めることに直面したのである。この場合疑問とされることは、飯田がこの人選に初めから関知していないことである。<1>の供述では竹内に頼むことにつき、その後組合事務所にいる飯田に話してその支持をえたことになるが、<2>の供述では、飯田に話さず直ちに竹内に依頼し返事もないので、飯田にそのとき初めて話したことになる。しかしこの点は殊に<1>から<2>えの供述の変化の点は、飯田の分会執行委員長の地位から見て重要視されなければならない。実行する者が誰であるかは、事の成否、事の秘密保持に密接な関係を持つわけである。しかるにこれについて飯田が無視された観を与えるのは、この供述の真実性を疑はしめるに十分である。さて横谷がまず竹内に話す段であるが<1>の供述では明白に「六三型電車を動かして事故を起して宣伝したい」と述べているのに、<2>の供述ではただ話したことになつていてその具体的な内容が不明である。ここで「事故を起して」ということは一体何を意味するのであろうか。すでに明かなように、横谷はただ電車を信号所まで走らせる(六三型電車かどうかは別として)ことのみしか理解していない。脱線事故のごときは、少しも考えていない。そうすれば「事故を起して」ということは「六三型電車を動かして」を受けた言葉に過ぎないと解すべきであろう。これに対し、竹内は二度目に承諾したことになるが、竹内はその承諾したことがいかなるものか、横谷の意図するところをそのまま理解したであろうか。すべてこれは明かでない。
次は竹内を整備第二詰所古電車の中え案内した点である。<1>の供述によれば、横谷には具体的方法がわからないので、これをきかせるため、竹内を古電車に案内したことになるが、<2>の供述では明確になつていない。しかも<1>の供述では、横谷はその後の右古電車内の話合には関係していない。これほど重大な話が進行するのであるから、横谷としても安閑たりえないわけであるが、同人は平然として吉祥寺え出向いている。したがつて、横谷は、竹内を交えて古電車内の話合がどうなつたかを知らずに吉祥寺へ行つていることになる。」(判決五六丁、五七丁)
この点に関する被告人竹内の供述に関しては、同被告人の<1>乃至<7>の供述を詳細に比較検討し、
「以上の各供述を通じて最も問題となる点は、竹内と横谷との協議が<1>の供述では一回だけであつたのに対し<2>以下の供述では二回あつたことに変更された点、二回目の協議が行はれた時間と場所が<3>までの供述と<4>以下の供述とにおいて全然異なる点である。しかもこの協議のときにおける横谷の発言の内容と竹内のこれに対する応対の模様が各供述とも区々に分れていることを重視しなければならない。
まず第一回目の会合についてであるが<1>の供述では、横谷が初めて「今晩やろう、後で判然したことを話すが」と述べたようになつているから、竹内はこれを聞いて、今晩実行するについて、たとい当時その内容が明らかでないとしても、何か問いただすのが普通であると見られるのに、それがいささかもなく、ただ曖昧な返事をしたことになつている。その上竹内がこの話を聞いて「さてこそ一旦停止辺の脱線と考えた」と供述するに至つては、その推理の異常性を物語るものと言えよう。それまでにこの両人の間に一旦停止辺の脱線を話し合つた形迹もなく、又当日午後の組合事務所の不穏な空気といつても、この上申書では「電車を顛覆させよう」とか「電車をグラウンドへ落させるぞ」という話が出ていたことになつていて、一旦停止辺の脱線という形では出ていない。また横谷のこのときの言葉の最後に「九時頃云々」と出ていることは、犯行の実行又は犯行のための集合の時間を暗示するようであるが、竹内にはそのことがよく理解されていなかつたことを示している。なお、ここで供述の大きな欠陥と目すべきものがある。それは「後で判然したことを話す」と模谷がいつたにもかかわらず、その後竹内が本件実行をするときまで横谷から本件に関する具体的な打合をした横様がなく、竹内も横谷に対し本件実行について承諾の意思を明示していないことである。次いで<3>の供述では竹内が横谷の話から一旦停止辺の脱線を考えた理由として、「自分で一旦停止辺で脱線させることを考えておつた」ことを挙げている。仮に竹内がそのように考えていたとしても、横谷の漠然とした言葉を自分の考えていた意味に理解するには少くとも横谷の言動がその意味に取られるような状態になつていなければならない。それが全然明かでない以上、この点の供述も理を求めて理外に落ちた譏りを免れない。なお<1>の供述で明かでなかつた「九時頃云々」という言葉はこの<3>の供述から削除されて形を整えられている。ところで<4>の供述になると、竹内が一旦停止の脱線を考えたのは、自分で考えておつたからであるというのが不可解に思はれたためか「外山、田村、藤田、浅嘉ら」が同日午後組合事務所でそのような話をしておつたからであると供述を変更している。しかし同日午後の組合事務所内での話はこれだけであつたわけではなく、又この話をした人達の中に被告人として外山だけが挙げられているのであつて、その点から見れば、やはり供述の曖昧さを免れない。<5>の供述になると竹内が一旦停止の脱線を考えた理由として「その頃の組合の空気はさきほど述べたような言葉のやりとり」を挙げ、竹内が当日午後組合事務所で「一旦停止の所で脱線させてしまおう」等と述べたことに言及しているが、しかしその程度の理由ではまだ十分な根拠と見ることはできない。ところが<6>の供述では、「横谷から、さつき話ししておつたようなことを今晩やることにしたから、手伝つてくれないか、詳しいことは又あとで話す、と相談されました」となつているが、「今晩やることにした」との言葉の上についた「さつき話しておつたようなこと」とは一体何を指しているのか。この調書からは「どこかできつかけをつくる」ことも「グランド辺りに電車を落す」ことも、「一旦停止辺りで脱線させる」ことも指すことになる。したがつて「さつき話しておつたようなこと」とは「一旦停止辺りで脱線させる」ことだけを指すものでないことは明かである。
一方横谷からこのように話された竹内は、これをどう思つたか。これまでの供述では、横谷が今晩やろうといつたことだけで、竹内は一旦停止附近の脱線を考えたと供述を続け、その理由を供述する度ごとに変更しているのであるが、この調書では何も述べていない。それはこの点に関するこれまでの供述を全部否定した趣旨であろうか。多大の疑が存するわけである。また「今晩やることにした」という言葉の下に「手伝つてくれないか」と附言して横谷と竹内の本件に対する立場を著しく決定的に述べていることも後の実行行為における両人の動きからみれば、極めて疑わしい。
次は第二回目の会合についてであるが<2>の供述は<1>の供述の欠点を補うかのように、第二回目の会合が当日午後六時四十分頃車輛手詰所の前辺りで行われたことを明かにしている。ここで竹内が初めて本件犯行に参加する決意を示したことを示し、又<1>の供述で「九時頃云々」といわれたことが、この二回目の会合のときにも「九時頃一番線の辺にした」として浮び出ている。しかし肝心なことは、この両人らがいかなることをいかなる方法によつてなすのか、横谷から竹内に一向明示されていないことである。ここでは昼間の話を実行するようであるが、これは何を指すのであるか。横谷が竹内に第一回目の会合のとき話したことを指すのか、又は後に述べるように、同日午後整備第二詰所古電車内で飯田、外山らが竹内に話したことを指すのか、いずれかであるが、この点の話は確定的な具体的なものではないので、竹内がこれを予期して承諾したというに至つては、これまた論理の飛躍があるといわなければならない。また<3>の供述では、<2>の供述と反対に「一番線がいい」と念を押したのは竹内自身であつたことになつている。しかも竹内が一番線を強調した理由として同人が横谷と会う前に仕業詰所で電車の入庫具合を見て来た点を挙げている。しかし竹内が仕業詰所でいつどのような状態でこれを見たかについては明かでない。この点は次の<4>の供述を検討するときに重ねて触れることにする。さて<2>の供述では、横谷の依頼を竹内が軽く承諾したように見えるが<3>の供述では、竹内が承諾したときの決意を強く表明している。しからばいやしくも電車を不法に発進させる決意がついた以上、誰といかなる方法でこれを実行するのか、竹内としては当然横谷に確めておくべきであろうが、この点は竹内が本件実行に着手するまで放任されている。
次は最も重要な<4>の供述である。第二回目の会合で竹内は初めて本件に参加する決意を固めたというのであるから、この会合の時間と場所は竹内にとつて忘れることのできない点である。それが<4>の供述に至つて、これまでの供述を記憶違いの誤りであるとして、簡単にこの点の訂正を行つている。この訂正によれば、竹内は自宅で夕食後横谷から呼出されたことになるが、それなら同日の生活行動の中で鮮明に記憶されるところであるから、それまで違つた供述になつていたのは理解に苦しむところである、しかもこの時の話においては<3>の供述で竹内が一番線がいいぞと積極的にその意向を示した片鱗すら<4>の供述では示されていない。したがつて竹内のこの言葉がなかつたとすれば、<3>の供述でその意向を示した理由として掲げた竹内が仕業詰所で入庫具合を見たという点も明確でなくなる。その後の供述にもこの点に触れた形迹のないところを見れば、むしろこの点は否定されたものと見てよい。更に<5>の供述では第二回目の会合の時間がこれまで午後七時半頃というのから午後七時前頃に変更されているが、この点はともかくとして、横谷が竹内に語つた言葉として「昼間の話は今夜やるが、九時頃一番線のところに来てくれ」といつたことは、一番線の電車を動かすというよりは、一番線のところに集合する趣旨に解され、これまでの供述とやや趣を異にしている。ところが<6>の供述では、横谷の話が「さつきいつたこと、今晩九時頃一番線でやるから、同時刻頃に一番線に来てくれ」となつて、本件犯行の時間、場所と本件犯行のための集合の時間、場所が明確に区別されて述べてある。この点これまでの供述の綜合したところを横谷の言葉としている嫌いが見えないことはない。またここでも「さつきのこと」を実行することになつているが、第一回目の会合のとき横谷からその内容を明かにした模様がないので、この意味を了解するに甚だ苦しむ。更に第二回目のときの横谷の言葉の内容が<7>の供述で著しく拡張されている。しかしこれまで割合に簡単に話された言葉が、ここに至つて本件の内容を明示するような合理的な言葉となつていることは腑に落ちないところである。ここに竹内と横谷の本件の協議なるものが、いかに合理的な説明に堪えられないかをおのずから表明しているものといえよう。
次に竹内と横谷の協議について、他の被告人たちの関与した模様を述べた点がある。<1>の供述では外山、伊藤、清水が、次いで飯田と横谷が同じ組合事務所から出て行つて、その後横谷が竹内を組合事務所に呼びに来たことになつているが、外山、飯田らが相次いで出て行つたのは偶然であるのかどうか、それまでの組合事務所における同人らの言動が明かにされないのでわからない。なお<1>の供述で注意を要する点は、横谷の「今日あたりやつちやうか」の一語である。これは本人の独白であるのか、また竹内に対し発したのであるのかこれを聞いた竹内がどのようにこれを受取つたのか一切この供述では触れていない。これは横谷が竹内との関係において初めて放つた本件行動に触れるような言葉であつて、殊に重視されなければならないわけであるが、この言葉はその後の竹内の供述から姿を消してしまつている。また、<1>の供述で竹内、横谷の話が終つて組合事務所に帰るとき清水の姿がえがかれていて、後に触れる整備第二詰所古電車内の会合に関連あるかのようであるが、この供述自体ではよくわからない。
<2>の供述には、第一回目の会合のときの清水以上に、第二回目の会合のとき、外山が本件に意味のある行動をしていたことがえがかれている。したがつて竹内は一そう事の重大性について認識を深めたことと思われるが、<2>の供述ではその模様が全然ない。<3>の供述に至ると、前に漠然とえがかれた清水の行動が「私たちの様子を見ていた」ことになつて第二回目の会合のときの外山の行動を彷彿させるような供述に発展してしまつている。更にこの供述では外山が竹内と横谷の話の様子を見ているのを知つて竹内は後に触れる整備第二詰所古電車内における外山らの相談を思い出したことになつているが、この外山らの相談を思い出したことから直ちに同人らが竹内に電車を走らせるのを依頼したことを竹内が理解することは、後に明かになるように、その相談したという内容から見てとうてい無理であるといわざるを得ない。ところが<4>の供述では一転して、横谷と竹内の第二回目の会合のときは、「私と横谷君の二人だけで他の者は誰もおりませんでした」と述べるに至つた。これまでの供述では、外山が外に立つて両人の会合の様子を見ていたことから外山らが承知の上で本件実行を依頼したことを竹内が理解したことになつているので、もしここで外山も誰も見ていなかつたとすれば、横谷以外の被告人らが承知して本件実行を依頼したことを竹内は理解しえないことになる。これでは横谷以外の被告人らと竹内の本件における関連が少くともこの点において、竹内の心理から消滅したことを物語るものといえよう。また<6>の供述では、第一回目の会合前に組合事務所から出て行つたようであるとして、「飯田外六名の被告人や党員」を明示し、これまでの人数を凌駕するようになつている。
このように七月十五日午後における竹内と横谷の協議に関する供述は、本質的な点においても附随的な事情にわたる点においても、矛盾を極め、且つ意味不明な断片的事項が散在し、これを措信することは困難である。」(判決三五丁乃至三九丁)
5の点に関する原判決の説明は、被告人竹内の<1>乃至<5>の供述を検討した上、
「さて当日午後における整備第二詰所古電車内の飯田、外山ら数名の会合に竹内がどの程度関与したかは、竹内、横谷両名の協議が前述のように断片的であつて意を尽さないところから見ても、本件にとり一つの重要な点であるが、この点に関する竹内の供述はこれまた区々に分れ、第一に竹内が古電車に入つたかどうか、第二に入つたとして古電車内の会合を知つたかどうか、第三に古電車内の会合は横谷が竹内に依頼した話と関係を持つものであることを知つたかどうかの点に至つては、結局供述の趣旨不明確でいづれとも決定不能と断ぜざるを得ない。しかも細部にわたつて究明するときは、
(イ)古電車内にいたものは<1>伊藤、外山、飯田、清水外二、三名(但しはつきりした記憶でない)、<2><3>清水、横谷、田代、外山、伊藤、飯田、某(後に喜屋武)、<4>横谷、清水、伊藤、田代、飯田、外山、外一名、<5>外山、田代、清水、飯田、伊藤、喜代武、横谷、外二、三名(但し二、三名はいたように思う)と次第にその員数を増し、
(ロ)古電車にいた者が竹内を煽動したと述べた<2><5>調書においても竹内からは発言した模様がなく、全然その意思表示をしていない。飯田その他古電車内にいた者が横谷に対し竹内に本件犯行を依頼するようにさせたとするならば、犯行の計画が竹内を通じて他に洩れるおそれがあるから、竹内がこの計画に参加することを承諾したかどうかを速刻確めていたはずである。ところが、この点は曖昧にされ、前に古電車内にいた者と横谷、清水とが竹内、横谷の会合の結果を話し合つたことはもとより、前に古電車内にいた者と竹内とが改めて話し合つたことも認め難く、ただ漠然と「お互に気脈が通じている気持でした」と述べる程度に過ぎないのである。しかもこのときまだ竹内も横谷の依頼を承諾していないことを考えれば一そう不可解になる。
(ハ)竹内が古電車に入つたとする調書によれば、竹内が古電車内にいた時間は一分位、せいぜい二、三分でごく僅かな時間である。しかも古電車内にいた共産党員の人達と竹内の意思が疏通していないことが全体の供述を通じて窺われる。このことは竹内の本件実行に対し飯田、外山、伊藤、清水ら他の被告人たちがどの程度の関係を持つかを如実にあらわしたものといえよう。
これ等の事情を綜合するとき、竹内が七月十五日午後整備第二詰所古電車の中に入つて、会合に参加し又は会合が本件に関することを知つたとする事実に関する以上の供述はこれを措信することができない。」(判決四〇丁、四一丁)
よつて先づ第一に2乃至5の項目毎に、各被告人の供述それ自体についての原審の右の各説明が妥当であるかどうかを検討することとし、次いで第二に各被告人の供述相互を比較し、更に第三にこれが関係証人、被告人の供述によつて認められる七月十五日における整備第二詰所古電車内と組合事務所における共産党細胞に属する被告人ら並に民同派を含む他の組合員の在室又は出入状況、特に時間関係に照して検討を加え、第四に本件共同犯行に関する謀議の成立を証拠上認定できるか否かを判断することとする。
第一項 各被告人の供述の検討。
一、2の点に関する被告人伊藤の供述について。
所論のように時の前後に従つて供述が変化し、その供述が断片的であつても、それが合理的であれば、勿論十分信用できるのであり、飯田と横谷の竹内に対する交渉についての話合も、横谷が本件共同犯行について、積極的な役割を演じ、飯田が、その交渉等を横谷に任せた場合であるならば(即ち飯田が本件共同犯行について、比較的消極的な立場にあつたものとすれば)そのようなこともあり得るのであり、被告人伊藤が三鷹電車区共産党細胞の創設者であり、他の被告人らより細胞の先輩として取扱はれていて、本件当時細胞活動を稍消極化していたことは、被告人伊藤の検事に対する昭和二十四年八月九日附供述調書(記録第二五冊第一九六丁)の記載によつて認められるところであるが、これだけの事情からは、原審説明のような供述の矛盾不統一による信憑力の薄弱であることを覆えし、所論のように被告人伊藤の供述の真実性を認めることはできない。
先づ被告人伊藤の供述自体だけから、矛盾と不統一を取去りどのような供述が残るかを検討すると、<1>の供述の骨子は十五日午後外山が田代、横谷を整備第二詰所の古電車の中に呼び入れ、何か密談をやつていた(二、三回)。水は宣伝部員で常に中に入つていた。
その中え午後五時頃喜屋武が入つたように思う。それから喜屋武は組合に来て飯田に向いコソコソ話していた。これと前後して横谷が組合に入つて来て、飯田との間に竹内に交渉をした結果報告と再度交渉をする話をしていたというのであり、<2>の供述は午後一時半頃整備第二詰所え入つて行くと外山、清水、横谷の三人だけがいた。そのとき外山と横谷との間に「どうだ、ヤボちやん大丈夫」(外山)か「マアーナ」(順調の意味、横谷)との会話が交され、外山が伊藤に『伊藤さん今日やるからな』といい、横谷は捨鉢的な言葉つきで『いよいよ今日決行だよ』といつて、伊藤は十二日の晩の細胞会議に出た事故を起すことをやるんだと気がついた。それから組合にいるとき、外山が横谷、田代を呼びに来て三人で整備第二詰所に入つた。間もなく喜屋武が組合に来て、飯田と話していたが、話の内容は聞きとれなかつた。喜屋武は直ぐ出て第二詰所え入つた。横谷と飯田の竹内に対する交渉の話の後、飯田から今晩高相でグループ会議を持つことを聞いたというのであつて、<1>の供述内容を稍具体化し、<3><4>の供述は<2>の供述の外に、第二回目午後三時少し前頃に整備第二詰所に入つて行つたとき、横谷と外山だけが話をしていて、伊藤が外山から『当局に対するいやがらせだよ』横谷から、「一寸こうするんだ」といつて左手を斜前方に出して電車のコントローラーを動かすような格好をした等のことを附加し、<5>の供述は五時半頃飯田から伊藤に、今日決行することを知つているであろう、そのために高相で会議をする方が都合がよいとの話を聞いたことを述べ、<6>の供述はこれまでの供述を綜合し、<7>即ち八月二十八日証人尋問調書(相川調書)はこれを受けついで、殆んど<6>と同内容であり、<8>の供述は、従前の時間関係を整理又は訂正し、伊藤が第一回目に整備第二詰所に入つて行き、今日決行すると外山から聞いたのは午後一時半頃、外山が横谷、田代を組合から呼出し整備第二詰所に入つたのは午後二時頃、第二回目古電車に入つたのは午後二時半頃、喜屋武が組合え来たのは午後三時頃で、五分位話して出て行き、横谷と飯田との竹内に対する交渉の話の時間は午後三時半頃である。尚喜屋武が飯田と話していて、記憶に残つた言葉は、牛若戦法をやれ、今日のこと大丈夫だろうな、会議を高相てやれということであつたと附加し、<9>の供述では、はじめて先崎について、推測的に外山、横谷と深い交際があることを理由として、当夜事故を起すことについて、自分と同様うちあけられていると思うと述べ、<10>の九月二十八日附裁判官尋問調書では、先崎について、先崎が整備第二詰所に入り、喜屋武が三時頃組合に来たとき、先崎も組合に来て居て<8>の供述で、喜屋武と飯田の会話の中喜屋武の言葉を自分より詳しく聞いていると思うと述べ、
以上のようにはじめ概括的に述べこれを補充し、新らしい事実を附加し或は従前の供述を訂正したものが、被告人伊藤の供述の骨子となるのである。
これを通覧すると、前に説明した点を除きその他の原審の説明は正当であつて、供述の変化が甚だしく、特に本件に関連する話合の時間が屡々変更され、殊に整備第二詰所内の第二回目の話合があつたとされる時間が午後五時頃から順次変更されて最後に午後二時半となつており、又組合事務所内における前記横谷と飯田の話合の時間も午後五時頃から順次繰上げられて午後三時半頃となつている。これと前後する喜屋武と飯田の話合の時間も午後五時頃から順次午後三時頃に繰上げられている。尚当初喜屋武の言動はわからないと述べ、先崎については供述がなかつたのに、前記のように後に追加されている点も大きな欠点といえよう。
しかしここでは一応被告人伊藤の供述としてまとめられた要旨は前記の通りであるとして進むこととする。(即ち被告人伊藤の供述自体だけを見て他の被告人、証人の供述その他の資料と比較検討しなければ、被告人伊藤の供述した事項は或はあり得ることもあるからである。)
二、3の点に関する被告人横谷の供述について。
所論の本件発生当時における三鷹電車区における状況、組合員が過激な言葉を使用していたこと、被告人外山と横谷が当日組合事務所にいたこと、同被告人らの間では簡単な会話でも互に意思が疏通する可能性があることは所論の通りである。
被告人横谷の<1>乃至<3>の供述から本件共謀に関する要旨を摘示すると、<1>の供述では、被告人横谷は午前中、組合事務所にいると、外山から事務所前に呼出され、「今晩この間の話を決行する。やり方の具体的なことは高相会議で話す。」との話があつた。<2>の供述は、時間を午前十時頃であるとし、外山の口振から見て、外山らがその前に決行の日を決めていたと思うと述べ、<3>の供述は、先日話合の時には日時を決めていなかつたので、不思議に思はなかつたと述べ、此の間の話の内容については<1>の供述は、七月十五日の四、五日前整備第二詰所古電車内で細胞会議を開いた際、横谷が「それぢや六三型電車をパンを挙げて、ちよつと動かす程度でコトンコトンと信号所まで走らせれば、電車も壊れないし、六三型がひとりでに走り出したという宣伝になるといい、皆が賛成して決つた。決行の日は決めずに別れたというのであり、<3>の供述は、十一日頃宣伝の一つとしてパンを上げてノツチをちよこんと入れ信号所辺まで電車をコトンコトンと走らせることをきめ日は改めて決めることになつたといい略同趣旨であるが、前者は六三型電車といつているのに後者はこれを挙げていない相違がある。右供述は「此の間の話」の内容を除外して考えれば供述それ自体としては矛盾も不統一もないのであるが、「此の間の話」が本件共謀と直接的な関係を持つか否かによつてその信憑力に多大の影響を来すこととなるのである。右の話の内容がどのようなものであり、本件共謀についてどのような意義を持つかについては既に前記(一)の被告人伊藤の供述について説明した通り、右の話は雑談的なもので、被告人横谷が供述している程確定的な話でもなく、その内容も種々の意見が出た程度で、その中何れと決定されたこともなかつたと認められるが、さればといつて本件共謀とは無関係でなく、当時の客観的事情から本件共謀に発展する可能性は含んでいると見られないこともないのである。
しかしながら、信号所辺まで走らせることと一旦停止辺における脱線事故とは区別して考うべきこと、<2>の供述で「やり方の具体的なことは高相会議で話す」という点が見られないところに、原審説明のような疑問を残すことを免れないのである。即ち七月十五日夜高相健二方で細胞会議を開くことが当日午後外山らによつて決定されたことは、後に掲げる外山の供述によつて明かであるからである。
三、4の点についての被告人横谷及び被告人竹内の供述について。
(一) 被告人横谷の供述について。
所論の七月十五日の高相方における細胞会議の開催が被告人外山から同清水との話合の上で発案されこれを被告人飯田と相談して決定したことは、被告人外山の検事に対する八月三日附供述調書(記録第二五冊第一丁以下、その具体的供述内容は後に引用)によつてこれを認めることができるが、そのことから、外山が本件共同犯行を計画し、被告人飯田、喜屋武に報告し承諾を求めたとの推論を下すことは早計である。尤もそれだからといつて後に飯田に承認を求める方式による謀議成立の可能性を否定することができないことは既に前記一、において説明した通りである。又被告人らの謀議成立については、逐一理路整然たる会話をしなくとも、比較的簡単な会話で、その意思を伝達し得るであろうことも所論の通りであり、更に本件事故については、所論の被告人竹内の供述のように刑事問題にならぬとも考え、比較的軽い気持或は六三型の事故宣伝に加えて当局に対するいやがらせを考える等のこともあり得るところであることは既に屡々説明して来た通りである。
次にこの点に関する被告人横谷の供述の後を辿ると、<1>の供述では、午後二時頃古電車内で、外山、田代、清水、喜和武(喜屋武)横谷がいて、実行者を選定し、横谷の発意によつて竹内に依頼することを定め、横谷が交渉方を引受けて、組合事務所に行き、飯田の了承を得て、組合事務所にいた竹内を呼出し、組合の裏え連れて行き、「六三型電車を動かして事故を起して宣伝したいが、ちよつと手伝つてくれないか」と頼んだ。竹内は返事をせず考えていたので、飯田のところえ行つて話し、同人がもう一度頼めといつたので、また組合裏に戻り、もう一度話すと竹内は全面的に引受けた。それから竹内を連れて古電車に戻り、そこにいた外山、田代、清水、喜和武(喜屋武)らに、竹内の承諾を話し、吉祥寺え行くといつて古電車を出て、組合で飯田に竹内の承諾を話し、六三型電車の宣伝のため吉祥寺え出かけた。そのとき飯田が古電車に入つて行つて、その頃外山、清水、飯田、喜屋武等が竹内を交えて、その晩の実行方法を決めたようであると述べ、<2>の供述では、横谷が竹内に交渉することを引受けた後事前に飯田の承諾を得た点を省略し吉祥寺え行つた理由を生活協同組合え行く為であつたとする外同一趣旨の供述をしている。原審のこの点に関する説明中には前記検察官の所論に対する説明をした通り、二、三の点において、妥当でないところもあるが、その他の点については、その摘示のような疑問もあるのであるが、一応茲では被告人横谷の供述を<1>の供述を骨子とし(<2>の供述で飯田に事前了解を得なかつた点は省略或は書落しとして)吉祥寺え行つた後記引用の被告人横谷の検事に対する八月三日附供述調書(記録第二五冊第九八丁以下)によつて<2>の供述を以て正しいものとして統一的に理解することとしよう。
(二) 被告人竹内の供述について。
先づ所論を順次検討すると、
(イ)本件発生当時の三鷹電車区における緊迫した雰囲気と本件事故との関連性については既に説明した通りであつて、その関連性があり得ることは所論の通りである。
(ロ)被告人竹内が第十三回公判期日において犯行前後の行動を忘れようと努めていたと供述したこと、同人の記憶に不正確な点があり得ることも所論の通りである。
(ハ)比較的簡単な言葉のやりとりでも場合によつては所謂以心伝心てその趣旨が相互に通ずることもあり得るところで、供述が断片的であり、些少の点において矛盾不統一或は省略があつても大綱において一致していれば、その供述の信憑力を認め得ることは所論の通りで、所論の中、「横谷から今晩やるといわれて、竹内は何か問いただすのが普通である」「竹内がさてこそ一旦停止の脱線と考えたのは推理の異常性を物語る」「この調書では何も述べていない。それはこの点に関するこれまでの供述を全部否定した趣旨であろうか多大の疑点が存する」「手伝つてくれないかという言葉も、後の実行行為における両名の動きからみて極めて疑わしい」「第二回目の会合のときの横谷の言葉の内容が著しく拡張されている」「外山を見て同人らが本件実行を依頼したと理解することは無理である」との各原審の説明に所論のように妥当でないところも認められるのである。しかしながら、被告人竹内が被告人横谷の申入れを承諾した機会と場所に関する点の供述内容はいづれも被告人竹内にとつて忘れ難い特徴のある情景であるのに、この点について供述の変更があることや原審の指摘するように、被告人竹内と横谷の協議が一回であるとの供述と二回であるとの供述がある点、二回目の協議の時間と場所がそれぞれ変更されている点は被告人竹内の供述の根本的な欠陥といわねばならず、この点から被告人竹内の共同犯行についての供述の信憑力が薄弱となつて来ることは否定できないところである。
以下同被告人の<1>乃至<7>の供述の順序を追つて同被告人の供述の骨子を拾つて見ることとする。
先づ<1>の供述は、組合事務所の内部から党員の外山、伊藤、清水らが出て行き、飯田も出て行つた、横谷が出て行くとき今日あたりやつちやうかといつた。三十分位して組合事務所え横谷が呼びに来て、第二青年寮と組合の間の狭い道を通り大通りに面したところで、横谷が「今晩やろう。後で判然したことを話すが、九時頃云々」といつたので、私は一旦停止辺の脱線を考えた、決心がつかず曖昧な返事をしておいた。帰ろうとするとき清水が第二青年寮と組合の間の小道にいて私より先に古電車に入つたと思うというのであり、
<2>の供述は、六時半頃家えの帰途について、組合事務所に立寄つたとき、同所に今成、田代、外山、石井、飯田、加藤(正)、沢田などの人々と外に四、五名検修関係の人がいたと思う。三、四分そこにいて、一旦出て、帽子の忘れ物を取つて再び出て来ると、車輛手詰所の古電車の前辺で、横谷から「昼間の話ね。今夜九時頃一番線の辺にしたよ。一番線がいいよ。人民のために頼むよ。」等といつたので、承諾した。このとき組合事務所入口に外山が立つて見ていたので、昼間のことを思い出し皆承知していると思つた。時間は六時四十分頃と思うというにあつて、<1>の供述になかつた横谷との二回目の協議と被告人竹内の承諾が附加されている。
<3>の供述は大体<1><2>の供述を取まとめたものであるが、尚第二回目横谷から話があつたとき、先刻仕業詰所で電車の入庫具合を見て来ていたので、横谷に「一番線がいいぞ」と積極的に言つたことを附加している。
<4>供述はこれまでの供述に重要な訂正を加えている。その一つは、一旦停止の脱線は自分一人で考えたものでなく、七月十五日午後零時半頃から二時頃迄の間に組合にいたとき、外山、田村、藤田、浅嘉らが一旦停止辺で脱線させて、ストに入らうといつていたことから、横谷の話があつたときすぐこれを考えたという点、もう一つは、二回目の横谷との協議の時間と場所を著しく変更して、七月十五日夕食後家にいると午後七時半頃横谷が外から呼びに来て、横谷と以前運転士休憩室であつた建物の西側の処で話をした。そのとき横谷の外には誰もいなかつたというのである。
<5>の供述は大体<4>の供述で訂正された従前の供述がとりまとめられている。
<6>の供述は十月二十五日附裁判官尋問調書で、従前の供述を取りまとめた<5>の供述と同一要旨になるのであるが、七月十五日十二時半頃組合事務所で飯田ら被告人六、七名外組合員二十名内外の人が集つて、昂奮して話していた状態で、<4>の供述で出て来る一旦停止の脱線の外「グランド辺りに電車を落す」というような話も出ていたとの事実が附加されると共に、横谷が、「さつき言つたこと今晩九時頃一番線でやるから、同時刻に一番線に来てくれ」と話したと従前の言葉が明確にされている。
<7>の十月二十八日附の証人尋問調書は、<6>の供述で明確にされた言葉の趣旨を補足的に説明して、横谷から一旦停止辺で脱線させること、一番線の電車を走らせることを聞いたことは間違ないと述べている。これ等供述の変化には原審の説明するような種々な疑問があるのであるが(検察官の所論について原審の妥当でない部分を除くこと勿論であるが、それでも、前記説明のように本質的な欠陥がある)、ここでは一応右のように取まとめられた骨子が竹内の供述から残るものとして先に進むことにする。
四、5の点に関する被告人竹内の供述について。
当時における情勢から被告人竹内が相当興奮、焦慮していて、被告人竹内が共産党員たる被告人らと相当近接していたことは既に前に説明の通りであり、簡単な言葉によつて意思が疏通し本件犯行に及ぶ可能性は十分あり得るところである。
しかし、他方同被告人の<1>乃至<5>の供述には、原審が指摘するように同被告人が古電車の中に入つて協議したか否かの同一事項について著しく供述の矛盾している根本的欠点があることも見逃せない。
以下供述の変化を見て行くこととする。
<1>の供述では、第二青年寮と二十三番線の古電車との間の清掃台に上つて古電車の中は見たが、中えは入らなかつた。中にははつきりしないが、伊藤、外山、飯田、清水らの外二、三名いて、多分前述の話をしていたと思つたと述べているに反し、
<2>の供述では、私は清水、横谷に続いて、古電車の中え話の様子を伺いに行つた。中には右両人の外、田代、外山、伊藤、飯田、某(後に喜屋武)らがおり、入つて行くと、話を中止して振向き、飯田がやあ頼むよ等といつて自分を迎えた。外山などはやはり一旦停止辺の脱線が一番いいなどといい、二、三の者は組合運動に対する私の言動をおだてていた。私は同感であつた。二、三分腰をおろしていて、さほど具体的な話はしなかつたが、気脈が通じている気持であつたと述べ、<1>の供述と根本的に矛盾している。従つてこのいづれを採るかということが一つの重要な証拠判断となつて来るのである。しかしその選択は爾後の供述を見た上でなければならない。
<3>の供述では、<2>の供述は記憶の誤であつたように思うと訂正し、
<4>の供述では、古電車内の入口の所に行つたが入口から一歩ほど中え入つたところで立止つた。先に中に入つた横谷、清水が、飯田らと何か話合つたかどうか記憶がない。私は古電車内に一分位いてすぐ組合事務所に戻つたと供述して、又古電車内に入つたことを認め、
<5>の十月二十五日附裁判官尋問調書の供述も、古電車に入つたことを認め、飯田、外山、伊藤、喜屋武、清水、田代、横谷がいて話合つていた。党員の人達は自分が入ると話を中止した。自分は一分位そこにおつて出た。但し飯田ではないかと思うが、何か景気をつけるような意味の言葉があつたが、内容はよく覚えていない。古電車え行つた時間は七月十五日午後一時半頃ではなかつたかと思うと述べている。
以上のように基本的な事実について供述の変化があること自体において原審が説明しているような種々の疑問があり、原審の説明は相当であると思はれる。
しかし、一応ここでは、<5>の供述が前記の矛盾不統一を取去つて出て来たものとして取扱うことにする。
第二項 2乃至5の項目についての被告人伊藤、同横谷、同竹内の供述相互の比較検討。
前記第一の検討によつて、各被告人毎に、その供述自体の矛盾と不統一を取去つたものの要点を比較対照して並べて見ると次のようになるのである。
一、組合事務所前
事項 被告人 伊藤 横谷 竹内 備考
時間 午前十時頃 伊藤、竹内に無関係なので、三者間には矛盾、不統一がない。但し前記のように、「この間の話」は雑談的で明確でなく、高相会議は午前十時に決定されていない点に疑問がある。
会合者 外山、横谷
外山「今晩この間の話を決行する。やり方の具体的なことは高相会議で話す。」
二、整備第二詰所内第一回目の会合
事項 被告人 伊藤 横谷 竹内 備考
時間 午後一時半 横谷、竹内の供述なし。但し、決行する内容が明確でない。
会合者 外山、清水、横谷、伊藤
協議内容 外山「谷保ちやん大丈夫か」横谷「マアーナ」外山「伊藤さん今日やるからな」横谷「いよいよ今日決行だよ」
三、組合事務所の一
事項 被告人 伊藤 横谷 竹内 備考
時間 午後二時 午後零時半頃以後 両者の間に矛盾なし。共謀の内容に直接触れるものではない。
行為 外山が横谷、田代を組合事務所から呼出し整備第二詰所に入つた。 飯田ら被告人六、七名外組合員二十名一旦停止の脱線グランド辺りに電車を落す話が出ていた。
四、整備第二詰所内第二回目の会合
事項 被告人 伊藤 横谷 竹内 備考
時間 午後二時半 午後二時頃 時間多少不一致
会合者 横谷、外山、伊藤 外山、田代、清水、喜屋武、横谷 会合者と協議内容が違うのでこれだけでは矛盾不統一はわからない。
協議 外山「当局に対するいやがらせだよ」横谷「一寸こうするんだ」(コントローラーを動かす格好) 竹内に依頼することを定め横谷が同人に交渉することを引受けた。 ここでは両者が矛盾しないこととして取扱うこととする。
時間 午後三時過 午後二時以後 午後一時半頃 時間が相当矛盾、不統一を示している。
事項 喜屋武が組合事務所を出て整備第二詰所に入つた。 横谷が竹内に依頼して承諾を得た後、竹内をつれて、古電車に入り、そこにいた、外山、田代、清水、喜屋武らに竹内の承諾を話した。 竹内が横谷に連れられて古電車に入つて行くと飯田、外山、伊藤、喜屋武、清水、田代、横谷が話合つていた。飯田が景気をつけるような言葉があつた。 この不一致を重視すれば、竹内が古電車に行つたときには喜屋武がいないことになる。若し喜屋武がいたとすれば午後一時半頃来ていなければならぬこととなる。
五、組合事務所の二
事項 被告人 伊藤 横谷 竹内 備考
時間 午後三時頃 横谷、竹内の関係供述なし。
会合者 喜屋武、飯田、先崎
協議内容 喜屋武「牛若戦法をやれ」「今日のこと大丈夫だろうな」「会議を高相でやれ」(五分間位の話) 後に附加された点に問題がある。
六、組合事務所の三
事項 被告人 伊藤 横谷 竹内 備考
時間 午後三時半頃 午後二時以後 時間が不一致
会合者 横谷、飯田 横谷、飯田 時間は後記のような事情から極めて重要な意義を持つのである。
協議内容 横谷「頼んで見たが、どうしても駄目だつた。」飯田「ああそうか」横谷「もう一度頼んで見ようか」飯田「そうしてくれ」 横谷「竹内に頼もう」飯田「それがよい頼め」(一度交渉後)横谷「竹内は返事をしない」飯田「もう一度頼んで見ろ」交渉結果承諾の旨を報告
時間 午後五時半頃
会合者 飯田、伊藤
協議内容 飯田「今日決行することを知つているだろう、そのために高相で会議をする方が都合がよいのでそうする」 横谷、竹内の供述なし
七、組合事務所附近
事項 被告人 伊藤 横谷 竹内 備考
時間 午後二時以後 午後二時過 時間一致
会合者 横谷、竹内 横谷、竹内 会合者一致
協議内容 横谷「六三型電車を動かして宣伝したいが、手伝つてくれないか」(竹内返事せず、横谷一旦組合に戻り、飯田に相談する)横谷、もう一度話す。竹内、引受場所は組合裏 横谷「さつき言つたこと今晩九時頃一番線でやるから同時刻一番線に来てくれ」場所は第二青年寮と組合の間の狭い道以上第一回目 横谷の依頼内容不一致。いづれを措信するか困難である。而して、この点は本件共謀に極めて重要であることは原審が説明する通りである。
時間 午後七時頃
会合者 横谷、竹内横谷が再度竹内に依頼して承諾を得た。場所は、横谷が竹内の自宅から呼出し、以前運転士休憩室であつた建物の西側、以上第二回目
右の中
一、については、「この間の話」が雑談程度で明確でないこと、高相会議は午前十時にはまだ決定されていないことの二点に疑問がある。
二、については、決行する内容が明確でない。
三、については、組合員二十名位の話合はただ激昂を表現する過激な言葉として述べられているだけであつて、本件共謀と直接結びつかない。飯田ら六、七名の被告人が被告人竹内の本件電車発進を認識しながら、これを教唆し又は決意を固めさせて幇助したとも認められない。ただ電車事故を起すことを一般組合員に煽動したのではないかとの疑は持ち得るが、右煽動行為は刑法にその処罰規定がないのであるから、本件の問題とすることはできない。
四、については、各供述の間に、時間の不一致があり、この不一致を重視すれば、竹内が古電車に行つたときに喜屋武がいないことになる。若し喜屋武がいたとすれば一時半頃来ていなければならぬことになる。又前記のように、竹内が古電車内に入つて他の被告人らと話合つた内容が明かでないので、本件事故について打合をしたかどうかが不明確である。
五、については、当初話合の内容はわからないと述べていた伊藤がかなり後にこれを訂正附加した点に問題がある。
六、については、時間が不一致で、後記のようにこの不一致は極めて重要である。
七、については、前記のように被告人横谷と同竹内の供述の間に根本的な食い違いがある。
以上のように、右の被告人伊藤、同横谷、同竹内の各供述を、前記説明のように、各供述には前後の供述との間に矛盾、不統一があり、その変化が甚だしく信憑力が薄弱である点が多々あるのであるが、ここでは一応これを度外視し、又他の証人その他の関係人の供述その他の証拠との関連をも考えないで、順次綜合して見ると、
(イ)七月十五日午前十時頃組合事務所前で被告人横谷は外山から「今晩この間の話を決行する。やり方の具体的なことは高相会議で話す。」と話された。
(ロ)同日午後一時半頃整備第二詰所古電車内に外山、清水、横谷、伊藤がいて、伊藤は、横谷から今日決行するとの話を聞いた。
(ハ)同日午後零時半以後に組合事務所に飯田ら被告人六、七名の外組合員二十名位がいて一旦停止で脱線させるとか電車をグランドえ落すとか話が出ていた。午後二時頃外山が横谷、田代を組合事務所から呼出し整備第二詰所に入つた。
(ニ)午後二時半頃整備第二詰所内に横谷、外山、伊藤がいて、外山、横谷が、実行の目的及び方法を話した。又その後間もなく同所に外山、田代、清水、喜屋武、横谷がいて、竹内に実行を依頼することを定め、横谷がその交渉を引受けた。次に横谷が竹内に依頼して承諾を得た後、竹内をつれて古電車の中に入り、そこにいた外山、田代、清水、喜屋武、伊藤、飯田に竹内の承諾を話した。飯田が竹内に景気をつけるような言葉を云つた。
(ホ)喜屋武は右古電車に入る前に組合事務所で飯田と話をしたが、その席に先崎がいて話を聞いていた。
(ヘ)その後横谷が飯田に竹内との交渉の顛末を話して再度交渉のため出て行き、承諾の旨報告し、前記のように竹内を古電車に案内した。午後五時半頃同所で伊藤は飯田から、今日決行のこと、高相で会議を開く理由を聞かされた。
(ト)横谷と竹内との交渉協議は二回行はれたが、その依頼内容と、第二回目協議の時間場所が根本的に食いちがい、供述自体からはいづれが正当であるか判断することが困難である。先づ横谷の供述は「六三型電車を動かして宣伝したいが手伝つてくれないか」というので、第一、二回とも余り時間を置かないで、組合裏で話し承諾を得たことになつている。そして前記のように古電車内で具体的協議をして貰うために同人を案内したということになつている。ところが、それであるならば、竹内が前記のように古電車内に僅か一分位しかいないし、具体的協議をした供述がないので、どのようにして本件事故の計画が具体化されて実行されたのかが不明であつて、殊に本件事故電車が午後四時頃交番検査の済んだものであつたことから見て本件事故について共謀があつたか否かが遡つて疑問となつて来るのである。
被告人竹内の供述によると、被告人横谷との第二回目の協議によつて本件事故との結び付がはつきりしているのではあるが、第一回目の話があつて未だ承諾もしない前に古電車に入つた理由がわからず、前に説明したようにこの供述は前の供述を本質的に訂正して附加されたため、信憑力が弱く本件事故との結び付を明確化する為の合理的な説明を附加したに過ぎないとの感を受けるのである。右のようにこの点については、被告人横谷と同竹内の根本的不一致を一応被告人竹内の供述を採つて先に進むことにする。
この項目の検討を終るに当つて省察を加えなければならないのは、被告人竹内の単独犯行の供述と被告人伊藤、横谷、竹内の共同犯行の供述に関する自白の原因とその相互影響についてである。
一、被告人竹内の単独犯行の供述について。
被告人竹内は、既に説明したように、逮捕勾留された当時は本件犯行を否認していたが、検事から現場附近で坂本安男に会つたことはないか等の点を問われ、昭和二十四年八月二十日初めて本件の単独犯行を全般にわたり相当詳細に供述し、爾後共同犯行を全面的に認めるに至つた十月十四日までの間に犯行の動機、原因、実行行為後の心境を明かにし、その間の供述調書は八月二十日附平山検事に対する供述調書以下十七通に上つている。その自白の原因は、「斯様に一番線電車を発車させましたが、其の結果生じた事故は余りにも大きく若し私が斯様に電車を発車させたことを申せば、私の子孫に暗い心境を作ることになるので隠していたのです。電車区の仲間が此の電車を動かした人間が仲間の中にいないと思つて居たことも私が隠していた理由の一つです。夫れは若し私が自分でやつたと云うことが判れば、此の電車区の仲間の気持を裏切ることになるからです。然し又反面何時迄も其の事を隠していると結局真相が判らず飯田さん初め入獄中の人々迄も認定で罪を着るような事になつてしまうので、夫れは誠に之等の人に済まないので、以上真相を申したのです。従つて今度の事故を起した原因は私一人が自分の考だけで発車させた為です。別に誰も其の相談には乗つて居りません。」(記録第二五冊第四三九丁以下八月二十日附供述調書)、「事故後現在迄私が一番苦しかつた時は先月(七月)二十八日頃の夜妻と末の子を連れ三鷹映画劇場に「出獄」と云う映画を見た際、ニユースで三鷹事件の模様を見その際被害者の手足の千切れた場面を見せつけられた時で、此の時には私も思はず全身から血がひいて力が抜けてしまつた様な気がしました。其の後私に対する逮捕状或は勾留状が出たのですが、私ももう駄目だと思いました。然し、私より先に入つて苦んでいる飯田さん等に対し今更私があれは自分がやつたのですとおめおめいへなくなり引込みがつかなくなつてその為今迄隠して居たのです。」(同冊第四四九丁以下八月二十一日附供述調書)というのであり、その後の取調に際し検察官から、他の人は共同犯行といつているがそうでないのかと繰返し発問されているにかかわらず、他の人は関係なく単独犯行であると繰返し答えている(記録第二五冊第四七四丁以下、八月二十三日附検事調書第四八七丁以下、八月二十六日附検事調書第五一一丁以下、八月三十日附検事調書、第五二四丁以下九月一日附検事調書)。又犯行の動機、原因、実行行為、犯行後の心境についても、当初から相当詳細陳述していて、原審説明の通り、その後の供述に本質的な変化が見られない。従つて、検察官主張のように、単独犯行の供述は自己が関係した部分だけであるに反し、共同犯行の供述は他人の関与した事実を述べるのであるから、不正確な点があるとしても当然であることを理由として右供述の信憑力を否定することができないのであつて、右被告人竹内の単独犯行の供述は、供述の原因、供述の一貫性から見て、極めて信憑力が高いものといわねばならない。
これに反し、被告人竹内の共同犯行の供述は、その自白の原因が後記の如くであるばかりでなく、前記のように供述の曖昧、不確実、動揺、本質的な点の訂正、変化等単独犯行の供述と比較するとその信憑力は極めて薄弱である。
以上の被告人竹内の単独犯行の供述は共同犯行ではないのかと常に発問されながら供述している点において、共同犯行の供述と正面から相反し、単独犯行の供述に全面的な信頼が置かれるならば、共同犯行の供述は措信し得なくなる関係に立つものであるということができる。従つて、被告人竹内の単独犯行の供述に極めて高い信憑力があるものと認められる本件においては、同被告人の共同犯行に関する供述は附随的な事項たとえば、組合事務所内における組合員らの言動、同事務所えの被告人らその他の組合員らの出入状況に関しては格別、本件共謀の基本的な事項、即ち、横谷から本件事故について話されて、これを承諾した模様等に関する点については措信できないものとなるのである。
二、被告人伊藤、横谷、竹内の自白の原因とその自白の相互影響について。
右被告人ら三名の自白原因及びその相互影響には各被告人らの供述の信憑力を低下せしめる理由が存在することは後記第二節に説明した通りであるからこれを援用する。
以上説明の通り、各被告人らの供述を一応取りまとめて得られたものの中には信憑力の薄弱なもの或は措信できないものがある。
第三項 七月十五日における整備第二詰所古電車内と組合事務所における共産党細胞に属する被告人ら並に民同派を含む他の組合員の在室又は出入状況特に時間関係。
前記第二において一応取まとめた各被告人らの供述を綜合して出て来た事実を正当に評価するには更に次のような事情を考察しなければならない。即ち
(一) 七月十五日における整備第二詰所古電車内と組合事務所における共産党細胞たる被告人ら並に他の民同派を含む組合員の在室又は出入状況、特に時間関係。
(二) 右在室出入関係及び時間関係から、検察官主張(従つて被告人伊藤の供述する)の謀議の成立に適当な時間的、場所的関係があつたか否か。
以下先づこの二項目について、原審証人及び被告人らの供述を引用して検討することとする。
原審証人石井方治の供述(記録第一七冊第二丁以下)
「七月十五日八時三十分頃分会の組合事務室に出勤した。朝執行委員会があつた。ほとんど全部委員は出席していた。内容は住宅問題、或は武蔵野の協同組合への申入にかんする件であつた。その後区長との団体交渉があつた。私はそこえ出ないで、午前中組合事務室で、物資委員会の仕事をしていた。午後は二時半頃から三時頃だと思うが、物資委員会が開催され、これに出席した。内容は一般の物資の配給を公正に行うことであり、此の時は石〓やタイヤの配給について、二十三番線の電車の中で行われた。それが終つてから、組合の事務室にいて五時半頃知人のおばさんが来て組合の事務室と第二青年寮の間の涼しい通路で一時間位話していた。そして陸橋の一寸先に行つた仕業検査のところで、飯田、伊藤もう一人後で名前を知つた金沢と三人に追ひ抜かれた。その時飯田が、「今晩家に行つて来るから留守番を頼む」と云つたので、「ゆつくりして来なさい」と云つた。時間は六時二十分から三十分位の間であつた。それからおばさんと三鷹信号所側にある富士屋というそば屋迄行つて別れ、そのそば屋に入り、そばを食べていると横谷が駅の方から来て、私が呼ぶと入つて来たので、「一緒に食べないか」と言うと結構だと言つた。「それではパンを食べないか」と云つてパンをあげ、少し話をした。すると電車区の方から志村広己とあと二、三人の者が電車線路伝に入つて来て「煙草をくれ」と云つたら、横谷が一本やつた。そして「此れから八王子に映画を見に行くところだ」と云つたので、私も横谷も「これからでは間に合はないだろう」と云つた。此の時の時刻は大体七時頃であつた。そして、横谷と二人で電車区の風呂に行くためにそちらの方え歩いて行つた。途中区長官舎のそばの魚屋のところえ来た時、横谷はそこで話し、電車区の第二青年寮の前に行つた時、私は洗面道具をとりに部屋え行きましたので、横谷だけ先に行つた。私は部屋で、人と十分乃至十五分話をして風呂え行つたが、横谷はいなかつた。二十三番線の電車は廃車と同様であり、通常整備第二詰所の西側においてあつた。組合で此の中を使つて書きものをしたり、組合事務室で多勢の者がやれないときには夏には涼しいので此の中で会を開いた。
七月十五日組合事務室には、飯田、青柳、その他執行委員は全員いたと思うが、伊藤は組合の外部団体との交渉が多かつたので、或はいなかつたように思う。」
原審証人西巻啓一の供述(記録第一七冊第三五丁以下)
「私は昭和二十四年四月一日から組合に入り物資部長をしている。詰所は二十三番線の駅の方から一番線の古電車である。二十三番線に古電車は二つあり、一つは物資部が使つており、一つは整備係詰所になつている。七月十五日朝八時頃出勤し、いきなり組合の詰所に寄らないで物資部え行き、酒と加配米の配給をしていた。午前中は配給の仕事をし午後は物資委員会があつたので出席した。委員会の場所は物資部の隣の第二整備詰所の古電車内で事務所寄りであつた。出席者は十二、三名である。駅寄りの方にも机が一つあり、組合の書きものに使つていて、そこにはいろいろの人が入つて来た。清水が一番多くいた。物資委員会をしているとき清水と外に名前を知らない一人がいた。十四日十時半頃組合事務所え行くと飯田、相原、伊藤がいて外山が居たと思う。伊藤が私の前で、外山がいたと思うが「いよいよ実行だ、此の二、三日にやらなければ腹がおさまらない。」と二回位普通の云い方で云つた。前から民同の者は(私は民同である)身辺を気をつけろと云はれたので物資部え行つて石井、田村に話した。」
原審証人高田武男の供述(記録第一七冊第四三丁以下)
「七月十五日午前八時四十五分の点呼五分前に出勤して点呼を受け、荒川主務検査係から組合え今日は行つて貰いたいと云うので、中島助役へそのように云つて組合え行つた。青柳、石井にガリ版でもするものがあるかと聞いたところ何もないと云うので、物資部え行き、そこで物資部の手伝はしないが一日中暮した。五時頃風呂に入り岡本と一緒に帰つて来ると大体五時半頃だつたが途中陸橋のところで、竹内に岡本が呼ばれて仕業検査所え行つた。私も何の気なしに入つた。五時三十分頃であつた。中には、藤田、菅原、杉山、竹内と大体七、八人いた。入つた瞬間、誰が云つたのか判らぬが「こうなつたらやつてやるぞ」と云う声がした。私は民同派に属する。」
原審証人相原一男の供述(記録第一七冊第一三〇丁以下)
「私は七月十五日当時三鷹電車区労働組合の副委員長をやつていた。立場は共産派、民同派いづれでもなく中間であつた。七月十五日午前八時半頃電車区に出勤し、午前中は十四日中に第二次行政整理があり、十五日に職員の配置の変更があつたので、区長に行政整理の理由を組合から尋ねに行くことになつたので、私が組合員の意思に従つて、区長に交渉する段取りをし、それから区長室に行つた。そのとき委員長の飯田も行つたが、当時区長は、馘首された者は組合員でないから飯田とは話しないといつていたため、私が代表して行つた。そのときは私の外に十五、六人から二十人位の者が区長室に入つた。話合の時間は十時少し過ぎから十二時頃までかかつたと記憶する。本件被告人たちが入つていたか否かは毎日のように交渉があつたので、はつきりしないが入つていたこともあるようであり、窓の外にいたかも知れない。
午後は主として組合事務所に居て、配置転換及び行政整理に反対するビラやポスターを書くことを協議したり、協力したりした。又外部から配置転換、行政整理の状況が入つて来れば、伝達したり、電話が外から掛つて来たら此方の状況を報告したりしていた。午後二時頃と思うが、前に残つていた産業用の酒とかチユーブ、タイヤの分配の物資委員会の話を聞いた。そのときの組合事務所の人の出入は、組合員の出入が多かつたが、他の人の出入は目立つてなかつた。一人、二人はあつたと思う。当時(午後)組合事務所内には十人位何時もおつた様であつた。そのとき殆んど事務所内にいた人は私と飯田、石井方治、今成で、その外の者はやはり出たり入つたりのような気がする。整備第二詰所の物資委員会の話の初まつたのは午後二時頃と思うがはつきりしない。終つたのは四時少し前と記憶する。場所は整備第二詰所の下り側で、即ち古電車の西側(中央ドアの所から下り側の所である。))。同じ古電車の上り側の状況は、そこでは何時もポスターとかビラを書いているのであるが、そのときも古電車の中央に机があつて、そこで二、三人が何時もと同じ様なことをしていた。その人が誰であるかは記憶がない。その日午後の飯田の行動は、主として組合事務所におつたように思うが何時頃いなかつたという記憶がないが、いないこともあつたと思う。伊藤は物資委員会が終つたときにはいた様な気がする。又一時頃もいたように思う。外山ははつきり記億がない。横谷は外山と同じである。田代は見たような気がする。先崎ははつきりしない。宮原は組合事務所では見ない。竹内は少し見たような気がする。清水は記憶がない。」
原審証人志村広己の供述(記録第一七冊第一七一丁以下及び第二一五丁以下)
「七月十五日私が仕業検査詰所を出て組合え出勤したのは九時頃であり、組合に行つたら、今日は区長と団体交渉するとの話があつたので、相原委員長を先頭に、区長室に交渉に行つた。人数ははつきりしないが、整理になつた者も相当区長室につめかけた。その時はある一部の者には行政整理の指令(辞令の誤記と認める)を渡されていたかも知れないが、まだ第二次整理の指令(前同誤記と認める)を渡してなかつた。区長室には私服の警察官が三人か四人位いた。そして区長の態度があまりにもはつきりしなかつたので、皆んな相当言葉が荒くなつた。すると国警の警官が一人スーツト区長室を出て行つた。これはおかしいぞと思つているとそのときは恐らく飯田が私の後にいたと思うが、「行つて見ろ」と云うので、私はその後をつけるようにしてついて行つた。それで区長室のそばの便所のあるところまで清水と二人で行つた。清水に後を頼んで帰つたが、清水は後をつけて行き、警官が自転車で行つたので、清水も自転車を借りて後をつけたようである。区長室に一旦帰つたとき飯田に会つた。飯田がどうもおかしいから仕業詰所に行つて見張しろというので、見張していた。見張に行く前に清水が帰つて来ての話では警官に清水が聞いたら「お前達も公務執行妨害に引掛らないようにしろ。」と云つたらしいので、警官でも動員するんじやないかと見張していた。そうして一時頃まで詰所にいた。それから組合に来て検修の助役以下職場の主務者に行政整理のリストを作らないという確約書をとつたと記憶する。それは検査係詰所で竹内、伊藤、浅香、藤田まだあと二、三人いたようである。相手方は検修助役の塚田、中田、中島位と、主務者としては七、八人いて全部で十二、三人であつた。そのときも首を切られて癪に触つたから相当荒い言葉も使つた。又助役の中にもあまり信用がない人間がいたので、今迄の自分の不満を相当ぶちまけていつた。署名させたが、助役としては首になつている人間を余り問題にしていないような態度で受附けなかつた。それは二時頃から四時一寸前位までかかつたと思う。それから仕業検査詰所にいつた。その日組合事務所に行つたところ、時間は記憶がないが、竹内が来て、興奮して藤田と話していたようであるが、退職金が多いとか少いとか言つて区長室え行つたと思う。夕方になつて五時近く仕業検査詰所に行くと竹内と黒田、杉山、久保田、岡田その他にその日の日勤の者合計七、八人がいたと思う。その話は整理の話が主で、整理された人もいて空気が緊張していた。六時頃と思うが、藤田光春が入つて来てあまり大びらではなかつたが、耳元に来て今晩高相方でフラクがあるから出られたら出てくれと云はれた。それから三鷹の第一青年寮の管野寮長と話をし、仕業検査詰所を杉山、久保田、岡田と私と四人で出て電車区と三鷹駅の中間位のところにある「富士屋」という飲み屋のところを通りかかつた。横谷と石井がそこにいて、私は中に入つて「煙草を一本くれないか」と云つた。石井の煙草と思うが、煙草を一本貰つて吸つた。杉山、久保田、岡田は待たない様に先に行かせた。私は横谷に今日俺も三鷹の方に行くから一結に行くなら行こうと云うと横谷は電車区に用があるから先に行つてくれといつていた。そこに立寄つたのは二分位と思う。石井が民同派と知つていたので民同派にもれてはまづいから横谷にはフラクという言葉は使はなかつた。横谷は大体朗らかな性質であるが、その日は考えごとをしているように感じられ、自分の見た眼では顔色が悪いように思つた。又フラクが初まつているのに、横谷はフラクに熱心で遅刻するようなことがあまりない様であるのに、電車区に行くのはげせなかつた。吉祥寺と三鷹の距離は歩いて三十分位かかると思う。」
原審証人坂本安男の供述(記録第一九冊第一七六丁以下)
「七月十五日午前九時頃組合に出て、午前中はビラ書きのような仕事をしていたと思う。それから団体交渉に参加し、それが丁度昼頃すみ、家え食事に帰り、食事をして組合に行き、午後は一時頃プラカードを持つて吉祥寺に行つた。田代に「プラカードを持つて手伝つてくれ」と云われた。田代と沢とそれから四人位で行つた。プラカードのあつた場所は高相の家であると思う。それをかついで電車に乗つて行き、吉祥寺の駅前の北側に行き、それを並べて、私はその辺にいた。私は四時過ぎ自分の学校の講演会が神田の共立講堂にあつたので帰つたが、田代はその間ずつとはいないで、三鷹電車区検査派出所に行つて休んでいた。横谷も来たが何時頃来たか記憶がない。」
被告人外山の検事に対する八月三日附供述調書(記録第二五冊第一丁以下)
「午前十時頃に組合事務所に行つた。よく覚えてはいないが、いつも黒田、沢田、今成、相原等が居たから此の時もいたと思う。事務所では別に変つたこともなく相談等をして昼頃食事をした。或は午前中西巻、相原等と区長室え首切り理由を聞かして呉れと交渉に行つたかも知れない。昼食後古電車の仕事場に行き、清水から「今日あたり細胞会議を持たなければ仕様があるまい」と話された。首になつた者だけが組合活動をして残つた者が離れて行く様な空気があつたので、分会内の共産党員の細胞会議を開いて方針をきめ様というわけなのである。
勿論私は賛成して飯田に連絡すべく組合事務所に行つたところ、飯田も賛成し、その場にいた田代、横谷も承知した。それで、その日の午後六時半から高相さんの家で細胞会議を開くことにした。私は再び古電車え行き清水や今度首になつた本郷という年寄りの構内運転士と色々相談したが、同じ電車の中で午後三時頃物資委員会が始まる迄清水が壁新聞に山を書いたり、詩らしいものを書いたりする側で話をした。物資委員会というのは組合員の物資の配給をやるもので、分会の青柳書記長を初め、星野など五、六名の委員が、物資部の西巻と共に来ていた。午後三時頃私は再び組合え行つたが、前述の人達と相談しただけで、午後四時半頃私は清水か加藤と共に運転助役室附近にある乗務員浴場え行つた。浴場には栗原、大久保其の他十数名が居り三十分位で午後五時頃風呂から上り、途中青年寮の栗原の部屋え洗面器を返した上で、組合事務所え行つた。飯田が二十七才位のずんぐりした男と話をしており、「こんな状況でどうなるか」等と話しをしていた。」
被告人横谷の検事に対する八月三日附供述調書(記録第二五冊第九八丁以下)
「七月十五日午前七時四十五分谷保発車の南部電車で立川に出て省線に乗り換え八時二十分頃武蔵境駅で下車し、徒歩で三鷹電車区の組合事務所え着いたのが、八時三十分頃であつた。事務所には二、三人位しかいなかつたが、其の後役員の委員長飯田、書記長青柳、副部長石井がやつて来、その後又十人ばかり首になつた人達がやつて来てごたごたしていた。私は午前中組合で白紙や新聞紙に筆でビラを作つたり、又飴そをこで売つたりした。十二時頃昼食を食べた。午前中飯田から誰か生活資金カンパため組合で販売する品物があつたら廻して貰つて来いといつて、吉祥寺にある生活協同組合の仕入係を教えてくれたので、それに行かなければならぬと思いつつぐづぐづしていて組合を出たのは午後二時であつた。三鷹駅から電車に乗つて、吉祥寺駅え着いたのは、午後二時半頃であつた。駅の北口で田代に会つた。田代を誘つて協同組合えバスに乗つて行き、協同組合え着いたのは午後三時頃であつた。仕入部の飯田の教えてくれた人は不在だつたので、十分位そこにいて、又来るといつて、バスに乗つて吉祥寺駅前に戻つた。三時三十分頃と思つた。同駅北口で約二時間位玉ころがしを見たり、田代とキヤンデーを二本づつ買つたりしてブラブラ遊んでいた。六時四十分頃二人で吉祥寺駅から電車に乗り、確か七時前後三鷹駅に着き田代と組合え行く途中、ドブ河の傍の「フジ屋」と云うソバヤを一寸のぞいたら、石井が一人でソバを食べていたので、入つて行つて同人の傍に腰を掛けた。同人と一緒に組合え行こうと外え出た。雑談しながら歩いて七時三十分頃組合え到いた。田代は私が「フジ屋」え入つたとき一人で組合え行つた。組合に誰もいなかつたので、石井と二人で風呂に行こうということになつたが、石井が先に行つてくれというので、風呂え行つた。二十人位入れる風呂であるがその時は空いていて四、五人しかいなかつた。入ろうとすると田代がすれ違いに風呂から出て組合に行つた。私は石鹸も使はずサツと湯につかつて上つただけだから風呂にいたのは二十分位に過ぎないと思う。着物を着ているとき石井が風呂に入つて来たので「お先え」と云つて風呂場を出て、組合に行くと、組合には田代だけが飯を食つていた様に思う。組合の戸を閉めて外え出たとき、時計を見ると八時五分前であつた(まだ明るかつた)。予想以上に遅いので田代にきくと田代の時計もそうであつた。田代と二人で「六時から高相さんの家で三鷹電車区のグループ会議がある事になつていたが未だやつているかなあ」と二人で話合ながら兎も角行つて見ようと徒歩で約十分位歩いて、高相さんの家え着いた。右の会議のあることはその日の午前十時頃組合事務所で外山から聞いた様に覚えている。」
以上の各供述には多少の不一致はあるが、前に三鷹電車区労働組合の一般的情勢を説明する際に引用した証拠と綜合すると、次のような事実を認めるのに十分である。
一、当時三鷹電車区においては労働組合の指導権をめぐつて共産党細胞に属する被告人らと民同派に属する組合員らとの間に対立があり、相互に相手方の動静には十分注意し、相互に警戒していたこと。
二、当日午前中には組合事務所で執行委員会が開かれ殆んど全部の委員が出席した。その後区長との団体交渉が行はれ、相原副委員長を代表としその他多数の組合員が押かけ、略午前中その交渉が続いたこと。
三、午後零時半頃から一時半乃至二時頃まで組合の内外に二十余名の共産党員を含む組合員がいたこと。
四、午後二時乃至二時半頃から三時頃までの間に物資委員会が開かれ、午後四時前頃終了した。場所は整備第二詰所の古電車内の組合事務所寄りの半分で、その半分の駅寄りの部分は組合の書物に使う場所であつて、そこには色々の人が出入したこと。
五、当日午前午後に亘り組合事務所には多数の人が出入し又在室したこと。
(イ)民同派に属する石井方治は、朝の執行委員会に列席し、区長との団体交渉には出ないで、午前中は組合事務室で、物資委員会の仕事をしていた。前記物資委員会出席のため組合事務所をあけたが、終了後又組合事務室に在室して、午後五時半頃知人の女の人が来たので、事務室と第二青年寮との間の凉しい通路で一時間位話をした。
(ロ)中間的な立場にあつた副委員長相原一男は午前中は区長に対する団体交渉に従事して午後は組合事務所にいて午後二時頃から前記の物資委員会に出席した。
(ハ)共産党細胞に属する志村広己は午前九時組合に出勤し、午前中団体交渉に従事した。時間ははつきりしないが、その他にも組合にいて竹内と藤田が興奮して話をしているのを聞いた。
(ニ)一般組合員である坂本安男は午前九時頃組合に行き、午前中ビラ書のような仕事をしていた。その間団体交渉に参加し、午後一時前に組合に出勤し、午後一時頃被告人田代らと共に吉祥寺に出かけた。
(ホ)被告人外山は午前十時頃組合に行つた。昼までいて昼食したが、団体交渉に行つたかも知れぬ。昼食後古電車の仕事場に行き、それから組合に戻つてその晩の高相会議の相談をした。古電車に行つて午後三時頃再び組合に戻つて、午後四時半頃迄いた。午後五時頃風呂から上り、組合事務所え行くと飯田が二十七才位の男と話をしていた。
(ヘ)被告人横谷は午前八時三十分頃組合事務所に着いて、午前中ビラを作つたり飴を売つたりしていた。十二時頃昼食をし、吉祥寺の協同組合に連絡するため午後二時頃組合を出た。
(ト)その他組合事務室には飯田、青柳、伊藤、今成、田村、竹内、黒田、沢田らがおり、飯田は午前中区長室え団体交渉に出かけた外大抵おり、石井、今成も殆んど組合におり、伊藤は外部団体との交渉で出ていたかも知れない。その他の人は出入した程度である。
(チ)右以外にも組合員の出入が多かつたが、組合員以外は一、二人あつた。そして午後組合事務所内には十人位いつもいたようであつた。
六、当日午前午後に亘り整備第二詰所にも相当数の人が出入したこと。
(イ)民同派に属する高田武男は午前八時四十五分の点呼を受けて、組合に出勤し、間もなく物資部え行きそこで一日中暮した。(場所は整備第二詰所の隣の古電車。)
(ロ)午後二時半頃から四時頃迄の間整備第二詰所で、物資委員会が開かれ、出席者十二、三名であつた。
(ハ)物資委員会の間に清水外一、二名がいた。
七、当日区長室附近には私服の警察官が三名か四名いたこと。
八、各被告人の行動は次のように推認できること。
(イ)被告人飯田。午前八時三十分過組合事務所に出勤、朝行はれた執行委員会に出席、続いて区長との団体交渉に立会い、午後は殆んど組合にいて、六時半頃伊藤、金沢と組合を出た。
(ロ)被告人伊藤。組合事務所、整備第二詰所にいたり或は外部団体との交渉等で一ケ所に継続していなかつた。午後六時半頃飯田、金沢と共に組合を出た。
(ハ)被告人田代。午後一時頃組合を出て坂本安男らと共に吉祥寺にプラカードによる宣伝に出かけた。七時頃吉祥寺から三鷹駅にかえり組合え行き風呂に入り、組合で食事をして、八時五分前頃組合を出て高相方に向つた。
(ニ)被告人横谷。午前八時半出勤して組合事務所に行き主として同所におり、午後二時頃協同組合え連絡のため、吉祥寺に行き、田代に会い、田代と共に七時頃三鷹駅に着き、組合附近で田代と別れ同時刻頃石井方治と会い、単独で風呂に入り、それから組合に行つて田代に会い、高相に出かけた。
(ホ)被告人外山。午前十時頃組合に行つて、或は団体交渉に参加し、昼食後古電車内で清水から話があつて細胞会議を開くことを考え、飯田に連絡するため組合事務所に行き、その賛成を得て、六時半から高相方で会議を開くことを決めた。再び古電車に行き清水外一人と話をしたが、物資委員会が初まつて午後三時頃組合に行き、その後午後四時半頃清水か加藤と共に乗務員浴場え行つた。
(ヘ)被告人清水。主として整備第二詰所の古電車の中にいて宣伝ビラ等を書いていた。午後四時半頃外山と共に前記浴場え行つた。
(ト)被告人竹内。組合事務所、仕業検査詰所、検査係詰所等にいて、相当興奮して荒い言葉を使つていた。
以上の事実関係によると当日組合事務所及び整備第二詰所等で多数の被告人らが、本件共同犯行についての謀議を行うことは非常に困難な事情にあつたこと、謀議の場所としては組合事務所は極めて不適当であり、たとえ一、二の被告人らの秘密の会話であつても、これを民同派に発見看視されることは、共産党員たる被告人らにとつて、極めて不利であつて、又組合事務所内ではこのような密談も極めて困難であると思はれること、物資委員会が開かれた関係上整備第二詰所も午後二時乃至二時半から午後四時前までは、そこで謀議をすることは不可能であつたこと、午後一時過からは田代が、午後二時過からは横谷が本件謀議に参加することはできなかつたこと、被告人竹内と横谷の第二回目の協議が、若しあるとすると午後七時過から午後八時前までの間而も横谷が石井方治と話をした時間入浴時間等を除いた極めて短時間の間でなければならないこと等が認められるのである。
而も本件共同謀議が行はれたと主張される場所に極めて近接して行動していた多数の証人らが、被告人らの行動中謀議と考えられる会合或は密談のあつたことについては、何人も一言も証言していないので、本件共同謀議の成否にとつては、消極的な資料となることを否定することができない。
又前記の被告人横谷及び田代の不在時間、物資委員会の開催時間は本件にとつて極めて重要な関係となるのであるから、前記各被告人等の供述中、時間関係の訂正があつたものはその信憑力に影響を及ぼすものであつて、被告人伊藤の供述にこの点が甚だ多い。
(イ)七月十五日午前十時頃組合事務所前で横谷が外山から、具体的なことは高相会議で話すといわれた点は、同会議が前記のように外山らによつて午後決定された事実から見て措信できなくなり、全体の信憑力も疑問となつて来る。
(ロ)午後二時頃、外山が横谷、田代を組合事務所から呼出したとの点は田代が午後一時頃吉祥寺え行つたことから田代については措信できず、従つて全体の部分についても疑問が出て来る。
(ハ)午後二時半頃整備第二詰所内に、横谷、伊藤、外山がいた点の中横谷については疑問がある。その後同所に外山、田代、横谷、清水、喜屋武がいて竹内に実行を依頼することを定めたとの点は、田代が全然措信できず、横谷が疑問があり、物資委員会の直前または開催後、多数が謀議していて何人もこれを発見していないことにも疑問がある。仮に横谷が二時半頃までいて、竹内と交渉をし、その承諾を得て、これを整備第二詰所に案内したとしても、同所に外山、田代、清水、喜屋武、伊藤、飯田らの多数がいたことは四囲の状況上多大の疑問がある。特に田代の部分は前記の通り措信できない。
第四項 七月十五日午後整備第二詰所を中心とする本件共同謀議の成立を確認し得るや否やの判断。
以上第一乃至第三に検討して来た各般の資料を綜合し既に第四点について判断して来た事項後記第五点の他の論旨に対する判断、第六点の判断と併せ考察すると、次のように結論せざるを得ない。
一、各項目毎の被告人の供述は、それ自体供述の変化が合理的でなく、前後に不統一があり、前記説明のように欠陥があつて信憑力が薄弱である。
二、各供述から矛盾、不統一を取去り、一応首尾一貫して供述を求め得ても、更にこれを他の被告人のそれと綴り合はせて得た結論の中に尚直ちにいづれを採用すべきかについて決し難い矛盾、不統一がある。殊に被告人竹内の供述は、同被告人の単独犯行の供述に信憑力がある結果本質的の点で措信できない部分がある。
三、当時の組合事務所、整備第二詰所を中心とする場所的、時間的関係は本件共同謀議の成立に極めて否定的である。
四、時間的関係のくいちがいから、各被告人の供述を綜合して得たものの中に明かに事実と反し措信し難い部分を持つていて、結局全体の信憑力に多大の疑問を投じている。
以上の各種の事情を綜合すると本件共謀については部分的断片的には極めて薄弱ではあるが証拠となり得るものが存在するのであるが、本件共同謀議の成立に関しては、極めて疑わしく結局証明不十分という結論に到達せざるを得ないのである。
第三款 七月十五日夜高相健二方における共謀と中座
6 七月十五日夜の高相健二方における共謀について。(控訴趣意書第五点第一の二の(三)第二六八頁以下判決五七丁以下被告人横谷関係(六)の事項、控訴趣意書第五点第一の三の(三)第二八六頁以下判決七三丁以下被告人伊藤関係事項(三)の事項)
7 右会議における中座について。(控訴趣意書第五点第一の二の(四)第二七一頁以下判決第五八頁以下被告人横谷関係(七)の事項、控訴趣意書第五点第一の三の(三)第二八六頁以下判決第七三丁以下被告人伊藤関係(三)の事項)
6の点に関する原判決の説明は、
被告人横谷の供述について、<1>乃至<3>の供述を検討した上、
「まず会議の席上飯田が本件に関し発した言葉が問題である。<1>の供述では「一番線の電車だ。九時半頃となつているのだ。」<2>の供述では「今晩九時過ぎに一番線の電車を動かすから見張に出てくれ」<3>の供述では、「一番線にある本日交番検査のすんだ電車を走らせるから」となつていてその発言内容に統一がない。ここでも<2>の供述に見張の話や<3>の供述に本日交番検査のすんだ電車の話が――最初の八月十五日附自供書にも記載がある――突然出て来る。一体見張ということがどんなことをするのか、また本日交番検査のすんだことをどうして知つたのか、全然述べられていない。その上問題は飯田の言葉を聞いた者がどう感じたかである。<2><3>の供述では不明であるが<1>の供述ではその会議に参加した者が全部知つている筈だと強調されている。それならば飯田の言葉を聞いてこれについて更に詳細の方針を飯田に問いただす者がある筈である。
ところがその模様はこれらの供述からは見受けられない。」(判決五八丁)
被告人伊藤の供述については、7の点を含め<1>乃至<8>の供述を検討した上、
「以上の証拠を通観してわかるように、七月十五日夜高相健二方における三鷹電車区細胞会議と本件との関係について、伊藤の供述はしだいに少しずつ前の供述を訂正し又はその内容を増大し、他の被告人たちの行為から自己の行為にまで触れている。すなわち<1>の供述ではまず事故前飯田が時間を聞いたとき会議参加者の席の空いた事実を確認し、事故直後飯田が見に行つて来いといつたとき、外山、横谷、清水が、不在であつたことを明かにしている。しかし事故直後というも、事故発生後どれほどの時間を経過しているか不明である。(本件では正に事故発生後一、二分乃至四、五分の行動が問題となるのである。)」
この明白でない一事を以てであろうが、伊藤は本件事故電車を動かした者は竹内、横谷、その見張をした者は外山、清水ではないかと思うと推測しているに拘らず、次に<2>の供述では<1>の供述で事故直後不在であつたという外山、横谷、清水は事故前飯田が時間をきいたとき中座していたと変更され、新しく事故直後に飯田が見て来いといつたときに不在であつたのは田代、宮原であると追加された。ところが、<3>の供述に至るや、更にこれまでの供述に重大変更を加え、この会議で、飯田が、自然発車の脱線事故を話したこと、九時何分かに飯田が時間をきいたとき、横谷、外山、清水、田代、宮原に伊藤の六名が中座したことを明かにした。しかしそれまで本件について最も消極的な態度にあつたことを自認する伊藤が、なぜここに至つて他の五名の被告人達と中座するに至つたであろうか。この点はこの供述で少しも解明されていない。それでは<3>以下の供述でいかなる点が取上げられているのか。
その一つは細胞会議の席上における飯田の発言に関する点である。
まずその発言の内容について、
(イ)「今夜自然発車させて、転轍で脱線させれば、入庫も出庫もできず、一日位は間引きしたような形になり、宣伝になる。」<3>
(ロ)「宣伝の効果を狙うために構内の転轍器で電車を脱線させれば、間引状態になり、よい宣伝になるから、今晩やろう。」<4>
(ハ)「今夜自然発車させて転轍で脱線させれば、入庫も出庫もできず、一日位は間引したようなことになり、六三型電車の自然発車の宣伝になるからやろう。」<5><6>(今夜九時半頃と附加する)<7><8>
に分れている。すなわち、(イ)では自然発車と転轍での脱線、(ロ)では転轍での脱線であるのが、(ハ)では六三型電車の自然発車と転轍での脱線となつて、その供述の内容を充実させてこれを維持している。そこには発言内容に一つの合理的拡張が試みられた疑がある。右の飯田の発言が為されたのはいかなる機会においてであろうか。それは飯田が六三型宣伝を話したとき<3>。写真宣伝の話のとき<4><6><7><8>。行動隊の話のとき<5>。に為されたというが、どうして飯田が右の発言をするようになつたかというに、<3>乃至<6>の供述では、飯田がみずから発言したようになつているが、<7><8>では、喜屋武に「今夜のことをどうするか」とたずねられて、漸く発言したことになつている。飯田がこの発言をどの機会にするかは、事の重大性からみて、その慎重な取扱が想像されるが、俄然<7>、殊に<8>の供述では、細胞会議の座を縮めて円席になつた席上飯田がこの発言をしたことになつている。しからば飯田の発言を聞いた者はこれに対し、いかなる態度に出たか。<4><7><8>の供述を除けば全然それが供述にあらわれていない。<4>の供述では、「この会議に出席した者はほとんど全部の者がこれまで電車の事故を起すということについては多かれ少かれ聞いて知つておりますので、反対者もなく、そのまま聞いておりました」となつていて、何人も反対せずに聞いていたということである。<7><8>の供述では喜屋武がこれについて電車のことを確め、<8>の供述ではその他その小さい円陣を作つていた人たち(具体的にその氏名を挙げ)も会議の席にいた外の人も聞いていると推測している。しかしこの重大な発言が席上飯田から一方的になされ、これに対する応対が<7><8>の供述で辛うじて喜屋武から為されただけということは、いかにも竹に木をつないだ感を与えることを否定することができない。<4>の供述でこの会議の参加者のほとんど全部が電車事故を起すことを知つていたというに至つては、伊藤のその余の全供述からみて、いささか誇張に失するものといえよう。
次はこの会議における横谷と飯田の本件についての連絡に関する点である。<4>及び<6>以下の供述では横谷が飯田から、会議の結果の報告を受けた後に、飯田に「九時頃一番線」ということ(その他については伊藤は聞きとれなかつたという<4>)を伝えたとなつており、<5>の供述では「九時半頃一番線」といつたのはたしか横谷と思うとやや推測的になつている。一体横谷が話したこの言葉はどういう意味を持つのであろうか。伊藤自身はこれに対し、それを選んだのは横谷であつて、横谷が吉祥寺から帰つて来た時間と番線を確め、竹内と打合せたことは間違ないと十月十日附供述調書で述べている。しかし、この推定が果してまちがいないものか、これを裏ずける伊藤の供述は何らなされていない。第一に竹内と伊藤の関係について、伊藤はこれまで、一言も触れていない。第二に犯行の時間と場所を決定することは犯行を実行する上に一つの要素である。伊藤がこれに関与しないで、横谷がこれをしたというのは、飯田に特に一任されない限り、不自然な行き方である。したがつて伊藤のこの推定が当をえていないといえるのみならず、横谷が飯田に連絡したということも、また横谷と飯田の連絡について、喜屋武が傍で聞いていたという推測的供述もたやすく措信し難くなる。
次は中座の模様である。伊藤の供述によれば、飯田から外山に、外山から田代、清水と伊藤、宮原にと伝つて外山以下五名が中座したが、伊藤以外の者は外山を除くとして、高相健二方を出てどこえ赴き、何を担当するのか、如何に理解していたのであろうか。もつとも<4><5>の供述では、その場にいる者が中座のとき立ち上つたという異常な空気を醸し出してはいるが――これから見れば或は細かい打合が為されていたと見られるかも知れないが――具体的に伊藤自身これに関する供述をしていない。
以上の検討によつてみても、七月十五日夜高相健二方における細胞会議の席上、本件に関する謀議があつたとする伊藤の供述はそれ自身甚だ不自然なものであつて直ちに信用し難く、また中座の点についても後に触れる現場における行動の状況に照してその供述を措信することが困難である。」
7の点に関する被告人横谷の供述に関する原審の説明は、同被告人の<1>乃至<5>の供述を検討し、
「当日事故発生前高相健二方の細胞会議から中座した者があつたかどうかの点について、<1><2><4>の供述では、横谷、外山、田代、清水、伊藤の五名が中座したことを断言し、<3>の供述では横谷、外山、伊藤の三名が中座したことは明かであるが、田代、清水は席を一しよに立つて出たのみで、その後の行動が不明であり、<5>の供述に至つては横谷、外山が中座したことは明かであるが、伊藤、田代、清水が中座したことは推測にとどまつている。宮原についてはどの供述からも中座したことが不明であつて、<2>の供述でむしろこれを否定するような口吻である。
次に横谷がなぜ中座したかの点についてであるが、<1>乃至<3>の供述ではこれについて深く触れられていない。ただ<4><5>の供述で外山から依頼されたためであることが述べられている。しかも<4>の供述では外山の依頼の言葉を見張に出てくれとの趣旨に横谷は取つている。もし見張の趣旨で出たとすれば、横谷はこれについて他の中座したものとこれについて打合を遂げなければ、その目的を有効に遂行できないわけである。ところが同人らの間にその打合が遂げた形迹はどの供述からも察知することができない。むしろ<1>の供述では横谷は組合事務所まで何の仕事を分担するのか知らないことになつている。しかも結果は後に触れるように、横谷は見張どころか、みづから実行に当つていることになつている。
更に高相健二方から組合事務所に行くまでの途中の行動が明確でない。また組合事務所え行つた者として<1>の供述は中座した五名を<3>の供述では横谷、外山、伊藤の三名をはつきり挙げているが、<4><5>の供述では、横谷、外山だけで、伊藤は推測的になつている。」(判決第五九丁第六〇丁)
よつて先に他の項目について説明したように、先づ第一に6及び7の項目毎に各被告人の供述自体について、原審の右説明を検討し、第二に、各被告人の供述相互を比較し、第三に、関係証人らの供述を検討し、第四に、右高相会議の謀議並に中座が証拠上認定できるか否かを判断することとする。
第一項 各被告人の供述の検討。
一、6の点に関する被告人横谷及び同伊藤の供述について(被告人伊藤についてはこの点と7の点との供述が合体しているので、7の点についても同時に検討することとする。)
(一) 被告人横谷の供述について。
所論の中高相健二方の会議に出席した者は何れも三鷹電車区に勤務して地理状況を知つているものと考えられること、右会議で更に詳細な打合や質問などがない場合もあり得ることは認められるところであるから、この点の原審の説明には不充分なところもあるのである。
被告人横谷の供述を見ると、
<1>の供述では、高相会議で、飯田から「一番線電車だ。九時半頃ということになつている」と皆に話した。私はそこで初めて具体的にどの電車を走らせるかを知つたと述べ、
<2>の供述では、右会議の席上、飯田から見張の計画を知らされた。「今晩九時過ぎに一番線の電車を動かすから、見張も出てくれ」と飯田が言つたと述べ、
<3>の供述では、右会議の席上、今日古電車の中で決められたことをいつた。九時少し過ぎ飯田は「一番線にある本日交番検査のすんだ電車を走らせるから」といつたと述べている。
右の供述には、原審が説明しているような、見張の話や交番検査のすんだ電車の話が突然出て来てこれについての説明がないので、供述が漠然としていて、極めて不確実不充分な感を受けるのである。
(二) 被告人伊藤の供述について。
前に説明した通り、被告人竹内は本件事故を極めて軽く考えていたのであり、本件がはじめから重大結果を予想しておこされ得る筈がなく、また竹内を除く他の被告人等の間においても、ストを考えないで、六三型宣伝或は当局に対するいやがらせ等の軽い考えから出ている可能性もあり得るのであるから、本件計画を重大犯罪として綿密周到に計画されたものと見ることのできないことは所論の通りである。被告人伊藤の供述の傾向としては所論の通り、自己の刑責の軽からんことを願い、第三者的立場をとつていたことは、原審においても説明しているところである。又被告人横谷が、被告人竹内との打合に関与し、事件当夜従来細胞会議に熱心であつた被告人横谷が、会議開始の時間後電車区の方に行き、会議に遅刻し、この間入浴時間を除いて被告人竹内と打合を為し得る時間はあつたことは前記説明によつて認め得られるところである。
以下被告人伊藤の供述を見ると、
<1>の供述では、飯田が九時頃時間を尋ねたとき、顔を上げると(当時メモをとつていた)、押入の前と飯田の脇が混んでいたのが、まばらになつているので、帰つてしまつたと思つた。事故直後飯田が誰か行つて見て来いといつたとき、見廻わすと外山、横谷、清水の三人はいなかつた。電車を現実に動かした者は竹内と横谷、見張をした者は外山、清水と思うと述べ、
<2>の供述では、外山、横谷、清水の三名は飯田が時間をきいたとき既に会議にいなかつた。又事故が起きたとき高相会議にいなかつた者は田代、宮原であつた。この二人がいないのを気づいたのは、飯田が事故を見に行つて来いといつたが、この場合普通勤務の新らしい者が腰を軽くして行くのであるのに、二人の方を見るといなかつたからであると述べ、<1>の供述から前進し、
<3>の供述では、会議で飯田が午後八時過頃、今夜自然発車させて転轍で脱線させれば入庫も出庫もできず、一日位は間引したような形になり宣伝になるからやるというような意味のことを言つたと本件事故の話を極めて曖昧に供述し、これに引つづき飯田が時間を尋ね九時何分と答えると飯田が外山に向い、「まだいいかな」といい外山は「そろそろ出かけようか」と立上り、田代、清水に「よう行こう」と声をかけ私と宮原に「伊藤さん、宮原さんお願いします」と言つた。横谷ははつきりしないが、飯田が時間をきいたときにはすでに階段を降りようとしていた。高相の家は横谷が先頭で、次は外山他の清水、田代、宮原、私の四人は相前後して出たと今まで曖昧であつた中座の事実を極めて明瞭に述べると共に自己の中座したことまでも認めている。
<4>の供述は、右会議に横谷、田代の両人が午後八時頃出席し、飯田の左脇に座つた。飯田が横谷に今までの様子を報告し、横谷は体を飯田の方に寄せて「九時半頃一番線で」といつた。それから<3>と同様に電車事故の話をし、<3>と同様の中座の模様を述べ、
<5>の供述は、<4>と同様に述べた上、中座の際、その場にいた大部分のものが立上り、会議が中断したこと。出て行くとき喜屋武が「うまくやつて来いよ」というと外山が「大丈夫だよ」と答えたと附加し、
<6>の供述即ち八月二十八日附裁判官尋問調書では、<5>と殆んど同一趣旨の供述を続け、
<7>の供述では、新たに横谷、田代が会議に来てから、午後八時半頃飯田が寄れよといつたので、二畳の東側にいた外山、清水の二人が立上つて六畳と二畳の境目の所まで来て座つた。それから喜屋武が、「飯田さん、今夜のことどうしたの」といい、飯田は、電車事故を起す話をした。喜屋武は「電車はいいの」「電車は判つているの」といつたという事実を追加し、<8>の九月二十八日附証人尋問調書では、<7>で新に附加した供述を詳細にし、飯田か喜屋武かが話がしにくいからキヤツプ指導部は近くよれといつて、外山、清水が座を移し、小さな円陣型となつた。栗原、黒川、大久保、金沢等は円陣の脇の方にいた。先崎と金沢は、円陣の最も近い脇に、その外石川、大谷、田口等は六畳の奥の方にいたと思う。小さな円陣を作つていた人の中主なものは、飯田、喜屋武、横谷、外山、清水、宮原、私、田代、金である。声は普通であつたから、これらの人達(円陣外の人も)きいたと思う。その他<7>の喜屋武の発言を述べている。
以上の供述の経過を見ると、原審の説明しているように、伊藤の供述はしだいに少しづつ前の供述を訂正してその内容を増大し、新事実を附加し、結局前記<6><8>の裁判官尋問調書を綜合したものにまとめられている。そこにまとめ上げられたものだけ見れば一応首尾一貫しているように見えるが、それまでに発展して来た経過を振かえると原審の詳細に説明しているように種々の疑問が出て来ることを否定することができない。特に後に説明する被告人伊藤の自白中の心境と考え合せると中座者の人員と中座の時間について、曖昧な供述が極めて明確となつたこと、所謂円陣会議がかなり後に附加されると共に、喜屋武の言動が追加されていること等の点について、その感を深くする。
二、7の点に関する被告人横谷の供述について。
所論のように、被告人横谷が、被告人竹内が果して約束通り実行するか否かを確めるために現場に赴くこともあり得ないこともないのであるが、これは単なる推測に止まるのみならず、検察官主張のように被告人横谷の供述がまだ十分に徹底していないとすれば供述自体は曖昧たるを免れないので、所論のような事実は、被告人横谷の供述からはこれを確認するに足らない。
被告人横谷のこの点に関する供述は、<1>の供述では、九時頃誰か今からやつて来るみていてくれ、といつて外山、田代、清水、伊藤らが立つたので、私も一しよに外え出た。五人が高相の家の前で一しよになり、組合事務所まで一しよに行つた。みな黙つて行つたので、自分の分担する仕事が何であるか知らなかつたと述べ、
<2>の供述では、高相から抜け出したものは<1>の五人で、宮原は私が席が立つたときまだ会議していたから、一緒に外に出たことはないと述べ、
<3>の供述では、五人の行動について、五人が席を立つた。高相方を一番先に下りたのは私で、あとはたしか外山であつたと思う。みないそぎ足で、先頭を歩いたのが、私と外山である。外山は高相方の自転車を持つていた。下駄を靴にはきかえようと、組合に行つた。組合の中に入つたのは外山と伊藤で田代、清水は組合に来なかつたと述べ、
<4>の供述では、午後九時過頃、飯田が何時かと聞き、誰かが九時何分と答えた。外山が、谷保ちやん頼むぜといつたので、先頭に降りた。その意味は飯田が見張を出すといつたことと考え合はせて、見張に出てくれという趣旨に感じた。私の後に外山、伊藤、田代、清水らが来た。宮原が来たかどうかは判然覚えていない。私と外山、伊藤が組合事務所に入つたと述べ、
<5>の供述は、時間をきいたとき黒川だと思うが「九時だ」と答えたので、飯田が、「それではもう出かけなければ」と言い、外山が、「谷保ちやん頼むぜ」といいその他の名前もいつていたようである。私はいち早く階段を降り始めていてわからなかつた。その他<4>と同一趣旨の供述をしている。
以上によると、原審の指摘するように推測的な事実が多く、特に当初分担する仕事が判つていなかつたと述べていたのを、見張のためと推測し、中座の目的がはつきりしない点がある。中座が見張の目的であるならば、見張場所の分担等の打合を必要とすることは当然であろう。
従つてこの点に関する横谷の供述は曖昧且不充分であつて信憑力が薄弱であるといわなければならぬ。
第二項 6及び7の項目についての被告人横谷及び同伊藤の供述相互の比較検討。
前記第一の検討によつて各被告人毎にその供述自体の矛盾と不統一を取去つたものの要点を比較対照して並べて見ると次の結果を得るのである。
事項 被告人名 横谷 伊藤 備考
時間 午後八時頃
行動 横谷、田代、高相に出席横谷、飯田に対し、「九時半頃一番線で」 横谷は電車事故のことを言われて、はじめて、知つたといつているから、同人の供述と矛盾し、それと択一的関係にある。
時間 午後八時半頃
行動 飯田或は喜屋武、「キヤツプ指導部は近く寄れ」といつて小さな円陣となつた。飯田、喜屋武、横谷、外山、清水、宮原、伊藤、田代、金が円陣となる。栗原、黒川、大久保、金沢は脇 横谷の供述はない。
にいて、先崎と金沢は最も近く、その外石川、大谷、田口等がいた。喜屋武「今夜のことどうしたの」 話の内容に多少の不統一がある。
九時少し過、飯田「一番線にある本日交番検査のすんだ電車を走らせるから」「見張も出てくれ」「九時半頃となつている」 電車事故の話が出て、飯田「自然発車させて転轍で脱線させると間引運転と同じになるからやろう」喜屋武、電車は判つているかときいた。 喜屋武の言動は横谷はのべていない。
時間 午後九時頃 午後九時頃
行動 飯田が時間をきくと、黒川と思うが「九時」と答えた。飯田「それではもう出かけなければ」外山「谷保ちやん頼むぜ」他の者の名前もいつた。横谷は、いち早く階段を降り初めていた。 飯田が時間をきくと九時何分と答えた。飯田「まだいいかな」外山「そろそろ出かけようか」田代、清水に声をかけ「よう行こう」宮原、伊藤にお願いします。横谷は先に出た。喜屋武「うまくやつて来いよ」外山「大丈夫だよ」 大体両者の供述は一致する。但し宮原の点だけ不一致。 喜屋武の言動について、横谷は述べていない。
私の後に外山、伊藤、田代、清水らが来た。外山は自転車を持つていた。私と外山先頭。組合に行つた。中に入つたのは外山、伊藤である。 高相を横谷先頭、次いで外山、他の清水、田代、宮原、伊藤は相前後して出た。 宮原を除き一致。
右の対照の中から一応両者の矛盾不統一をいづれかの供述に従つて解消して、取まとめて見ると、
高相会議に午後八時頃横谷、田代が出席して、横谷が飯田に対し、一九時半頃一番線で」と話し、午後八時半頃小さな円陣を作り、喜屋武から飯田に質問し、飯田から「今日電車事故を起すから見張にも出てくれ」と話し、喜屋武から、質問し、午後九時頃、飯田が時間をきくと「九時だ」と答え、飯田が促し、外山が、被告人横谷、田代、清水、宮原、伊藤に声をかけて出かけ、喜屋武はうまくやつて来いよと声をかけ、横谷、外山が先頭に他の四人も続いて出て、外山が自転車を持ち、組合え行つたのは、横谷、伊藤、外山であつたということになるのである。しかしこの事実は、前記のように、七月十五日午後における本件共同犯行の共謀が証拠上確認できなかつたことを考え且原審がそれぞれ指摘しているような供述の変化がはげしいこと、曖昧なもの推測的なものを含んでいること等を考慮すると信憑力は弱いといわなければならぬ。
第三項 高相会議における本件共謀と中座に関する関係証人らの供述について。
この点については、原審判決が、その他の証拠について、(二)本件共謀に関する証拠について、A、七月十五日夜高相健二方の細胞会議における共謀と中座について、(判決一〇八丁以下)と題し詳細説明しているのであるが、a公判廷における証人の供述である(一)栗原照夫(二)黒川義直(三)金沢卓(四)大久保安三(五)李教舜(六)大谷忠弥(七)田口鉱二、吉本勤(八)金井健(九)高相健二(一〇)高相八千代(一一)小川仁(一二)篠和男の供述中(一)乃至(八)の証人のいづれも細胞会議の席上における本件共謀の事実を否定し、(九)、(一〇)の証人は中座の事実を否定していることは記録に徴し明かなところである。従つてここでは、右共謀事実及び中座の事実を否定した多数の証人があることを考慮しながら(一一)小川仁(一二)篠和男の各証言を検討すると共に、原審が公判前における証人らの供述として検討しているものの中、(一)証人栗原照夫については、反証として提出されたものを除外した(反証として提出されたものを犯罪事実の存否の資料として使用し得ないことは前記第三点で説明した通りであるから以下の証人らについても同じ)昭和二十四年八月三十日附、九月十四日附各証人尋問調書、九月四日附陳述調書(二)証人黒川義直については、昭和二十四年八月二十二日附及び同年九月六日附証人尋問調書(三)証人金沢卓については、昭和二十四年九月十日附証人尋問調書(四)証人大久保安三については、昭和二十四年九月十四日附証人尋問調書を検討することとする。而してこれ等の検討の結果と第二の比較対照の結果を更に比較検討という順序を追うこととする。
一、証人小川仁、同篠和男の公判廷における供述について。(判決第一〇九丁以下、控訴趣意書第六点第一の三の六、第三五七頁に関連)
(一) 証人小川仁の供述要旨は、原審が引用しているように、午後八時頃か八時半頃(或は九時一寸前)英語のプリントを取りに二階に上ると二階では会議をやつていた。何気なく見ると八人か九人位が六畳の間で円陣を作つていた。それから下りて店の間の後の土間の机で勉強していた。その最中後を通つて行く人の記憶がある。何人位でどこえ行つたかわからない。事故直後現場え行つてすぐかえるとその直後三、四名位が出て行つた。(事故後三、四分)。当夜自転車をどこに置いてあつたのか、誰かが持出したのかはつきりしない。初め私の後を通つた人の記憶があるといつたのは、これは私の後を人が通つた気配があつたと記憶している。
その後人が上つて行つた気配は全然記憶がないというのである。右の供述には原審の指摘するような曖昧さがあり、この供述だけから、被告人ら六名の中座の事実は引出せない。しかし中座の事実に関しては他の証拠と相俟つてこれを立証し得る程度の資料とはなり得る。従つてこの資料は独立、直接の証拠ではなく、間接、情況的な証拠価値を持つだけである。
(二) 証人篠和男の供述の要旨は、原審引用のように、本件事故発生当時露店商をしていて、高相健二方のはす向い約十米位(駅に反対)の処に店を出していた。事故発生前約二十分のとき、何の気なしに向うを見ると五、六人固つていて、露地の方から出て来たのを覚えている。何を持つていたかわからない。固つて人が出たのを始めて見たのであつて、路地から出てどこえ行つたのか知らないというのである。
この証言は右(一)の証人小川仁よりも有力な証拠であると見なければならない。しかしながら、右はやはり、証人小川仁の供述と同様本件共謀及び中座の事実に関する間接情況的な証拠にすぎないので、それだけで、その事実を立証し得ないばかりでなく、原審が指摘するような不確実さを持つことも否定できない。即ち、約十米離れたところから、「何気なく」見たため、注意が払はれていないため、五、六人の行動、持物(外山が自転車を持つていた事実)についても明確でないのである。
二、証人栗原照夫、黒川義直、金沢卓、大久保安三の公判前における供述について。(判決第一一〇丁以下、控訴趣意書第五点第二、第三一五頁以下)
(一) 証人栗原照夫の供述について。
証人栗原照夫の公判前における供述であつて、本件の犯罪事実認定の資料として使用し得るものは前記の各裁判官の訊問調書等だけであるから、反証として提出されたものを考慮しないで、右訊問調書等を検討することとする。
(1) 昭和二十四年八月三十日附証人尋問調書。(記録第二〇冊第七四丁以下)における供述の要旨は、原審が引用しているように(判決一一一丁以下)
「九時頃までは皆いたと思うが、事故のときには、横谷、外山、伊藤、宮原、清水、田代らは私が慌てていたためかその席にはいなかつた。それ故九時から事故発生までの間に出て行つたのかも知れない。事故直後には見ないのは事実である。何かぼんやりした中で、御苦労だとか、しつかりやつて来いという風な言葉を聞いたことを覚えている。それから考えて出て行つたのはそのときではないかと思はれる。そのときは事故の前である。」というにあつて、極めて漠然、曖眛としていて推測的に終始していて頗る信憑力が薄いといわなければならない。
(2) 続いて同年九月四日附陳述調書(偽証被疑者としての栗原の裁判官に対する供述調書、記録同冊第八五丁以下)では、「七月十五日夜高相会議の席から退席したものは、最初に横谷が「先に行くかな」とか「帰るかなあ」といいながら靴(鞄の誤記と認める)を持つて立上つて、階段の入口辺まで行つたとき、伊藤と宮原が「俺も行くから」と言つて喜屋武の前を通つて階段の下り口の方え行つたが、喜屋武の前を通るとき同人が「しつかりやつてくれ」とか「お願いします」とかいつていた。飯田も「御苦労さん」といつていた。それから五分位経つたと思う頃に清水と外山が一緒に立上つて「先に失礼する」とか「行く」とかいつて私の前を通つて階段の下り口の方に行き、飯田の横まで来たとき、飯田が、又「御苦労さん」と言葉をかけていたのを記憶する。田代は何時席を立つたのか気づかなかつたが、事故が起つたとき、同人は席にいなかつたことは間違ない。事故後第一に田代が高相の窓の下から大声で六三型の脱線だと叫んだのは間違ない。右五人が出て行つた時刻は九時頃であると思う。」と本件中座を述べ、大きな供述の変化があり、同証人が公判廷で、この事実を否定していることを併せ考えると直ちに信用し得るものとはいえない。
(3) 同年九月十四日附証人尋問調書(記録同冊第九〇丁以下)には、
「飯田が会議の途中、大体八時半頃休憩しようといつたので、私は閾に腰かけて煙草を飲んでいると、喜屋武と思うが、二畳にいた外山、清水に向いながら「キヤツプ(細胞責任者)と指導部はこちらに来てくれ」といつて、外山と清水は六畳の方に来て、飯田、金、田代、横谷、喜屋武、伊藤、宮原と共に小さくかたまつて何か相談を始めた。私は座りながら、小便から帰つて来た黒川、大久保(金沢も近くにいたと思う)らと雑談していた。かたまつた人達の話声がと切れと切れに聞え、横谷は「詳しい打合は大体して来た」というと、飯田が「御苦労さん」といつていた。外山の声で私が前に外山に話した「高田が検査する車は以前から計画的に悪戯がしてあるので、高田がそれを統計に取つているというから、こんなことも共産党の仕業だろう」というようなことや又「民同」とか「踏切」とか「転轍器」とか或は「運転不能」とかいう言葉を聞いた。相談は十五分位であつた。会議を再開し、元の席に戻り、雑談めいた話になつたとき、横谷が左右を振向いて「今何時か」と問うと宮原が九時一寸だと答えたと思う。すると横谷は「では先に行くかな」とか「帰る」とかいつたように思うが、出していたノート等を鞄に入れて立上り、一番最初に階段の方に行き、続いて、伊藤、宮原、清水、外山等も「一緒に行く」とか「帰る」とかいいながら、立上り、横谷の後から階段を下りて行つた。同人等が出て行く際喜屋武及び飯田から「しつかりやつてくれ」とか「御苦労さん」とか「お願いします」とかいつたことを記憶している。田代は何時席を立つたか気付かなかつたが、事故が起つたときには、同人が席にいなかつたことは間違ない。それから事故発生後田代が高相の窓下から大声で、六三型電車の脱線だと叫んだのは間違ない。従つて事故発生前に出て行つたものと思う。会合の席から、これ等の人が出て行つたのは、大体九時頃と思う。横谷らが出て行つた後、飯田が会議をやろうといつて続行したが、その後飯田が突然「今何時だ」と聞くと黒川が懐中時計を出して見て、「九時二十分」と答えると飯田が、「ぢやあ今二十分位やつて結論を出して切上げよう」といつたように記憶するが、二、三人が発言している中に三鷹の事故が発生した。」と詳細述べるに至つたが、なおかつ「鞄を持つ」たり「帰る」といつたりして、所論の計画にそわない事項が挿入されているし、(もしこれ等の者に秘しているならば高相における謀議の事実は根底から否定されるから)、<1>の供述、公判廷における供述と対比すると、このような詳細な供述に発展した同証人の心境、この供述前の黒川、大久保その他の証人らとの交通関係等に鑑み、その供述内容の真実性に疑問がある。
(二) 証人黒川義直の供述について。
(1) 昭和二十四年八月二十二日附証人尋問調書(記録第一九冊第二五七丁以下)には、
「私は八時頃大久保と二人で下に水を飲みに行き、帰つて来ると、先崎にすすめられてパンフレツトを買い、それを見ていた。八時半頃と思う頃三、四人位と思われる足音がして座を立つて行つた様である。多分水でも飲みに行つたと思つたが、帰つて来ないので、向い側に人がいないので、足をのばしたりした。向い側に清水、田代はいなかつた。但し、栗原は飯田と私の間に来ていた。その内激しい音がして地震かと思つたら、皆も立上つた。処が飯田は、皆んなが行つても仕方がないから、落着けといつたので、気をつけて見ると、その時に、清水、田代は勿論横谷、外山らはいなかつた。事故後に飛出したものか、事故前に飛出したものか、はつきりしない。一番先に出たのは宮原と記憶しているから、今いつた人はその時はすでに居なかつたというような気がする。飯田はもう遅いが、何時だろうといつたので、私は自分の時計を見ると九時〇二分であつたので、只今九時ですと答えた。飯田は遅いから、十五分か二十分やつて、お仕舞にしようといつた。宮原が報告に来たが、その前に窓の下で田代と横谷らしいのが、大きな声で六三型だと怒鳴つた。飯田はこれを聞いて、心配そうな顔をして、馬鹿だなあ、そんな大きな声を出してといつていたが、それから推測すると、横谷、田代、清水も会議中に出て居つたものと思われるので、或は八時半頃三、四人が下に降りるような足音を聞いたとき出たかも知れない。」というのであり、極めて漠然、曖昧、この中から共謀中座の事実を捕捉することは困難である。
然るに、
(2) 同年九月六日附証人訊問調書(記録同冊第二五一丁以下)では、
「同夜八時三十分頃と思うが、飯田、清水、外山、宮原、田代、横谷、最初からいた地区委員二名(内一名は喜屋武)、金某等が、六畳側に円陣を作り、何かこそこそ小声で協議をやつた。時間は十分か十五分位であつたと思う。伊藤は出席していたとすれば、横谷と田代の間辺りにいたかと思う。八時五十分頃円陣会議が終つた後数人の足音がして階段を下りて行つたことは間違ないが、その後飯田が時間を聞いた際自分の時計を見て、顔を上げて座を見たとき、外山と清水がいなかつたのは、はつきり判つたが、その他にも二、三人いないように思つた。事故が発生した瞬間に見た時に、横谷、田代らはいなかつたから、右の数人の足音がした際出て行つたものと思う。宮原については判然せず、飯田が時間を聞いたときまで傍にいたと思うが、何ともいえない。飯田が時間を聞いたときは九時二十分が本当と思う。飯田、横谷その他の人が円陣を作つての協議の際先崎は目の前でパンフレツトの整理をしていたと思う。結局会議中退席したものは、清水、横谷、田代は確実で、伊藤が会議に出ていたとすれば、同人も出て行つたと思う。」と(1)の供述に比較すると本件共謀及び中座の事実に関する稍前進した供述に発展しているが、その供述自身に曖昧な点があるばかりでなく公判廷における供述とも併せ考えると疑問となる点が多々あるといわなければならぬ。
(三) 証人金沢卓の供述について。
同人の昭和二十四年九月十日附証人尋問調書(記録第一九冊第二六六丁)には、
「九時頃小便に立つた当時までは皆いたように思う。小便からかえり元の座席にかえり、宣伝ビラやパンフレツトを見ていたが、その頃、六畳間で何か話合つていたが、前より静かなような感じであつた。その後に誰が出て行つたかどうもはつきりしない。パンフレツトを読み続けていると、突然大音響を聞き、同時に稲妻みたいな光が出たので、驚いて首を上げると、正面の飯田のいたのは判つたが、その他ははつきりしない。先程小便から帰つたときよりも人々の数が幾分少いような感じがした。これは私が立上つて窓の方を見る瞬間の感じである。会議していた人が皆いたとはいえない。尚自分は十五六分後にその部屋を出たと思つているが、そのとき、飯田外五、六名しかいなかつたのは間違ない。それから、私が窓の方に立上つた頃、同席の誰かが、「やつたな」「六三型だろう。」という声も聞いた。そして一番先に二階の席から出て行つたのは先崎だつたと思う。事故当時飯田は立つて外を見ていたようにも思はない。元の席の近くに座つていて、皆落着いて、審議しようといつた。それで自分の席にかえると、横谷や伊藤の居ないことは判つた。出て行つたのは事故後か前かが判然しない。時間を聞き又それに答えたと言う感じはあるが、誰が返事したか判らぬが、私が小便から帰つて来た後事故発生前のことである。時間が何分かという点については覚えていない。」というにあつて、これまた極めて、漠然曖昧としていて、到底、本件謀議及び中座の証拠とするに足りないことが明瞭である。
(四) 証人大久保安三の供述について。
同人の昭和二十四年九月十四日附証人尋問調書(記録第一九冊、第二七五丁以下)には、
「八時半頃、私と黒川が下に降りて水を飲み小便をして席に帰つたが、その外にも誰か一人下に降りて又上つて来たようである。パンフレツトを見ていて、会議は休みのようになつていた。栗原は黒川の近くの少し高くなつている閾に座つて煙草を吸つていたように思う。清水と外山が六畳の方にいるのを見たが、飯田、金、喜屋武、田代、横谷、伊藤、宮原らが少し席を前に出て、円い形にかたまり、何か話をしていた。内容は注意していないのでわからぬ。私や栗原、黒川はその話の中に入らず、パンフレツトを見たり、雑談したりしていた。先崎はパンフレツトの金を整理していたようだつた。金沢のことは余り記憶がない。(以上円い形になつて話合をした点)。相談していた時間は判然しないが、二十分はかかつていないように思う。相談の終る前後かどうかははつきりしないが、飯田が「今何時か」と聞いたように思う。すると誰からか、九時とか九時少し過ぎとか返事したように思う。この時間の問答があつてから間もなく、私の後の階段を下りて行く数人の足音のような気配を覚えている。それから座は雑談らしい風であつたが、パンフレツトを読むのをやめて、座を見ると、さつき相談していた人の内、外山、田代、清水、伊藤、横谷の姿が見えなかつたように覚えている。さつき聞いた数人の足音から考えて、そのときこの人達が出て行つたと思つた。宮原については記憶がない。私が外山、横谷らのいないのに気がついてから暫くして雑談中事故が起つた。その間時間がどの位かはつきりしない。なお時間の点については、飯田が時間をきいた時は九時二十分という者もあるように言つたこともあるが、判然しないが、時間の問答と事故の発生までは相当あつたように思うので、飯田の聞いた時間は九時か九時一寸過であつたと思う。(以上中座の点)」というにあつて、会議の内容は全然不明確であり、中座の点については一応述べてはいるが、すべて推測的で明確ではない。
以上の各証人等の供述を綜合的に観察すると、
(一) 同証人等はいづれも七月十五日夜の高相会議に列席して、会議の経過を自ら実験しているに拘らず、その供述するところは漠然としており、推測的事実が多く、いづれの証人も後に供述を変更した部分を除外すれば、本件共謀の事実及びこれに基づく中座の事実を明確に述べていない。却つて供述の中に前記のように否定的なものを僅かながら包含している。これを公判における同人らの供述と対比すると、本件高相会議における共謀とこれに基づく中座の事実は極めて疑はしく、むしろこのような事実がなかつたのではないかとの推定すら生じて来るのである。即ち若し本件共謀及び中座が行はれたとするならば、自ら、実験したものから、明確な資料が得られるものと考えられるからである。
(二) 右証人の中最初の供述を訂正した者は栗原照夫と黒川義直であるが、栗原については偽証被疑者として勾留尋問された際以後に供述の変化がある点を注意すべきである。尚証人黒川義直の第二回目の供述も共謀事実についての内容が明確でないばかりでなく、中座の事実にすら、推測的事項が多くなつている。
次にこれ等の証人の供述に関する所論を検討することとする。所論の中、大谷忠弥、田口鉱二、李教舜に関する部分は、前記第三点で説明した通り、反証として提出された供述調書で、犯罪事実の存否に関する証拠として使用できないものであるから、当裁判所においては、これ等の供述調書に対する犯罪事実の存否に関する証拠としての検討を加えないこととする。証人栗原照夫、黒川義直、金沢卓、大久保安三、大谷忠弥、田口鉱二、李教舜の中金沢卓を除いて、当時共産党員であり、栗原、黒川、大久保が三鷹電車細胞に所属し、金沢は共産党に興味を感じていたものであり、大谷、田口、李等が共産党三鷹町委員会の委員であつて、三鷹電車区細胞の上級機関であり、共に国鉄の人員整理反対闘争に従事していたもので、いづれも被告人らに好意と同情を惜しまない立場にあつて、かかる立場に立つ者が、なるべく公判廷において、被告人らに不利益な供述をしたくないとの感情を持つことは否定できないところであることは認められる。しかしそれだからといつて直ちに公判廷において故意に事実に反した供述を為すものと判断するのは早計であとるいわなければならない。これ等の証人は、検察官の反対尋問にさらされることによつて、仮にそのような感情を以て法廷に臨んだ場合でも、その供述を充分吟味し、真実を述べさせ得る可能性が十分あるからである。
同証人らの公判廷における供述が、所論のように矛盾撞着に充ちているかどうかについて、調査すると、証人黒川義直(記録第一八冊第三二丁以下)、同金沢卓(同冊第一三三丁以下)、大久保安三(同冊第二三一丁以下)、同栗原照夫(記録第一九冊第一丁以下)、同田口鉱二(記録第二〇冊第二七四丁以下)、同大谷忠弥(記録第二一冊四丁以下)、同李教舜(記録同冊第三五丁以下)を精査しても、特に矛盾撞着に充ちているとも認められないから、公判廷におけるこれ等の証人の供述が直ちに措信し得ないものとして排斥することもできないのである。従つて前記証人栗原照夫ら四名の公判前における前記各供述と右公判廷における各証人の供述とは充分に検討調査の上その信憑力を決定しなければならない。
次に、証人栗原照夫に対する最初の重要な供述が八王子少年刑務所で行はれたことが、同人が当時偽証被疑者として同所に拘禁中であつたことと直接影響があつたかどうかを検討すると、このような事実が、抽象的には検事に迎合する可能性を含むことも承認されるし、所論のように、具体的には直接に影響がない場合もあり得るので、事柄自体についてはいづれとも決することができず、結局当該場合の各種の情況を参酌して、そのいづれであるかを決定しなければならない。同証人は前記公判廷における供述でも明かなように、当初本件共謀並に中座の事実はないと否定していたのであるが、前記(一)の<2>の供述をした後偽証被疑者として前記刑務所に勾留されるに及んでその勾留尋問の際の<2>の陳述調書以後これを変更訂正したのであるから、右拘禁の間接的な影響を見逃し得ないものがあるものと認められるから、たとえ所論のような施設であり、その取調に所論のような注意が加えられたとしてもその影響が絶無であつたとの認定もできないのである。
次に、所論援用の各反証として提出された証拠はいづれも、前記第三点において判断した通り、犯罪事実の存否の判断に用いることができないので、ここではその判断をしない。(各証人の公判廷における証言の信憑力を判断する資料としては勿論これを調査したが、前記証人らの公判廷における供述の信憑力を否定することはできなかつた。)
以上説明した一、の証人小川仁、同篠和男、二、の証人栗原照夫、黒川義直、金沢卓、大久保安三の公判廷並に公判前の供述、証人李教舜、大谷忠弥、田口鉱二、吉本勤、金井健、高相健二、高相八千代の各公判廷における供述を綜合すると本件共謀の事実及び中座の事実に関する証拠は部分的断片的には存在するが、これに反する否定的な証拠も多数存在し、結果本件共謀及び中座の事実を確認し得る有力な証拠は存在しないことに帰する。
第四項 七月十五日夜高相会議における謀議の成立及び中座に対する判断
以上第一乃至第三において検討した結論と既に七月十五日午後における謀議の成立に関する判断とを綜合すると結局本件高相会議における謀議の成立及び中座はこれを確認することはできない。即ち証拠上証拠不充分の場合に該当する。
一、この点に関する被告人横谷及び同伊藤の供述は、第一、に説明した通り、曖昧であり、矛盾があり、本質的な供述の変更があつて、各被告人について一応取まとめられた供述は、信憑力が薄弱である。
二、各被告人の供述相互間にある程度の矛盾があり、これをいづれかに統一して得られた内容はやはり信憑力が弱い。
三、関係証人らの公判廷及び公判廷外の供述中には、間接又は情況証拠となり得るもの或は信憑力の弱い証拠はあるが、これを綜合しても本件共謀並に中座の事実を確認するに足る程有力なものはない。
四、前に判断した七月十五日午後における共謀の成立を確認するに足らないことは本件共謀並に中座の事実の否定的な重要資料となる。
以上の各資料を綜合判断すると、前記のように証明不十分という結論に到達せざるを得ないのである。
第四款 七月十五日午後九時頃被告人竹内が自宅を出るときの決意とその後の変更
8 七月十五日午後九時頃に被告人竹内が自宅を出るときの決意とその後の変更について。(控訴趣意書第五点第一の一の(三)第二三〇頁以下判決第四一丁以下)この点に関する原審の説明は、被告人竹内の<1>乃至<4>の供述を検討し、
「これ等の供述は一貫して、竹内が自宅を出るときに入庫電車の制動管ゴムホースを切断する決意のもとに、ナイフを持参したことを明かにしている。これは供述の一貫しているところから見るも、真実を述べたものと解される。しからば竹内の決意と横谷との協議によつて承諾した一番線の脱線計画との関係はいかに説明さるべきであろうか。<1>の供述では、竹内は横谷から「今晩やろう。後に判然したことを話すが、九時頃云々」といわれたままで、その後両者の間に事件について打合がなく、直ちに本件の実行に移つたことになつているので、この点の供述は必ずしも竹内のゴムホース切断の決意に関する供述と矛盾はしないが、それだけかえつてこの供述における竹内横谷の協議の内容が極めて本件と関係の薄いことを物語るものである。<2>以下の調書ではすべて「今夜九時頃一番線にした」ことが竹内と横谷の間に決定されていることになつていてしかもこの計画が、竹内横谷の間に限らず、他の被告人たちを加えての上なされているとすれば、竹内としては一旦決定された計画を自分一個の意思で変更することは容易な業ではない。しかるに竹内は余りこの計画の決定について考慮を払つていない。いよいよ自宅を出て犯行現場え向うときの心理状態はこの計画を全然無視して、自分単独で電車制動管のゴムホースを切断しようというのである。これは明かに一旦停止における脱線計画と重大な矛盾があるといわなければならない。しかも制動管ゴムホースを切断する決意を語るこの辺の敍述は、竹内が単独犯行を述べたときの敍述と同じであつて、どう見ても共同犯行に参加する決意であることが明白に出ていない。また制動管ゴムホースを切断する決意を変更して、一番線の電車の脱線計画の方向に決定した事情についても<1>「やはり前から話のあつた一旦停止の辺りの脱線が一番簡単であると考え」<2>「昼間考えていたように、一番線の電車を動かして脱線させる方が簡単だと考え」<3>「約束の一番線へ」として、いずれもさきに決定された計画を重んずる趣旨ではなく、竹内自身の立場において比較した結果脱線の方がよいとされたに過ぎない。これではさきに決定された脱線計画というものが、果して存在したのかどうかをも疑わしめるに十分である。竹内が自宅を出るとき制動管ゴムホース切断と一旦停止での脱線のいずれがよいか、意思を決定しないままであつたといいながら、ナイフを持参したことを述べしかもどちらに意思を決定したかは重要であるのに、その間の消息を全然省略し、後に触れるように脱線の方の準備行為に出ている。この供述は、これまでのすべての供述に相背反する特異なものであつて、竹内の意思に動揺しながらも本件の脱線計画を継続的に結びつけようとする牽強附会な趣旨がうかがわれる。以上の理由によつて、電車制動管のゴムホース切断の決意を変更して共謀した脱線計画によつたとする供述をとうていそのまま措信することはできない。」というのである。この点に関する所論を検討するに、所論の昭和二十四年九月五日附供述調書(記録第二五冊第五四七丁以下)に「家を出るときは平素持合せているナイフで電車の貫通制動機を切断して云々」との記載、所論の十月十四日附上申書(記録同冊第六〇〇丁以下)に「私は、いつも夏制服ズボンのポケツトえ鉛筆削りの為の小さな海軍ナイフを入れて置きましたので、家を出るときは構内各番線の「上り側」に入つている編成の貫通制動管のゴムホースを切ろうと思いましたが云々」との記載、所論の証人訊問調書(記録第二三冊第一三九丁以下)には「私は自分だけの考えでは貫通制動機のホースを切断すれば入庫している電車は全部動かなくなるから、此の方法がいいかとも思つたが、又考え直して横谷の云う様に一旦停止で脱線させた方がいいかと思い乍ら海軍ナイフを一つポケツトに入れて行つたが云々」との記載があり、これを綜合してもナイフ所持に関して所論のように供述が二転三転しているとも認め難く、同被告人の供述の要点はナイフで貫通制動機のゴムホースを切断しようと思つていた点にあるのであり、特にナイフをその目的のために持出したとの趣旨には解し難い。同被告人のゴムホース切断の決意が同被告人の一時の思い付或は弁解に過ぎないとの所論についても、同被告人が入庫車輛の多数なこと、単独でゴムホース全部を切断することの不可能であることを知悉していたとは考えられ、闘争手段としてゴムホース切断による電車の妨害について話題が出なかつたこと、同被告人所持のナイフが鉛筆削用ナイフであつたことは右に引用した記載その他記録によつて認められるところであるが原審が説明しているように制動管ゴムホースの切断を一時的にもせよ考えたことについては被告人竹内の単独犯行並に共同犯行の供述全部に通じて一貫して認められるところであり、たとえ右のような事情があつたとしてもゴムホース切断をも考えながら家を出たという事実があり得ないことでもないのであり、鉛筆削用ナイフが鋭利でなくとも、制動管ゴムホースを切断するに不可能であるとも見られないのである。加之この点に関する同被告人の供述を検討すると、原審説明のように、横谷と協議したという一番線の一旦停止辺の脱線との結び付が極めて薄弱になつて来ることを否定できない。結局同被告人のこの点に関する供述は後の現場に臨んでからの行動に関する供述と共に、横谷との間の協議及びその実行に関する証拠として極めて、その信憑性が薄いものというべきである。
第五款 本件犯行の見張
9 本件犯行の見張について。(控訴趣意書第五点第三の(四)及び(五)第二九三頁以下第二九七丁以下判決第七九丁以下)この点に関し、原審は、被告人伊藤の<1>乃至<8>の供述を比較検討し次のように説明している。
「以上七月十五日夜高相健二方から出発した後の行動に関する伊藤の供述は重要な点についてたびたび変更されている。初め<1>の供述で、伊藤は三鷹駅寄り欅橋踏切信号所附近にとどまり、電車の発進を目撃したといい次に<2>以下の供述は更に前進して、一番線の電車附近にまで赴き、戻つて電車区寄り踏切(堀合)附近で電車の発進を目撃したと述べている。このことは同時に他の被告人たちの行動に対する供述の信憑力に密接な繋りを持つ。<1>の供述では外山、横谷、清水は先行し、田代、宮原、伊藤は後になり、そのうち伊藤は駅寄りに最も近い前述の所に立ちどまり、宮原はその先の電車区寄り踏切附近に徘徊し、田代は更に西方に歩んだことになつていたが<2>以下の供述では、外山、横谷が先になり、清水がこれに続き、田代、宮原、伊藤は後れて前後して歩き(但し<4><5>の供述では清水に追いついて一しよになり、組合事務所の方で横谷、外山、更にこれを追つて清水が構内え行き、田代、宮原、伊藤も構内え行き外山は一番線電車先頭車運転台脇に立ち、横谷、竹内はその運転台にいたと述べ、また零番線東側に清水(<2>)清水と思われる者(<3><4>)又は一番線から三、四十米離れた北側に清水(<5>)がおり、田代か宮原か不明だが一番線の後の方から前頭車に進むようであつた(<2><3><4><5>も来たようである)と述べている。
最も問題なのは伊藤自身の行動に関する点である。これは犯行現場における見張の行為と解するに相応しい行動であろうか。この点につき注意すべきは<1>の供述である。ここで横谷は「伊藤さんたち見てて、飯田さんに話してくれよ。おれたちは先に行くから」という趣旨の言葉を述べたというが、この「見る」ということは同じ供述にあらわれている「脱線の模様を確める」ことであると解するのが相当である。なぜなればここには見張という言葉はいささかも述べられていないし、伊藤、宮原、田代たちの間に連絡の話が打ち合わされた形迹が見当らないからである。しかるに<3>、<4>、<5>の供述では「伊藤さんたち見張をして飯田さんにいつてくれ、おれらは先に行くから」と述べて「電車のある現場まで行かなければならない」(<3>)と考えた。ここに「見る」と「見張る」の言葉の違いが、実際の行動を全然正反対に拘束している。しかし、伊藤が一番線の電車附近にまで行動した迹を見ると、そこには挙動不審であると第三者から論難されるおそれか多分にある。もし構内一番線の電車発信場所から脱線を生ずると予定された一旦停止附近を直接見渡せる電車区寄り踏切附近の場所までがその見張の行動圏であつたとするには、余りにも広汎に失し、見張の目的を実現するとはいい難い。しかもその間において、犯行の発覚を防ぎ、又は犯行の発覚を速報するため、実行者の竹内、横谷又は同じ見張に従事したといわれる外山その他の者と連絡を遂げ又は連絡の出来る態勢を執つた様子がない。これを以て見張とするにはまことに奇怪な行動だと云えよう。更に「多分竹内に頼んであるが、実際に竹内が一番線に来ているかどうか心配だつたので」外山、横谷たちは出かけて行つたものと想うという供述(<8>)から推察すれば、伊藤は同人らの行動をよく理解するだけの意思の連絡を欠いていたということができる。これが電車事故の発生を企てた現場附近における伊藤の行動というのである。かくして伊藤がいかなる意図に基いて高相方を出て、現場附近で行動をなしたかは全く不明という外はない。
もつとも伊藤の供述中には、実際に体験した者でなければ、供述することのできない部分が見出される。
たとえば「一番線と零番線の間のケーブル線を埋めたコンクリートの上を歩いて一番線電車の先頭の方に行つた」<4>「南側遮断機より三米手前まで来たときこの遮断機が降りかかつたので、その下をくぐり抜け、五、六歩駅寄りに歩き」(<6>)「私は進駐軍だなとひとりごとをいつて」(<2>)の言葉がそれである。しかしながら、これも長年電車区に勤務してその地形、状況を熟知した伊藤としては、事故当日電車発進現場でこれを体験しなくとも、言葉に出せる表現であるといえるから、これを以て他の伊藤の供述の真実性を裏ずけるものとはいい難い。」というにあるのである。
この点に関する所論を見ると、被告人伊藤が当初本件について第三者的態度を以て供述していたことは原審も説明するところであり、本件は当初から重大犯罪として計画されたものでないと見得る可能性のあることは既に屡々説明した通りであるから、特別の場合においては、興味本位に漫然と所謂見に行つた程度であることも考えられないこともないのであるが、それにもかかわらずやはり、共同謀議によつて電車事故を計画する以上は、その成功を確保するため秘密裡に事を運びその発覚を防ぐため、見張の計画を立て、見張場所の分担を定め、発覚の危険ある場合の通報方法を事前或は現場に至るまでに打合せるのを通常とするのであるから、原審の説明には十分の根拠があり、結局この点に関する伊藤の供述の信憑力は、供述の度々の変更と併せて、極めて低いものであるといわなければならない。
次に、被告人伊藤が体験しなければ供述出来ない事項について供述していることに関する所論を見るに、所論のようにこのような事項は犯罪の成否に関係ない事項ではあるが、虚偽の事実をのべる場合に、一旦述べた虚偽の供述を維持するためには他の機会に経験した真実の事実をも併せて述べこれを合理化することも被告人心理として絶無ではないのであるから、原審の説明は不当とはいえない。その他所論の運転台における被告人竹内、横谷の行動、外山、清水の位置、会議における発言等は体験しなくもあるいは想像により、我は伝聞により、或は別の機会の他人の言葉を援用する等のことが被告人心理として絶無でないから、この点だけから、供述の信憑力を全面的に導き出すことはできない。
第六款 本件犯行現場における被告人らの行動
10 本件事故電車発信現場の模様について。(控訴趣意書第五点第一の二の(五)第二七三頁以下判決第六〇丁以下)
11 被告人竹内が本件事故電車の運転台に上るまでの行動について。(控訴趣意書第五点第一の一の(四)第二三六頁以下判決第四三丁以下)
12 本件事故電車の運転台における被告人竹内、横谷の行動について。(控訴趣意書第五点第一の一の(五)第二四六頁以下判決第四八丁以下)
13 運転台を下りた後自宅に帰るまでの被告人竹内の行動について。(控訴趣意書第五点第一の一の(六)第二四九頁以下判決第四八丁以下)
14 本件事故発生後の被告人竹内の行動について。(控訴趣意書第五点第一の一の(七)第二五三頁以下判決第五一丁以下)
10の点に関し、原審は被告人横谷の<1>乃至<5>の供述を検討し
「まず問題となる点は、なぜ横谷が真先に一番線え出向いたかの点である。<1>の供述では外山に促されたことになつているが、その他の供述では審かでない。<1>の供述では、すでに述べたように、何の仕事を担当するのかも知らないで、高相方を出た横谷としては、同じ中座した人たちに随行した形でありながら、ここでは積極的に行動する形に一変している。しかし横谷が外の同行した人たちとどう連絡し、また竹内にどう協力しようというのであろうか。その意図は全然わからないで、外山にいわれるままに漫然と出向いたことになるのである。
次は横谷が運転台に上つた点である。運転台に上つた事情について<1>の供述は竹内が運転台にいるので、万事わかつていることだから上つたといい、<2><3>の供述は明確でなく、<4>の供述では、竹内が運転台に見えたので、外山に命ぜられたわけでなく、上つたことになり、<5>の供述では運転台に近ずいて見ると中にいるのは竹内らしいので、中に入つたといい、同じくまた、竹内が運転台にいるので、何気なく上つたとなつている。ここに見られる横谷の行動は、これまた一定の計画、意慾にもとずいてなしたのではなく、ただ竹内が運転台にいるので漫然と上つている。しかしこれは他の場合と異り横谷の行動の決定的変更を意味し、同時にすでに定められた被告人たちの計画の重大な修正を意味する。横谷が運転台に上つて実行に加担し、竹内の行動を阻害しないとは保障する限りでない。したがつてこの点から見れば、横谷が運転台に上つた行為は軽卒な行為と見ることができる。
次は運転台における竹内、横谷の行動についてである。との供述によつても両名が発進操作について協議を遂げ、または竹内が自分の行為を横谷に説明した状況が見当らない。その上、両名の具体的行動が審かでない。竹内についていえば<1><4>の供述では竹内がノツチをいじつている、又コントローラーをいじつているというだけで、<5>の供述では竹内がノツチの前に立つて何かやつていたようで、その後準備をしていたということを示すのみである。<2><3>の供述に至つては竹内が単に運転台の左側、又は左隅のノツチの前に立つていることに触れているだけである。他方横谷については、別に自主的に竹内に協力しようとしている様子がどの供述からも見られない。<4><5>の供述に見られるM・Gやコンプのスイツチに手を触れたことも深い意味がないことになつており、一体横谷は運転台の中でどうしようというのか甚だ不可解である。ただどの供述にも、横谷がパンタグラフの上げ紐を引いたことが挙げられているが、これも竹内にいわれて行つたことに過ぎない。のみならず、<2>の供述に「パンを引けといつた声はたしかに聞き覚えのある竹内の声でした。」と念を押しているのも、前後の供述の模様から不自然の響きを与える。狭い運転室内で両名以外に誰も入つた形迹がないのに、このような混同を避ける意味のことを供述したことは、余りにも竹内の行為を浮き出させるための如くであつて不自然である。
次は運転台を飛び下りた模様について、竹内が横谷の後に続いたように述べているのは<1><3>の供述であるが、その他の供述ではこの点に触れていない。
更に他に見張に出たという被告人たちの行為についてである。<1>の供述では抽象的にその見張が推測されているが、<2><3>の供述では何も語つていない。<4><5>の供述で外山と伊藤が運転台附近にいたことを確認し、田代、清水はわずかに<4>の供述で同じく推測されている。しかし同人たちが立つているだけで、いかなる意味でそこにいるのか、その状態から判断することができない。」というのであり、
11の点に関する原審の説明は、被告人竹内の<1>乃至<4>の供述を検討した後、
「これ等の供述を検討すると前の<1><2>の供述では、竹内が単独で運転台に上つたことになるが、後の<3><4>の供述では竹内が、横谷、外山、清水に会つて、その後上つた順序は違うが、竹内と横谷が運転台に前後して上つたことになる。いやしくも共謀による電車の脱線事故を考えた以上、その電車の運転台に単独で上つたかどうかは重要な問題である。しかるにこの点につき相反する供述がなされていることは致命的欠陥といわねばならない。
<1><2>の供述では、これまで述べた単独犯行の自供とほぼ同様の発進現場における行動を表わしている。殊に<2>の供述においては一番線の電車に執着した行動はいささかも見受けられない。もし既に横谷と竹内の間に一番線の電車を脱線させることが決定されているならば、何も好んで「三番線の電車を脱線させる方が転轍が複雑だと思つたので」それを検査したり、二番線の電車の方え行こうとする筈がない。百歩譲つて、これは一番線電車の故障の万一の場合を慮つての行動であると解するとしても、その行動自体に横谷その他の被告人たちと連絡を考慮した模様がない。単独で本件犯行の準備を現場附近で整え、しかも横谷その他の被告人を待つことなく、単独で運転台に上つている。誠に共同犯行に参加する者の行動としてはとうてい理解し兼ねるところである。
次に<3>の供述では、竹内、横谷が一番線先頭車附近で運転台に上る前に会つたことになるが、肝心な犯行の方法については未だに協議された形迹が見られない。竹内は依然として自分の意思通りに行動し、発進操作に用いる道具を一人で集めている。横谷は一体いかなる方法によつて実行しようとしているのか、その態度は一片の強がりを示しているだけで、その他には積極的に竹内に協力する片鱗すら見られない。また竹内は外山、清水に会つたというが、竹内は外山、清水がこの現場に臨んでいるのをいかに解したであろうか。<3>の供述によれば、外山、清水が、竹内、横谷と行動を共にし又はその援助をすることを竹内が予見した模様もなければ、いわんやそのように何人かに打ち開けられたこともない。普通なら竹内は外山、清水を見て驚くはずであり、又横谷から聞くか、外山、清水と意思の疏通をあらわす言動を取るであろう。ところがこの供述には全然それが見られず、外山、清水が接近していることを当然視しているかのような供述は不自然であろう。しかも外山自身の行動はこの供述では、はつきりしていないのである。
<4>の供述はこれまでの疑問をやや解決しているように見える。前の供述との細かい点の相違は別として、ここでは最も重大な犯行の方法について協議のあつたことが明示されている。この協議を遂げることは共同犯行をする以上当然であるが、ただこの場合横谷と「ハンドルを縛る方法等」を協議したことは、実際上その意味を持つた様子がなかつた。もし具体的にコント・ローラーハンドルを縛る方法が協議されたなら、その後の運転台の行動にそれが直ちにあらわれなければならないが、実際は次に触れるように両名の行動がばらばらに分れてしまつたことになつている。したがつてこの協議の点もこれまでに見られたように、この証人訊問調書の特別の性格を表明したものというべきであつて、その供述はこれを措信することはできない。また外山、田代の行動も、一応えがかれているが、それは推測的にとどまつていて、その他の部分と異ることも注意しなければならない。」というのであり、
12の点に関する原審の説明は、被告人竹内の<1><4>の供述を検討し、
「右の各供述を通じて察知されることは、本件事故電車の運転台における竹内、横谷両名の行動が一致した態勢を示していないことである。最初竹内がコントローラー・ハンドルを操作しているとき、横谷がこれと無関係に配電盤等を調べていることは、たとい<1>乃至<3>の供述では発進方法を協議しなかつたにせよ、共同実行の実を挙げるものとはいえない。その上短時間内に操作を完了しなければならないときである。また<4>の供述では、ハンドルを縛る方法等を協議した後であるのに、これまでと同様に別個の行動をとつていることは不可解である。次に横谷がみずからコントローラー・ハンドルに紐を縛るときの模様についても、<2>の供述を除き、その間竹内がこれに協力している形迹が見えない。しかも<2>の供述で、竹内がハンドルを動かして、三ノツチ辺までやつたといつた点は、<3>の供述で横谷自身がハンドルに手を出したように変更され、<2>の供述をそのまま支持することができない。なお<1><2>の供述によれば、横谷が逆転レバーの紐を二度ほど掛けて失敗したことになるが、当裁判所の昭和二十五年五月二日附検証調書の記載により明かなように、本件先頭車の同一のコントローラーを使用して実験したところ、一回で逆転レバーに掛けて成功し、むしろ回路電線に掛けてするより容易に緊縛できる点からみて、右の供述が単なる想像に過ぎないことを知ることができる。更に続く竹内のコントローラー・ハンドルに関する行動もまた、<3>の供述を除き、横谷の協力を受けた模様がない。しかも<3>の供述で横谷がハンドルをおさえていたようになつている点は、<4>の供述の中には全然見られないのであつて、これまた容易に措信することができない。またパンタグラフの上紐を引いた点もどの供述をもつてするも結局竹内がみずから引いたことになつている。
以上の事情から、本件事故電車の運転台における竹内、横谷の共同実行を示した竹内の供述はこれを真実のものとは認め難い。」というのであり、
13の点に関する原審の説明は、被告人竹内の<1>乃至<4>の供述を比較検討した後
「まずこれらの供述を通じて、横谷が運転台を下りたときの状態が明白でない。横谷が運転台から下りたことについて、<1><2>の供述では竹内の直後となつているが<3>の供述では知らないとされ、<4>の供述では続いて出たように思うと推測されている。しかしその後の横谷の行動は全然不明である。わずかに<2>の供述で横谷が外山、清水と同行したのであろうと想像されるだけである。運転台を飛び下りるときの状態は、次に触れるように、外山らがすぐ本件電車附近にいたとされるにかかわらず、蜘蛛の子を散らすような風である。これはたとい竹内が当時昂奮状態にあつたとするにせよ、他の部分に関する模様と比較して、著しく、供述の欠陥を示すものといえよう。
次は竹内が飛び下りたとき附近にいたという者が果して外山、清水であつたかどうかの点である。<1><2>の供述では、二人が運転台前方に間隔を置いていたとして、これを外山と清水に推測しているが、<3>の供述では明確に外山がいたと断定する反面、清水に関しては全然触れられていない。<4>の供述に至つては、全然その二人を見ていない。かえつてこの場合はさきに述べたように、竹内が運転台に入つた頃に外山と清水がいたように推測し、両名の行動を一層積極的に示している。この支離滅裂とでもいうべき供述によつて、外山、清水が本件事故電車附近にいたことを認めることは困難である。
次は犯行現場附近に田代がいたかどうかの点である。<1>の供述では、一番線ストツプ北側の本線のところにいた二人のうち一人が誰であるかを明かにしないが、続く十月十五日附上申書ではこれを補足して田代と推測している。<3>の供述では全然その事実に触れていない。しかも田代と推定した理由として、その声が田代に似ている点を挙げている。これだけの供述で現場附近に田代がいたと認めることはできない。
なおこれらの供述から伊藤が現場附近にいたことを推認させるような事実は見られない。わずかに、十月十六日附供述調書に、伊藤か又は田代の存在を導くかのように、「私は運転台でコントローラーを結えているとき、左前方に人が立つていたような気がします、しかしこれは今考えて見るとそのような気がするので、そのときは余り気にもしなかつたものと思います。」と供述しているが、これは犯行当時ではなく取調当時遡つて想像したことであつて証拠としての価値は認められない。」というのであり、
14の点に関する原審の説明は、被告人竹内の供述を検討して、
「もし飯田たちがこの企てた計画を竹内に実行させて、その意外な結果を生じたとするなら、飯田が事故発生後初めて竹内に会つたときの態度は異常でなければならない。ところがこの供述では全くその模様がない。「アリバイをはつきりさせておけ」といつたことが事実であるとしても、当時すでに共産党員たちが本件犯行を実行したのであろうと宣伝されていた事実――これは当公廷における被告人たちの供述によつても明白である。――からみれば、別に意とするに当らない。しかも竹内は外数名と共に飯田のこの言葉を聞いているだけであつて、飯田との間に事後の処置につき協議した形迹もなく、いわんや竹内に本件犯行を依頼したという横谷及び電車の発進現場附近にいたという外山、清水又は田代と協議したことも見られない。かえつて七月十六日三鷹駅前の朝連事務所に開かれた会合に竹内が関係したかどうかの点について、竹内の記憶がはつきりしていないようになつているが、この供述は竹内が共同犯行に参加した以上この会合に参加して事後の対策を講じないのはおかしいと見られたためになされたのであろう。しかしこれまた右朝連事務所における会合に参加した者たちの当公廷におけるすべての供述によるも、竹内がこれに参加したことは認められない。
この打合が明確に認められないことは竹内の共同犯行に関する供述が真実を述べたものと認め難い一つの事情といえる。」というのである。
以上10乃至14の項目について検察官の所論を順次検討し、原審説明の当否を判断し、各供述の信憑力を評価することとする。
一、10の点に関する被告人横谷の供述について。
被告人横谷の供述中に同被告人が、他の被告人らの先頭に立つて組合事務所に急ぎ、下駄を靴に履きかえ、作業服を着、外山にいわれて現場に臨んだと述べていることは所論の通りであるから後から来た被告人らと現場で会つた場合の外、その行動の詳細を知り得ないこと、被告人横谷が電車運転台に上つた理由が明白ではないが、何気なく上ることも絶無ではないので上つたことから直ちに「計画の重大な修正」をもたらすものと考えられない場合もあることはいずれも所論の通りである。しかしながら、被告人横谷の供述は、検察官も自認するように、自白が不徹底であつたのであるから、曖昧な点を多々存し、それ自体信憑力が薄弱であるといわねばならない。即ち原審が説明しているように、同被告人が、
(イ)どのような理由又は仕事の分担を以て真先に一番線に行つたか、
(ロ)なぜ運転台に上つたか、
等の点については、極めて漠然としており、供述相互間に可成りの不一致があり、多くの事項について推測的に供述しているに過ぎないからである。
二、11の点に関する被告人竹内の供述について。
所論を検討すると、
(イ)電車発進現場で、被告人竹内が主として行動することは不自然でないにしても、運転台に単独で上つたかどうかについて相反する供述があることは、相当重大な点であつて、竹内がたとえ興奮焦慮の裡に行動したとしても、この点の記憶がはつきりしないということは考えられないことである。刑事責任に軽重ありと考えて虚偽の供述を行つたとの事実も記録によつて確認できないところであり、いやしくも共同犯行を認める以上は横谷と共に運転台に上つたことをかくしておく必要は特に認められないのである。従つてこの点の供述の矛盾と変化は同被告人の供述の信憑力を薄弱ならしめるものといわなければならない。
(ロ)本件共同犯行の計画には一番線の電車ということが一つの要点になつている。勿論現場に臨んで、これが不適当であることが判明したならば、協議の上変更することは差支ないであろうが、最初の計画は尊重さるべきであり、竹内の行動が、この計画に拘束されるのが通常である。然るに竹内の行動には原審の指摘するように、二番線、三番線に注意を向け或は前記のように、ゴムホースを切断しようと考えたことなど、計画或は話合との関連が出て来ないところがあり、同被告人の供述の信憑力を弱めている。又発進操作をする直前における車庫の配車状況を考えれば一番線が竹内の自宅から遠いことから被告人横谷との打合の存在を直ちに推定することはできない。
(ハ)被告人竹内と横谷その他の被告人との間の連絡協議は、共同犯行の場合に、その実行を一切一人に一任することもあり得るので、現場における協議、打合は必ずしも必要でないことは所論の通りであり、かかる打合又は協議が不充分であつて、各自が思い思いの行動に出ることもあり得るところであろう。従つてこのこと自体には問題はないが、横谷とハルンドを縛る方法等を協議したとの供述がありながら、実際は後記のように協議がどのように具体化されたか不明なところに、疑問があるのである。
(ニ)被告人竹内が外山、清水を見た際の竹内の心理状態については、所論のように左程驚かない場合もあろうし、或は原審説明のように、驚いたかも知れない。この点の供述は簡単になつていて、いずれとも決しかねるところである。原審が説明するように不自然であるとまでいうのは行き過であるかも知れない。しかし簡単な供述から、直ちに結論を引き出すことはできないのである。
三、12の点に関する被告人竹内の供述について。
所論を検討すると、
(イ)被告人横谷が被告人竹内の実行の確認又は援助の意思で現場に赴くことはあり得るとしても、前記のように、右両名はハンドルを縛る方法等について協議したというのであるから、実際の行動にこれが、現われなければならない。しかるに、原審が説明しているように、運転台における両名の行動は一致した態勢を示していないのである。
(ロ)横谷が逆転レバーに紐を二度ほど掛け失敗したとの点については、原審が本件先頭車の同一コントローラーを使用して実験して一回で逆転レバーに掛けて成功した事実は重要視しなければならない。夜間照明不十分の個所で興奮した状態で、被告人らが行う場合に失敗することが絶無でないにしても、右実験した事実に反する供述の信憑力が弱められることは否定することはできないところであり、原審のような疑を持つことはやむを得ないところである。
被告人竹内の単独犯行の供述中には所論のように被告人竹内が逆転レバーに紐をかけて二度ほど失敗したとの供述はどこにも見当らないのであつて、この点については被告人竹内の単独犯行の認定の証拠として挙示された昭和二十四年九月五日附同被告人の検事に対する供述調書(記録第二五冊五四七丁以下)に
「右手で紐をハンドルの首に掛けた上、運転士知らせ燈のコントローラー寄りの回路電線にその紐を通し、一回結びましたが、ハンドルが戻つてしまつた。そこで再びやり直した。」とあり、同八月二十二日附調書(記録同冊第四七〇丁以下)に「私が一番線の電車の運転室に入り前申した様に発車装置をしたが、その際私も一応コントローラーのハンドルを何処と結ばうかと迷つた。コントローラーの右横には何も縛る個所がないので、「前後進のつめ」(逆転レバーのこと)の所とハンドルの把手とを結ばうとも考えたのであるが、此の「つめ」は少し手前に傾いている上右把手との高さ関係もあり、其処を紐で結んでも抜けるような気がしたので、前申した回路電線に結びつけた。」との記載があるに過ぎないので、被告人竹内はこれを実験して失敗したのでなく、実験しないで、できないと予想しているに過ぎないのである。この点の所論は失当である。
四、13の点に関する被告人竹内の供述について。
所論を検討するに、
(イ)原審の所論検証調書(記録第二三冊第三〇三丁以下)によれば、本件犯行当時と同様の条件の下に先頭車運転台から外部前方を望見すると陸橋がはつきり見え被告人清水が立つていたという零番線に配車した後部第一車輛中間甲の地点に人を立て、被告人外山の立つていたという三番線後部第一車輛乙の地点に人を立てて見ると、甲の地点の人ははつきり確認できるが、その人が誰であるかの顔の判別は容易でないが、これを知るものはその顔を見定めることができる状態であつた。乙の地点の人は熟視することによつて顔の判別ができたとの記載があるので、被告人竹内の被告人清水、外山に関する推測的な供述が所論のように当を得ている場合もあるかも知れないが、同被告人の供述は所論のように確認的なものとして、被告人清水、外山の存在を直ちに確定し得る程有力なものでないことは供述自体によつて明かであるから、この点について同被告人の供述に左程高い信憑力を与えることはできない。
(ロ)発進操作完了後コンプレツサーの始動音が初まり、被告人竹内がせき立てられた状況で逃走することが自然であつて、互に行動を確認し得ないことのあることも所論の通りであるが、それだけに、逃走の際に見聞し、推測したことには誤認の危険性が大であつて、田代、伊藤の行動に関するものは、そのような推測的供述に過ぎないものと認められ、信憑力は極めて低いものであると思はれる。
五、14の点に関する被告人竹内の供述について。
(イ)被告人竹内に対してだけ飯田がアリバイ云々といつたのならば格別、他の組合員に対し共通に組合事務所で飯田が云つた言葉に所論のような重大性を附与することはできない。被告人飯田としては、当時の状勢から判断して共産党細胞を中心とする三鷹電車区労働組合員に嫌疑を向けられることを予想してこのような言葉をいつたことも当然と思はれ、共同犯行に関係がなくとも別に異とするに足りない。却つて秘密裡でなく、多数の組合員に対してこのような言葉を云つたことはむしろ、共同犯行と関係がないとの一資料ともなり得るところである。
(ロ)事故当夜直ちに本件が共産党員の犯行であるとの宣伝が行はれていたか否かについて、なるほど所論の各原審証人の供述からはこのような宣伝が行われたことは出て来ていない。しかし、押収に係る各新聞紙によれば、当時の新聞の報道中には世人をして共産党員の犯行であると誤信させるような記事のあつたことも否定できないところであるから、当夜既に現場附近において噂の程度にそのようなことが云はれたことは推認できるところであると共に、共産党に属する被告人達が本件事故に関連して捜査を受けることをいち早く予想したことも極めてあり得る事理である。従つて被告人飯田の前記言動から本件共謀を推定することはできないものと考えられる。
(ハ)被告人飯田らと被告人竹内との事後の協議打合の点についても、勿論所論のように打合の機会も絶無でなく、本件計画の秘密性保持のために、非党員たる竹内を加えなかつたことがあり得ることであるとしても、それは特別の場合であつてこの点は前記説明のように意外の結果を生じた際の善後措置を講ずることが普通であるから、このことのなかつたことは、特別の場合であることが確認せられない以上むしろ共謀関係の成立にとつては否定的な事情となるものと解すべきである。
以上見て来たように各被告人の供述には、本質的な供述の変更があり、推測的供述が多く、矛盾不統一があつて、その信憑力は薄弱であるといわなければならない。尤も原審の説明の中、右に説明したように妥当でない部分も二、三見受けられるのであるが、全体としてこれを綜合して判断すると、右のような供述の不統一、曖昧、推測的であり、供述自体にも否定的な資料が見られることから、本件共同犯行の実行を、確認するに足りないものである。
これを前に他の項目についてそれぞれ説明して来たように、被告人竹内には単独犯行を繰返し供述している多数の調書があり、同被告人が、供述の動揺性を包蔵しながらも、公判廷において、単独犯行を極力主張している点、被告人横谷が共同犯行を否認し、自白の原因を説明している点を併せ考え、且、本件について、七月十五日午後の整備第二詰所及び夜の高相会議における共謀及び中座の事実が確認できない点等を綜合考察すると、前記各項目についての被告人横谷及び竹内の共同犯行の実行及びこれに前後する附随的事実は結局極めて信憑力の薄弱な証拠だけしかなく、証明不十分であると結論せざるを得ないのである。
第二節 被告人竹内、同横谷、同伊藤、同外山の各自相互の関係と各自白の原因について。(控訴趣意書第五点第一の四、第三〇一頁以下、判決第九一丁以下)
供述の信憑力を判断する上において、各供述者の自白の原因を調査し、同一事件の各被告人相互間において一被告人の自白が他の被告人の供述に影響を及ぼしたか否かを決定し検討することは極めて重要なことである。原審がこの点について十分な検討を加え被告人らの自白の信憑力を綜合的に判断する資料としていることは適切であるといわなければならない。
この点に関する所論を検討すると、
一、本件捜査において被告人らの取調に当つた検察官が慎重な態度を以て臨みその間に拷問、脅迫を加えた事実のなかつたことは原審の説明しているところであり、所論の証拠をはじめ記録全体を通じてこれを確認し得るところであり、従つて裁判官の被告人らに対する証人尋問調書又は検察官に対する供述調書が任意性を有し適法な証拠能力を有することは所論の通りである。しかしながらその信憑力は他の被告人の供述、他の証拠との対比、自白の原因等の検討を経て後決定さるべきことはいうまでもないところである。
二、各被告人の前後数回に亘る供述に若干の矛盾不統一があつても、その不統一を捨てることによつて首尾一貫した合理的なものとなるときは、信憑力があること勿論であるが、更にこれが他の被告人の供述と矛盾した場合においてはいずれの供述を採用すべきかの択一的関係を生じ、又は明らかに信憑力ある他の証拠と矛盾するときは、その信憑力が否定されることは当然である。更に同一被告人の数回の供述中に基本的な事項について変更があつた場合は(例えば本件では竹内被告人の単独犯行と共同犯行の供述の如し)はそのいずれを措信するかについて慎重な取扱を必要とし、又余りにも想像的推測的で曖昧な供述はそれ自体信憑力が薄弱であることは勿論であつて、供述の信憑力の判断は極めて重大なものであることは所論を俟つまでもないところである。
三、被疑者又は被告人の犯行についての自白が宗教的懴悔又は自白と同一でないこと勿論であつて、自己に不利なことはできるだけ隠そうとすることは一般的にあり得るところで、所論のように弁解の辞に窮して一角から徐々に崩れ事件の全貌を語るのも多数の事例があるであろう。従つて所論のように、被告人らの供述が断片的であり、曖昧であり、逐次前の供述を訂正して行く中に真相全部を供述する経過を辿ることもあるであろう。しかし、その事項の性質によつて断片的であり曖昧であつてはならないことに断片的であり、曖昧にしか述べていない場合はその信憑力は低からざるを得ない。たとえば、自らその場にいて体験したと考えられることを述べる場合に、断定的に述べないで、推測的に述べた場合の如きがそれであり、本件における各被告人の供述中にはこのような事項が多いのである。不自然曖昧であることが却つて真実性があるとは判断できない。
四、人の記憶が不正確であることもあることは所論の通りであり、供述者の性格、調書作成の技術性から云つて供述調書が常に理路整然委曲を尽していない場合のあることは否定できないのであるが、それだからといつて逆に不充分な調書に信憑力が出て来るともいわれない。供述調書の信憑力の問題を完全に解決し得る規準を直に発見することは困難であり、要は各供述調書を前記各種の観点から検討しなければならないのである。矛盾、不統一、曖昧さの中にも真実性をくみとることのできる場合もあれば、逆に余りにも整然としすぎていて却つて信用し得ない稀な場合もあるであろう。
五、被告人伊藤、同外山、同横谷がいずれも共産党員として党活動に従事したこと、単に興奮し、驚き或は寛大な処分を求めるためだからといつて、直ちに検事に迎合し、虚構の自白をし、自ら又は他人をも死刑又は無期懲役にも当る重罪におとすようなことは通常考えられないところであることはいずれも所論の通りである。従つて被告人伊藤が逮捕勾留後僅か旬日を出でないで本件に関連する事実の一部を自白し初め、被告人横谷が所論の八月十五日両親を心配し、興奮したとしても、何故本件に関連する事実の骨子を自白したのであろうか。被告人竹内は単独犯行を供述し続けながら、遂になぜ共同犯行を自白したであろうか。被告人外山のその一部自白はどう解すべきであろうか。この点に関する検討が、右各被告人らの供述の信憑力を解く鍵であり、たしかに、所論のように深い疑を持たれるのである。
これ等の自白、特に被告人伊藤、同横谷の自白が本件起訴の支柱となつていることも当然のことであり、検察官の取調が続けられ、被告人横谷は八月二十三日の上申書を以て供述を終つているが、被告人伊藤については約二十回に亘る供述調書或は裁判官の証人尋問調書が、被告人竹内についても十数回に亘る供述調書及び証人尋問調書が作成せられ、これが本件の成否を決する中心点となつたのである。
六、記録について、各被告人の自白の原因を見ると、
(イ)被告人伊藤については、原審挙示の八月九日附供述調書(記録第二五冊第一九六丁以下)、八月二十七日附供述調書(同冊第二五六丁以下)等において、原審説明のような供述をしておるのであり、共産党を脱党し、郷里に帰り、母親に孝養を尽し、全く新らしい生活に入りたいので、寛大に願うため、今までと全く変つた気持で供述するというのであつて已に本件は死刑か無期であると教えられている被告人が帰郷の可能を考えるのは刑事事件に対して異常の錯覚を犯していたものと認められるので、寛大な処分を受けるためには検事の取調に迎合する可能性を多分に含む心境であるともいえるのである。而も寛大な処分を願うあまり、当初できるだけ、第三者的傍観者的態度を以て供述し、その後逐次少しずつその供述を訂正補足し、前進している供述経過を見ると、頭初事実と事実とを虚偽の糸で結びつけ僅かな供述を為し、これを維持するために、次第に虚偽を附加し又は訂正して行つたとの疑も生じ、真実を包みなく述べるという点に著しく欠けていることが見られるのである。
それ故同被告人は八月二十八日附供述調書(同冊二九五丁以下)では「法廷で尋問されるときは共産党の人達が多勢来てやかましくいうことが前の勾留理由開示の日の経過で予想されるから、事実の侭申し述べることは容易でないと思う。なるべく法廷外で申述べたいものです。」と自己の供述の真実性を法廷で堂々と述べることを回避しているのである。
それ故原審が説明したような疑問は当然生ずるのであつて、前記のように被告人伊藤が余りにも早く自白したことから、来る信憑性との間をどう調節するかの問題を生ずるのである。
被告人伊藤が逮捕勾留後当初否認していたのであるが、八月七日附供述調書(記録第二五冊一八三丁以下)に「七月十四日細胞会議のとき、六三型電車が自然発車すれば面白いといつた話の出たことは否定できない。この点についてはよく考えてから申し上げる」との記載があり、これに引続き前記八月九日附供述調書で、前記のような心境を述べた後、右会議の模様、十五日午後の古電車を中心とした外山、横谷、田代、飯田、喜屋武等の行動等を述べ、同月十四日附上申書ではこれを稍詳細に述べているが、これ等の供述調書及び上申書では、高相会議における共謀及び中座の事実には触れていない。のみならず、右上申書では自ら事故直後事故現場において公然名乗りを上げて六三型電車の宣伝を演説するという犯行を察知している者としてふさわしくない行動について真意を捉え難い供述をしている。ところが爾後伊藤の供述調書は第三者的態度から順次に事件の中心にまで発展し、一つ一つ細かに追加変更し、遂に本件事故電車発進現場における見張に従事するため、電車先頭車の極めて近くまで行き、実行者たる竹内、横谷を現認したところまで発展し、その間本件共同謀議の時間場所内容についても逐次拡大発展し、本質的な変更を加えているのであつて、これを通読して果してそこに真実なものがあるか否や、若しあつたとしてもどれが真実かが不明となつて来る状態である。従つて検察官主張の信憑性は、自白の当初のものについては或る程度考えられるとしても、その後の取調べによつて目まぐるしく変転して行く経過につれて、その信憑性は維持できなくなるのである。
従つて以上の事情を彼此考察して見ると、被告人伊藤の供述の全体の信憑力は多大の疑問があるということになるのである。
(ロ)被告人横谷の自白について。
同被告人が心の動揺と異常な興奮の状態において最初の供述をしたことは、原審挙示の資料によつて充分これを認めることができる。しかし、その自白の信憑性は心の動揺と興奮の故を以てこれを奪うことのできないことも所論の通りである。被告人横谷はその後供述調書或は上申書を以て、最初の自白を稍具体化した供述をしているのであるが、その自白は極めて曖昧、推測的な部分も多く統一を欠き、それ自体信憑性が薄いのみならず、八月二十三日の上申書以後はその自白をえしたことは記録に徴して明かである。従つて最初の自白に遡つて、果してその自白が真実であつたであろうかとの疑問を生じて来るのは当然であつて、信憑性の高いものとすることはできない。検察官自身も同被告人自身の自白が曖昧不充分不徹底であることを自認しているのであるから、これに高い信憑力を与えることができない。
(ハ)被告人竹内の自白について。
同被告人の自白の原因については、原審が掲げている資料を検討することによつて、明かにすることができ、原審の説明は極めて妥当であるといわねばならない。被告人竹内は昭和二十四年八月二十日頃から、単独犯行を自白しはじめ、一貫してこれを維持して来たのであるが、十月十四日附上申書で共同犯行を認めるに先立ち、九月二十九日附供述調書で、「今度の事故電車を発車させることについて、今まで外山、横谷から頼まれたことは絶対ないといつて来たが、実際のところははつきりした記憶がなく、外山、横谷らが法廷で宣誓の上、今度の事故電車を走らせることについて私に頼んだといえば、それが真実と思います。」と極めて曖昧、その真意を捕えるのに困難を感ずる述があり、次で、同月三十日附供述調書に生命の岐路に立たされていかに身を処すべきかに迷い、今度の事故電車を発車させることに関し共産党の人達が関係していたか否かの点についても、できるだけ申し上げたいと思うと述べ、この心境から供述する場合に検事の取調べに迎合することのあり得べき危険性を示し、十月十四日附上申書では「今は興奮からも醒め政治的色彩からも一切を断ち切り、……七月十五日の行動について、思い出されたことを詳しく申し述べるが猶幾分の記憶の誤謬はあると思はれる。」と述べ確信ある態度ではなく、その後供述を再三再四変更して、本質的な部分についても供述の訂正を行い、公判廷のような多勢の人のいるところで、これと同じことがいえるかどうか不安であると自信のないことを示している。従つて被告人竹内の供述の信憑性はこの自白の原因から、相当低下することもやむを得ないところである。(同被告人の単独犯行の自白の信憑力の極めて高いことと対比すると殆んど措信できないことは既に説明した通りである。)
(ニ)被告人外山の自白について。
被告人外山の自白は、検事から高相会議のアリバイが崩れたとか外山自身の中座の事実をいわれて驚き検事に処分を委ね結局のところこのままで裁判に廻して貰いたいと述べていて、極めて断片的に過ぎず、この自白に左程の信憑力を附与できないことは当然であり、原審の説明は妥当であるといわなければならない。
七、次に各被告人らの自白の関係を見るとその自白の内容に原審が相互の影響についてとして日時の順を追つて説明しているような経過があることは見逃がすことのできないところである。勿論捜査取調べに当つた検察官が一被告人の供述を得るや直ちにこれを他の被告人に告げてこれを誘導したというような事跡は勿論認められないところであるが、一被告人が認めていなかつた事項が、後に他の被告人の自白があつたのち、供述の変更を行つて、同様の事項を認めるに至つた事実自体は動かすべからざることであり、かかる事実はすべての自白した被告人らが法廷において、これを虚偽の自白として主張している本件においては、自白の信憑力の決定の上に否定的な資料として強く働くことは見逃し難いところである。
八、而して所論のように結局自白の信憑力は供述それ自体を検討すると共にこれと他の証拠とを対照しなければ、完全には決定されないのであつて、後記判断のように本件に顕はれた全証拠を、綜合判断すると各被告人らの自白の信憑力は極めて薄弱となつて来るのである。以上説明の通り、この点に関する所論も結局採用することができない。
第三節 相川判事の証人尋問調書について。(控訴趣意書第五点第三、第三二三頁以下)
原審が所論のように「ここで一言相川裁判官の各証人尋問調書の性格に触れなければならないが、一部の被告人及び証人が裁判官の尋問であることを意識し、法律により宣誓の上供述していることであつても、この供述は全体の一齣に過ぎないものであつて、この種事案においては裁判官に対する供述なるが故に特段の証明力を認めるわけにはいかない。」と判示している。
これ等の証人尋問調書は刑事訴訟法第二二六条又は第二二七条の規定によつて宣誓をした上裁判官の面前での供述を録取したものであるから、一般的に見て捜査官又は一般私人の作成する供述調書その他の証拠書類よりも強い信憑力を持つものとされ、伝聞供述排斥を一つの重要原則とする刑事訴訟法において、検察官その他の者の作成した証拠書類よりも証拠能力の制限が少いのである。即ち刑訴第三二一条第一項第二号第三号において、供述の信用性が保障されなければ、証拠能力がないのに反し、右裁判官の尋問調書はこの要件を必要とせず、信用性が保障されているとの前提に立つているのである。しかしながら、この点は証拠能力の問題にすぎないのであつて、その内容の信憑力の問題は別個であり、その証明力は裁判官の自由心証の範囲に属することは何人にも異論がないところであり、原審が、検察官から提出された供述調書と比較対照し、右裁判官尋問調書の記載内容が、概ね検察官の供述調書を総括したものと認め、当該尋問調書の供述に至るまでの各被告人等の供述経過を明かにし、その過程における供述の本質的変化と矛盾、不統一を考察し、これ等を彼此綜合して、当該証人尋問調書の信憑力を判断し、従前の検察官の供述調書と同様、信憑力が低いとし、特段の証明力を与えることができないと判示したことは、以上の自由心証の範囲における証拠の証明力に対する判断を示したものとして不当でないものと認められる。
原審公判廷において審理を受けた被告人らの中被告人竹内を除いては共産党に所属していたこと、原審における被告人ら及び弁護人らの主要な攻撃目標が、本件は政治的陰謀による弾圧検挙であり、被告人らの自白は強制拷問にもとづくものであるというにあつて、検察官の取調態度、起訴の不当、公訴取消要求等、検察官に対する攻撃が相当行われたことは既に前記第一点において説明したところであり、被告人竹内を除き、その他の被告人らは法廷における一切の検事の質問に応じなかつたこと、証人栗原照夫、同黒川義直、同金沢卓、同大久保安三らが、原審公判廷に臨む前に、共産党に属する人達との間に、本件についてある程度の連絡があつたことは記録を通じて窺われるところである。従つて公判廷における被告人ら及び証人らの供述をすべて全面的に信用することができるか否かの問題は一概に決定できないことではあるけれども、このことと右裁判官の尋問調書の信憑力の問題とは別であつて、公判廷における供述が信用できない部分があるからといつて、直ちに右証人尋問調書の信憑力が出てくるとは限らないのであつて、公判廷の供述の信憑力も、右尋問調書の信憑力もともに薄弱である場合も存するのである。尤も同一事項について公判廷における供述と右証人尋問調書の供述とが択一的に相反する場合にはそのいづれを信用し得るかについて前に説明したような検討を加えなければならぬ。原審は本件記録にあらわれた各種の証拠を綜合判断して右証人尋問調書の証明力を一々検討して、前記説明のような結論に達したのであつて、記録を精査しても、その誤断であることは発見できないから、所論は失当である。
〔Ⅲ〕 第六点 採証法則違反に因る事実誤認。
原審が判決理由説明の方式において個々の証拠を分断的に検討してはいるか、表現の形式上このようになることはやむを得ないところであり、所論のように綜合判断を欠いた趣旨でないことは既に々説明して来た通りである。従つてここでは、これについての所論について繰返して説明することを避け直ちに各所論を判断することとする。
第一、綜合判断の欠如(同第六点第一、控訴趣意書第三三一丁以下)
一、証拠の取捨判断が合理的でなければならず、須く法廷に顕出せられた全証拠を綜合し、真を採り偽を捨て、小異をすてて大同につき、犯罪事実の存否につき慎重な心証形成過程をふみ、その間経験則又は採証法則に背かないことを期すべきであることはいうまでもないところである。
原判決の判決形式にかかわらず、原審がこのような判断方式をとり、被告人竹内の単独犯行は確実にこれを認定できるものとし、他の証拠については、その措信し難い心証形成の過程を克明に説明していて、その措置が相当であることも上来の説明の通りである。原審の説明は決して被告人竹内の単独犯行であるとの前提からする推論に過ぎないものではない。従つて原審の無罪理由が形式的な説明であつて、実質的な理由を附していないとすることも失当であり、無罪の判決に所論のような証拠説明を要するとの根拠もない。
二、原審が所論のように個々に証拠を検討し、最後に「結局これ等の証拠を綜合しても本件共同犯行については、犯罪の証明がないことに帰する」(判決第一二九丁)と判示しているのも、決して所論のように無意味ではなく、実際の心証形成過程では、全証拠の綜合判断をしたのであるが、個々の証拠にはそれぞれその説明のような信憑力の薄弱なものがあり、綜合判断の結果結局犯罪の証明がないことに帰するという趣旨であつて、検察官の主張する分断方式を以て、判断したものということはできない。
三、次に所論が例示する順序に従つて、綜合判断を欠如したため事実の誤認を来したか否かについて案ずるに、
(一) 竹内景助らの供述について。(控訴趣意書二三七頁以下)
被告人竹内、同横谷、同伊藤、同外山の本件公判前の供述がどの程度に信憑力を持つか否か、相互に矛盾し、不統一がある供述の中から、これを綜合してどのような結果が出て、それが、本件全証拠と対比して措信できるか否か、この点に関する原審の説明に誤がないかどうか等の点については、前記第五点の説明において逐一触れて来たところであり、原審の説明に妥当を欠く部分もあるが、同被告人らの供述は結局いづれも信憑力が薄弱で、他の証拠と矛盾することによつて信憑力を失い、それ等を綜合して見ると、本件共同犯行の事実は結局証明不充分というの外ないことも既に述べた通りである。
(二) 証人栗原照夫らの供述について。(同第三四〇頁以下)
所論の証人栗原照夫、同黒川義直、同金沢卓、同大久保安三、同大谷忠弥、同田口鉱二、同李教舜らの本件共謀並に被告人らの高相健二方よりの中座に関する供述の信憑力の問題も既に第五点第一節において説明した通り、信憑力が薄く、他の証拠と綜合判断しても、この事実を確認するに足らないのである。
(三) 証人楠名倭夫の証言について。(同第三四二丁以下、判決第一〇一丁以下)
原審が証人楠名倭夫の原審公判廷における供述(記録第一九冊第一〇三丁以下)についての証拠価値の判断として、「事故発生後四十秒乃至五十秒位のとき三鷹駅ホーム運転士詰所入口前で、被告人宮原に会つた。宮原は走つて来たと見え息づかいが荒くはあはあいつていた。宮原がどの方角から詰所え来たのかはつきり判らないが、光線の関係で多分電車区寄の暗い方から来たのではないかと思う」との供述について、「もし証人楠名の言う通りであれば、宮原の本件発生当時における行動が一応疑われる余地がある」として「同人(楠名)としても事故電車の驀進をまのあたりにみてその衝撃を受けたため、あまり強く意識に上らない時間的空白を費していたかもしれない。したがつて時間の点に関し、これをそのまま措信することは困難である。その上同人が宮原に駅運転士詰所前で会つたとしても事故発生当時の混雑、同一人に数回顔を合せるような当時の状況を顧みるとき、同人の記憶する所は或はその後のことに属するかも知れない。」「なお、楠名は宮原の来た方角について宮原が背後の燈火の関係で電車区の方面からではないかと推測しているが、身近に大事故を体験し、危機一髪難を免れた同人としてかかる冷静な判断をなし得たかどうか疑わしい。」とし「以上の理由によつて証人楠名の供述をそのまま全面的に採用することは困難である。」(判決第一〇三丁)と説明していることは所論の通りである。よつて所論を検討すると、証人楠名倭夫の原審における供述には特に記憶の不正確な点が見られないから、同証人の供述は信用できるものと見なければならない。これを原審が意識に上らない時間的空白が存在したかも知れない或は同人の記憶の不正確であつたかも知れないと推測することは特段の理由がない限り合理的であるとはいえない。ただ四十秒乃至五十秒というのは或は多少伸縮があるかも知れないが、これを五分或は十分であるなどと推測することは許されない。従つてこの点に関する原審の説明は妥当ではない。
しかしながら、同証人の供述を通覧してわかるように同証人の供述によつて確認できることは、事故発生後四十秒乃至五十秒位のとき三鷹駅ホーム運転士詰所入口前で、被告人宮原に会つた。宮原は走つて来たと見えて息づかいか荒くはあはあいつていたという事実だけであつて、同被告人が電車区寄りの暗い方から来たことは推測の域を出てたものでなく、これだけからは確認できないところである。
他方において、原審における所論検証調書(記録第二三冊第三〇三丁以下)の記載によれば、高相健二方前から三鷹駅南口までは約五十六米、三鷹駅前広場から駅前通に入る右角煙草屋(高相方の筋向い)右隣の電柱から三鷹駅運転士詰所入口までの距離は四十七米、高相方から、右煙草屋に相対する同広場駅前通り入る左側の点までは約三十米、三鷹駅南口建造物の北側から、運転士詰所入口までは約三十米であること、従つて高相方から直接に運転士詰所入口までの距離が約八十米であることが認められる。
又被告人宮原は原審公判廷において、自己の行動について、原審並に所論引用のように、先づ高相方から飛出し駅前広場中間まで行くと、下り一番線のストツプを破つたことが判つたので、高相方に引かえし、これを報告し、又飛出してホーム運転士詰所に行つた。(鈴木運転士に会つた)最初運転士詰所に行つたのは事故後十分位はかかつていないと思うと供述している。最初に鈴木運転士と会つたという点及び時間の点において証人楠名の供述と合致しない点があるが、前記のように証人楠名の供述には大して不正確なところもないので、証人楠名と被告人宮原が、事故発生直後極めて短時間内に運転士詰所入口で会つたものと見るのが正当であり、被告人宮原の右の供述には措信し難い部分があるのである。
従つて問題は被告人宮原が高相方にいて右の行動をとつた場合に、右の短時間内にそれだけの行動ができるかどうかである。前記のような距離の関係から被告人宮原の行動した距離を計算して、高相方から駅前広場中間までの往復約百米、高相方から前記運転士詰所まで約八十米、合計約百八十米に過ぎず、この間を駈足で行動すれば、一分以内の時間を以て足ることが明かであり、仮に所論のように高相方の階段を下りる時間、駅前中央広場で立止つていた時間を加算しても敏速に行動すれば一分前後或は二分以内にはこれを完了することができるものと推定され、前記楠名証人の供述する時間が、前記の限度で多少の不正確さを持つていたものとすれば、被告人宮原の十分以内との供述は誇張にすぎるけれども宮原の主張する行動自体は絶対あり得べからざることでもないのである。従つて原審の説明には妥当でないところもあるが、所論のように必ず三分乃至五分を要するものとも認められないばかりでなく、右検証調書(記録第二三冊三〇三丁以下)及び副検事田中義美作成の検証調書(記録第四九冊)の各記載及び各添附図面を綜合すると所論駅西第二踏切附近から該詰所入口まで四、五十秒で到達することは極めて困難であつて、かえつて前記のように高相方から駈け付ける時間的可能性が強いと認められるから、証人楠名の証言から直ちに宮原が所論の電車区寄りの場所(駅西第二踏切、一旦停止標附近)からでなければそこに来られないことを導き出すことはできない。これを綜合判断の資料としても、これ以上の証明力を附与することはできない。従つてこの点に関する所論は採用できない。(尤も他の証拠によつて、被告人宮原が所論の踏切附近から駈けて来た事実が認められれば、同証人の四、五十秒は必ずしも動かし得ない程の正確性はもつていないから、これを裏付けする証拠となることは勿論であるが、それ自体独立して被告人宮原の行動について確定的な証拠とすることができない。)
(四) 証人小峰勇外三名の証言について。(同第三四八頁以下判決第一〇三丁乃至一〇五丁)
原審が証人小峰勇、同加藤武雄、同岩崎薫、同芦沢角蔵の各供述について、所論のように説明し、結論として、電車区運転助役室と駅運転士詰所間の距離(昭和二十四年八月二十二日附検事磯山利雄外三名作成の検証調書の記載によれば約五百米と推定される。)を考慮するときは、(事故発生後十分位で外山が電車区運転助役室に現われ又まもなく駅運転士詰所に見えたことも敢えて異とするに足りない。したがつて、この程度の証人の供述で外山が発進現場附近で見張した事実を立証することはできない。)(判決第一〇五丁)と判示していることは所論の通りである。
しかしながら、所論のように証人小峰勇が自転車を持つた被告人外山に会つた時刻が、事故後八分よりも前であり、外山が事故後十分位の時電車区運転助役室にいたから、外山は本件事故発生前に自転車で電車区方面におつたと推認することは他に証拠がある場合ならば格別証人小峰勇らの証言から直ちに推認することはできない。又外山が自転車を持出した時期については、所論の高相健二、同高相八千代らの供述は、明らかに事故後であるとなつているのであるから、これらの供述と右小峰勇らの供述とを綜合して所論のような結論を出すことはできない。而して既に事故後八分前後乃至十分位の時間を経過したときならば、高相方から自転車に乗つてそれぞれ運転助役室並に駅運転士詰所に行くことも可能であるから、所論は失当である。
(五) 証人吉田晟外二名の証言について。(同第三五三頁以下判決第一〇六丁乃至第一〇八丁)
原審が証人吉田晟、同中西重雄、同仲谷保次郎の本件事故発生直後、三鷹駅前広場で、被告人伊藤が群衆に対し六三型電車の欠点を宣伝する演説をするのを聞いた旨の証言について、「証人吉田の供述は証人中西の供述に照らすと伊藤の駅南口における演説を聞いた時間の点について措信し難いところがあるが、たといその時間であつても高相健二方と駅南口との距離を考えるとき必ずしも伊藤の供述(法廷の供述)に矛盾するものではない」「右三名の証人の供述からも伊藤の右証人尋問調書(八月二十八日附証人尋問調書)における供述(六三型の欠点を大声で話した点を除き)を真実として立証するまでには至らない。」(判決第一〇八丁)と判示していること所論の通りである。
所論の被告人宮原の原審公判廷における供述(記録第二二冊第三五丁以下)では、事故直後同被告人がかけつけたときはまだ現場附近は蒙々たる土埃のため何が何だかよく判らなかつた(電車のところまで行かなかつた。しかし、一番線ストツプを破つたらしいと直感的に思つた。)と述べているに過ぎないから、原審が引用する伊藤の供述を直ちに措信できないとすることは当らない。伊藤が砂ぼこりを吸つて、六三型電車の屋根の帽子が見えたので、六三型であることを知つたということもあり得ることであるから、被告人伊藤が予め六三型であることを知つていた事実を被告人宮原の供述前記証人らの供述から推定することは早計である。
次に所論の原審証人下田留吉、同加藤武雄の原審公判廷における供述(記録第一五冊第九二丁以下、同二五八丁以下、記録第一六冊第一五丁以下)によれば、被告人喜屋武由放及び被告人飯田七三がそれぞれ右証人らに六三型電車は危いと話したことは認められる。又被告人らが予てより、闘争の手段方法として、六三型電車の危険性を極力宣伝していたことは認められるが、この事実から被告人伊藤、喜屋武、飯田らが、本件事故電車の発進を計画したこと或は被告人伊藤が右事故現場に至る前高相健二方を既に中座していて他の場所から駈けつけたものと推認することはできない。
却つて、被告人伊藤、同喜屋武、同飯田の六三型電車の危険性に関する演説又は談話は同人らが、本件電車事故を共謀しなかつたことの有力な一資料となり得るのである。何故ならば、若しそのような共謀があるならば、犯行の発覚を極度に警戒していやしくも現場附近において嫌疑を受ける言動を慎むことが通常であるからであり、後にこの伊藤の演説が被告人飯田の行つたものと誤解され、同被告人が逮捕される有力な一原因となつているからである。又いやしくも自己らが計画して意外の重大結果を惹起したならば、何人と雖も平然として当該事故を平素の宣伝に利用して演説をするが如き行為を為し得ないのが通常の事態であると考えられるからである。
(六) 証人小川仁、同篠和男の証言について。(同第三五七頁以下)
同証人らの供述の信憑力、証拠価値については既に先に第五点第一節第三款の説明においてこれを検討したのでこれを引用することとするが、唯所論引用の鈴木巡査部長作成の捜査報告書(記録第二六冊第三四四丁)は刑事訴訟法第三二八条の反証として提出せられたものであるから、これを他の証拠と綜合判断して犯罪事実認定の資料とすることはできないのである点を指摘するに止めることとする。(仮に右鈴木巡査部長を証人として尋問し、右書面記載の通りの証言を得たとしても、右証人らの供述を補強する程度のものであるに過ぎない。)
(七) その他の証拠について。(同第三六一頁以下、判決第一二五丁以下)
原判決が
「(一)飯田及び先崎が事故発生後本件事故電車運転室内を見たときコントローラー・ハンドル辺に紐があることがわかり、変なものがあると感じたことは、被告人飯田、同先崎(但し紐とまで確認しない)の当公判廷における各供述で認められるがこのことを取調の際進んで供述しなかつたことを以て直ちに同人らの行動が本件共謀に関係があると推断することはできない。
(二) 更に被告人喜屋武、同伊藤の言動が、当時本件事故発生当時の凄惨な情景に対し、著しく異常なものであつたことは証人中西重雄、同下田留吉の当公廷における各供述により明かであるが、これまたこのことを以て直ちに同被告人たちの共謀を推認することはできない。」
と判示していることは所論の通りである。
所論のように他に本件共同犯行を立証する証拠がある場合に右の事情が直ちに情況証拠たる価値を持つかについても問題があり(一)の点については極めて低い価値しか持たない情況証拠たり得る場合はあり得ても、(二)の点は原審説明のように異常性を持ち、事故現場における目立つた行動となるために、却つて本件共謀の否定的な資料と解するのが相当であるといわなければならないことは前記(五)の説明の通りである。
(ハ) 証人坂本麻次らの証言について。(同第三六四頁以下、判決第一二九丁以下)
所論の証人らの被告人外山或は被告人伊藤の言動は当時の緊迫した空気をあらわす意味があり、この空気が本件共謀に至る可能性を包蔵していたことは先に説明した通りであるが、これらの言動だけから本件共謀を推定することはできない。却つてこれ等の言動はいわゆる強かりを示すものと解すべきであつて、共同犯行の決意がこのように無関係の組合員に向つて表示されることは稀有の事例と解すべきであるからである。
第二、情況証拠の無視(同第六点第二、第三六七頁以下)
一、刑事訴訟法が憲法に明示せられた原則を明文化し、自白偏重の弊を避けんとして、同法第三一九条に明文を以て、強制、拷問又は脅迫による自白等任意性のない自白の証拠能力を排斥し、被告人は自白が自己に不利益な唯一の証拠である場合は有罪とされないと規定し、併せて、被告人の権利保護のため、勾留期間を短期間に制限し、被疑者又は被告人と弁護人との自由交通権、勾留理由開示請求権、黙秘権等を認めた結果、従来の犯罪捜査と比較して相当の困難を伴い、従来に比較して完全な被疑者、被告人の自白を期待することが出来なくなり、これを補うため、情況証拠を活用すべき部面が拡大されたことは所論の通りである。
二、しかしながら情況証拠の活用にも一定の限界があり、当該事実を取巻く比較的遠い情況証拠だけしかなく、情況証拠による犯罪事実の推定ができてもまだ有罪判決を為し得る程度に有力でないならば、疑はしきは被告人の利益に従う原則によつて無罪の言渡をしなければならない場合も存する。然し、情況証拠が犯罪事実を認定し得るに足る限度に揃つた場合は、被告人の自白を俟つまでもなく、有罪判決を為し得ることはいうまでもないところである。
三、原審は所論のように決して自白を唯一の証拠とし或は自白を偏重したこともないのであつて、唯本件については、被告人らの共謀を裏付ける客観的な証拠がなく、被告人らの自白が本件共謀の殆んど唯一の資料であつたところから、供述の変化し、矛盾し、不統一がある中から、共謀の事実が認定できるか否かについて、第五点において詳細説明した各点の検討を遂げたにすぎないのである。(本件電車は一人でも動かし得ることは前に説明した通りであつて、犯行自体から数人でなければならないとは認められない。本件事故に至り得る客観的情勢があり、雑談的に電車を走らせる話が出たことまでは、認め得られることについては既に述べたところであるが、相反対する多数証拠がある本件において、この程度の犯罪事実に遠い客観情勢―この中には民同との関係等反対に働き得る事情も含まれている―や間接的な事実から本件共謀を認定することはできないのである。)
四、各被告人らの本件共謀に関する自白の信憑力並に関係証人らの供述の信憑力については前記第五点において既に詳細説明したところであるからここでは繰返さないが、原審において所論のような採証の法則乃至供述の解釈法則は充分これを尊重した上検討した結果前記第五点のような結論に達したのであつて、そこには所論のような情況証拠の活用を無視した違法はないと認められるのである。
以上第四点乃至第六点事実誤認に関する所論を逐一検討して来たのであるが、その結論を総括すれば次の通りである。
一、第四点 審理不尽に因る事実の誤認について。
所論中には一部正当なものがあるけれども、それが直ちに判決に影響を及ぼすものとは認め難いので、結局採用することはできない。即ち
(一) 第二、被告人竹内景助関係についての所論の中、同被告人の共同犯行の動機の点。
(二) 第四、被告人伊藤正信、同外山勝将関係並にこれと被告人竹内景助、同横谷武男の各供述相互間の関係中、被告人伊藤に関し、原審が八月二日附朝日新聞三多摩版について判断している点。
(三) 第八、証拠の綜合判断についての所論中、(1)本件共同犯行の動機が明白でないとの点、(2)七月十五日高相健二方における細胞会議は本件電車発進に関し特に設けられたものでないとの点、(3)細胞会議に非共産党員金沢卓や新入党員黒川義直、大久保安三らが加わり又同室で共産党三鷹町委員の会合もあつて、特定の者だけで本件謀議を図ることが困難な情況にあつたとの点、(4)本件電車発進現場は見張に不適当な所であるとの点。
(四) 第九、捜査経過の批判についての所論に前記説明の通り理由がある部分があるが、いづれも本件共謀及びその実行と直接に関係のない情況事実に関するもので、判決及びその根拠となる法令適用に変更を生ずる程の事実の誤認ではないので、結局所論は理由がないことに帰するのである。
二、第五点 経験則違反に因る事実の誤認について。
(一) 三鷹電車区における国鉄首切り反対闘争が相当緊迫激化した状態にあり、被告人飯田らによつて、六三型電車の危険性の宣伝を活溌に行うと共に、その他の打開策が考えられていて、本件事故と結びつく可能性はあつたこと。
(二) 七月十五日前における本件事故に関する話合。
七月十日頃の共産党員たる被告人らの細胞会議(被告人竹内は共産党員でなく、会合には参加していない)で、雑談的に六三型電車の宣伝に関連して原因不明の事故又は自然発車と見られるような事故を起すことについて発言があつたが、雑談の程度に止つて、協議決定するまでには至らなかつた。これは本件事故の萌芽或は雰園気として重視すべきものである。然し、被告人竹内が出席していないので、被告人竹内の実行との関連性がなく、被告人竹内に対する教唆又は幇助が成立する可能性もない。
(三) 七月十五日午後における整備第二詰所古電車内と組合事務所及びその附近における共謀。
(1) 各関係被告人のこの点に関する供述を各被告人毎に検討して行くと、所論の正当な部分も相当あるが、被告人らの供述の本質的な部分に変化があり、これが合理的でなく、前後に不統一があり、根本的な欠陥があつて信憑力が薄弱である。
(2) 各被告人の供述から一応矛盾不統一を取去り、首尾一貫した供述を求め得ても、更にこれを他の被告人のそれと綴り合わせて見ると尚根本的な点においていづれを採用すべきかについて決し難い矛盾、不統一があり、これを克服し得ても、更に被告人竹内の単独犯行の供述、共同犯行の自白の原因等の事情と対比すると、単独犯行の自白が極めて信憑性が高いことによつて、被告人竹内の共同犯行の自白は措信し難くなる。
即ち、各被告人の自白相互を比較検討して統一すると、
(イ)七月十五日午前十時頃組合事務所前で、被告人横谷は外山から「今晩この間の話を決行する。やり方の具体的なことは高相会議で話す。」と話された。
(ロ)同日午後一時半頃整備第二詰所古電車内に外山、清水、横谷、伊藤がいて、伊藤は横谷から、今日決行するとの話を聞いた。
(ハ)同日午後零時半以後に組合事務所に飯田ら被告人六、七名の外組合員二十名位がいて、一旦停止で脱線させるとか電車をグランドえ落すとか話が出ていた。午後二時頃外山が、横谷、田代を組合事務所から呼出し、整備第二詰所に入つた。
(ニ)午後二時半頃整備第二詰所内に、横谷、外山、伊藤がいて、外山、横谷が実行の目的及び方法を話した。又その後間もなく、同所に外山、田代、清水、喜屋武、横谷がいて、竹内に実行を依頼することを定め、横谷がその交渉を引受けた。次に横谷が、竹内に依頼して承諾を得た後、竹内をつれて古電車内に入り、そこにいた外山、田代、清水、喜屋武、伊藤、飯田に竹内の承諾を話した。飯田から竹内に景気をつけるような言葉を言つた。
(ホ)喜屋武は右古電車内に入る前に、組合事務所で飯田と話をしたが、その席に先崎がいて話を聞いていた。
(ヘ)その後横谷が飯田に竹内との交渉の顛末を話して再度交渉のため出て行き、承諾の旨報告し、前記のように竹内を古電車に案内した。午後五時半頃同所で伊藤は飯田から今日決行すること、高相で会議を開く理由を聞かされた。
(ト)被告人竹内と横谷との協議は二回あり、第一回は前記のように古電車に入る前であるが、第二回目は午後七時頃横谷が竹内を自宅から呼出し竹内の承諾を得た。
となるのであるが、前記説明のように右各項についてそれぞれ信憑性の薄弱な原因があり、殊に最後の(ト)の二回目の協議の時間場所が被告人竹内と横谷の供述において著しい不統一を示し、いづれをとつても、本件共謀の成立に疑問が生ずる。
これを被告人竹内の単独犯行の供述が前記説明のように極めて信憑力が高いことと対比すると、被告人竹内の共同犯行の供述に関する主要部分即ち本件共謀の成立に関する部分は措信できなくなるのである。
(3) 七月十五日における整備第二詰所古電車内と組合事務所における共産党細胞に属する被告人ら並に民同派を含む他の組合員の在室又は出入状況特に時間関係
(イ)当時三鷹電車区においては労働組合の指導権をめぐつて共産党細胞に属する被告人らと民同派に属する組合員らとの間に対立があり、相互に相手方の動静には十分注意し、相互に警戒していた。
(ロ)当日午前中には、組合事務所で執行委員会が開かれ、殆んど全部の委員が出席した。
その後区長との団体交渉が行われ、相原副委員長を代表としてその他多数の組合員が押かけ、略午前中その交渉が続いた。
(ハ)午後零時半頃から一時半乃至二時頃まで組合の内外に二十余名の共産党員を含む組合員がいた。
(ニ)午後二時乃至二時半頃から三時頃までの間に物資委員会が開かれ、午後四時前頃終了した。場所は整備第二詰所の古電車内の組合事務所寄りの半分で、その半分の駅寄りの部分は組合の書物に使う場所であつて、そこには色々の人が出入した。
(ホ)当日午前午後に亘り組合事務所に多数の人が出入し又は在室した。
(ヘ)当時午前午後に亘り、整備第二詰所にも相当数の人が出入した。
(ト)当日区長室附近には私服の警察官が三名か四名いた。
(チ)各被告人の行動は次のように推認できる。
(ⅰ)被告人飯田。午前八時三十分頃組合事務所に出勤。朝行われた執行委員会に出席、続いて区長との団体交渉に立会い、午後は殆んど組合にいて、六時半頃伊藤、金沢と共に組合を出た。
(ⅱ)被告人伊藤。組合事務所、整備第二詰所にいたり或は外部団体との交渉等で一ケ所に継続していなかつた。午後六時半頃飯田、金沢と共に組合を出た。
(ⅲ)被告人田代。午後一時頃組合を出て坂本安男らと共に吉祥寺にプラカードによる宣伝に出かけた。七時頃吉祥寺から三鷹駅にかえり、組合に行き風呂に入り、組合で食事をして、八時五分前頃組合を出て高相方に向つた。
(ⅳ)被告人横谷。午前八時半頃出勤して、組合事務所に行き、主として同所におり、午後二時頃協同組合え連絡のため、吉祥寺に行き、田代に会い、田代と共に午後七時頃三鷹駅に着き、組合附近で田代と別れ、同時刻頃民同派の石井方治と会い、単独で風呂に入り、それから組合に行つて田代に会い高相方に出かけた。
(ⅴ)被告人外山。午前十時頃組合に行つて、或は団体交渉に参加し、昼食後、古電車内で、清水から話があつて、細胞会議を開くことを考え、飯田に連絡するため組合事務所に行き、その賛成を得て、六時半から高相方で会議を開くことを決めた。再び古電車に行き、清水外一人と話したが、物資委員会が始つて、午後三時頃組合に行き、その後午後四時半頃清水が加藤と共に乗務員浴場え行つた。
(ⅵ)被告人清水。主として整備第二詰所の古電車の中にいて宣伝ビラを書いていた。午後四時半頃外山と共に前記浴場え行つた。
(ⅶ)被告人竹内。組合事務所、仕業検査詰所、検査係詰所等にいて、相当興奮して荒い言葉を使つていた。
以上の事実関係によると、当日組合事務所及び整備第二詰所で多数の被告人らが、本件共同犯行についての謀議を行うことは非常に困難な事情にあつたこと、謀議の場所としては、組合事務所は極めて不適当であり、たとえ一、二の被告人らの秘密の会話であつても、これを民同派に発見看視されることは、共産党員たる被告人らにとつて極めて不利であつて、又組合事務所内では、このような密談も極めて困難であると思われること、物資委員会が開かれた関係上整備第二詰所も午後二時乃至二時半から、午後四時前までは、そこで謀議をすることは不可能であつたこと、午後一時過からは田代が、午後二時過からは横谷が本件謀議に参加することはできなかつたこと、被告人竹内と横谷の第二回目の協議が若しあるとすると、午後七時過から午後八時前までの間而も横谷が石井方治と話をした時間、入浴時間を除いて極めて短時間の間でなければならないことが認められる。
而も本件共同謀議が行われたと主張される場所に極めて近接して行動していた多数の証人らが、被告人らの行動中謀議と考えられる会合或は密談のあつたことについては、何人も一言も証言していないので、共同謀議の成否にとつては、極めて消極的な資料となる。
又前記の被告人横谷及び田代の不在時間、物資委員会の開催時間は本件謀議にとつて極めて重要な関係となるのであるから、前記各被告人らの供述中時間関係の訂正があつたものは、その信憑力に影響を及ぼすものであり、被告人伊藤の供述にこの点が甚だ多い。
(ⅰ)七月十五日午前十時頃組合事務所前で、横谷が外山から具体的なことは高相会議で話すといわれた点は、同会議が前記のように外山らによつて午後決定された事実から見て措信できなくなり、全体の信憑力も疑問となつて来る。
(ⅱ)午後二時頃外山が横谷、田代を組合事務所から呼出したとの点は、田代が午後一時頃吉祥寺え行つたことから田代については措信できず、従つて全体の部分についても疑問が出て来る。
(ⅲ)午後二時半頃整備第二詰所内に横谷、伊藤、外山がいた点の中横谷については疑問がある。その後同所に外山、田代、横谷、清水、喜屋武がいて、竹内に実行を依頼することを定めたとの点は、田代が全然措信できず、横谷が疑問があり、物資委員会の直前又は開催後多数が謀議していて何人もこれを発見していないことにも疑問がある。仮に横谷が二時半頃までいて竹内との交渉をもその承諾を得てこれを整備第二詰所に案内したとしても、同所に外山、田代、清水、喜屋武、伊藤、飯田らの多数がいたことは四囲の状況上多大の疑問がある。特に田代の部分は前記の通り措信できない。
(4) 以上の各項を綜合すると七月十五日午後組合事務所、整備第二詰所及びその附近を中心とする本件共謀については、極めて疑わしく、結局証拠上証明不十分という結論に到達した。
(四) 七月十五日夜高相健二方における共謀と中座
(1) 各関係被告人のこの点に関する供述を各被告人毎に検討すると所論の正当な部分も相当あるが、供述の本質的な部分に変化があり、合理的でなく、根本的な欠陥があつて、信憑力が薄弱である。
(2) 各被告人の供述から一応矛盾、不統一を取去り、首尾一貫した供述を求め得ても、更に相互に比較して見ると根本的な矛盾があつて信憑力が益々弱くなる。即ち、この点の各被告人の供述を綜合すると、「高相会議に午後八時頃横谷、田代が出席して、横谷が飯田に対し、『九時半頃一番線で』と話し、午後八時半頃、小さな円陣を作り、喜屋武から飯田に質問し、飯田から『今日電車事故を起すから見張にも出てくれ』と話し、喜屋武から質問し、午後九時頃、飯田が時間をきくと、『九時だ』と答え、飯田が促がし、外山が、被告人横谷、田代、清水、宮原、伊藤に声をかけて出かけ、喜屋武はうまくやつてこいよと声をかけ、横谷、外山が先頭に他の四人も続いて出て、外山が自転車を持ち、組合え行つたのは横谷、伊藤、外山であつた」ということになるのであるが、その基本となる供述自体の信憑力が薄弱であることから、右(三)の七月十五日午後の本件共謀が確認できなかつたことと考え合せると極めて信憑力が弱くなつて来るのである。
(3) 高相会議における本件共謀と中座に関する関係証人らの供述について。
(イ)証人小川仁、同篠和男の証言は間接又は情況証拠としての価値しかない。
(ロ)証人栗原照夫、同黒川義直、同金沢卓、同大久保安三の公判前における供述は(ⅰ)同証人らはいづれも高相会議に列席して会議の経過を自ら実験しているに拘らず、その供述するところは漠然としており、推測的事実が多く、いづれの証人も後に供述を変更した部分を除外すると本件共謀及び中座の事実を明確に述べず、却つて僅かながらも否定的なものを包含している。従つて本件共謀及び中座の事実は極めて疑わしい。(ⅱ)後に供述を変更した栗原照夫は偽証被疑者として勾留尋問された際以後に供述の変化があり、黒川義直も共謀事実の内容が明確でないばかりでなく、中座の事実にすら推測的事項が多くなつている。
(ハ)その他の関係証人の公判廷の供述からも本件共謀及び中座の事実を認めるに足る資料は発見できず、むしろ、否定的な証拠も多い。
(4) 以上を綜合すると、関係証人の公判廷及び公判廷外の供述中には、間接又は情況証拠となり得るもの或は信憑力の弱い証拠はあるが、これを綜合しても、本件共謀並に中座の事実を確認するに足る程有力なものはなく、七月十五日午後における共謀の成立を確認するに足らないことは、高相会議の共謀並に中座の事実の否定的な重要資料となるのである。
(五) 七月十五日午後九時頃被告人竹内が自宅を出るときの決意とその後の変更
被告人竹内のこの点に関する供述は極めて信憑力が弱い。
(六) 本件犯行の見張について。
この点に関する伊藤の供述の信憑力も極めて低い。
(七) 本件犯行現場における被告人らの行動
各被告人の供述には本質的な供述の変更があり、推測的供述が多く、矛盾、不統一があつてその信憑力は薄弱である。原審の説明の中に妥当でない部分も二、三見受けられるが、全体としてこれを綜合判断すると、本件共同犯行の実行を確認するに足りず、これを前に他の項目について、それぞれ説明して来たように、七月十五日午後及び夜の共謀と中座を確認できないことと考え合せると、共同犯行の実行も証明不十分との結論に到達せざるを得ないのである。
(八) 被告人竹内、横谷、伊藤、外山の各自白相互の関係と各自白の原因について。
(イ)本件捜査において取調に当つた検察官に拷問、脅迫の事実がなく、裁判官の被告人らに対する尋問調書又は被告人らの検事に対する供述調書に任意性が認められる。
(ロ)被告人らの自白は不利益な事実を自認したものとして信憑力があるのを通例とし、殊に被告人伊藤及び横谷の自白にはこの感が深いのであり、この両者の自白が本件起訴の支柱となつたことも無理からぬところである。
(ハ)然し、各被告人らの自白の原因を調査して行くと各被告人らについて、それぞれ、その自白の信憑力を弱めるような原因がある。
(ニ)各被告人らの自白の相互関係を見ると、原審が指摘しているような相互関係が認められ、そのことから、その自白の信憑力が弱められていることを否定できない。
(九) 相川判事の証人尋問調書について。
裁判官の尋問調書には証拠能力の点において、検察官に対する供述調書よりも高度の信用性の保証があるが、証明力の点は裁判官の自由心証に任さるべきである。
三、第六点 採証法則違反に因る事実の誤認について。
(一) 第一、綜合判断の欠如。
(イ)証人楠名倭夫の証言の判断について、原審はある程度の誤謬があるが、当裁判所の検討したところでは、その結論を左右し得るに足る程重要でないと認められる。
(ロ)被告人伊藤、喜屋武、飯田の六三型電車の危険性に関する演説又は談話は本件共謀の事実の反対資料であつて、これを本件共謀認定の資料に使用することはできない。
(ハ)その他原審判決に綜合判断を欠如した結果の事実の誤認はない。
(二) 第二、情況証拠の無視。
情況証拠だけによつて、有罪の認定のできる場合のあることもあるが、犯罪事実を取巻く比較的遠い情況証拠だけしかなく、証拠が十分でない場合には有罪判決ができない場合があることは勿論であり、本件は有罪判決を為し得る程有力な情況証拠が存在しないものと認められた。
以上説明の通り、第四点乃至第六点の各所論全部について判断を加え、原審に所論のような事実誤認があるかどうかを見て来たのであるが、原審の審理事実の判断、採証の方法には附随的な事項については、多少の誤認があり、本件公訴事実中本件が被告人飯田ら十名の共謀に係るものであるとの点について、原審説明のように空中楼閣とまでは断定できないが、結局本件共謀の成立は極めて疑わしく犯罪の証明が十分でないものとして被告人竹内を除く、その他の被告人らについては、無罪の言渡を為すべき事件であるとの結論に到達したのであるから、前記の原審の事実の誤認は、判決主文及びその根拠たる法令の適用に変更を生ずる程重大なものでなく、結局判決に影響を及ぼさないものと認められるから、事実誤認に基いて原判決の破棄を求める右各所論はこれを採用することができない。
最後に事実誤認の点について一言附加しなければならないことは、検察官主張の本件共謀事実は確認できないとしても、他の形において、これと類似し、或はこれより小規模な計画として成立し、これが被告人竹内によつて実行に移され、又は被告人らの一部が被告人竹内に本件無人電車を発進させることを教唆し、或は被告人竹内が本件電車発進を決意していたことを知つて、同人に対し煽動的な言辞を以て同人の決意を強固にさせてこれを幇助した等の事実がないかどうかという点である。これについて、当裁判所は本件共謀の成立の判断をするに際し常にこの点にも留意して判断を加えて来たのであるが、既に先に説明したように、七月十五日午後組合事務所に被告人ら六、七人、被告人竹内を含む組合員ら二十名位がいて、過激な言葉を使つていたことが認められるだけで、これを本件共謀、或は右のような教唆幇助に結びつけることはできず、せいぜい煽動に該当するのではないかとの疑があるが、煽動行為については刑法に処罰規定がないので、問題とはならない。
その他には本件記録を通読しても他の形の犯罪事実を認めるに足る何等の証拠もないのであるから、この点についてはこれ以上触れることはできないものと考えられる。
〔六〕 第八点 量刑不当
原判決が被告人竹内の本件電車顛覆致死被告事件の重い情状として所論のように、(一)国鉄職員は公共企業体労働関係法によつて争議行為を厳禁されているにかかわらず、これに違反してストライキに導いて行こうとしたこと、(二)その手段が公共の危険性を帯び同種の手段を誘発する伝播性を含むこと、(三)その手段に供したものが、公共の交通施設たる電車であつたことと、(四)その結果交通施設等に莫大な損害を与え且つ善良な市民六名の貴重な生命を奪つたこと、(五)本件が行政機関における行政整理と公共企業体における人員整理をめぐる反対闘争の最中に生じたため、社会一般に深刻な影響を及ぼしたことを挙げ、反対に同情すべき情状として、(一)右の整理が殆んど同時に実施され且つ大量の人員を対象として行われたため、被整理者にとつては生計の途を絶たれ、正に死活にかかわる問題であつたこと、したがつて三鷹電車区においても整理に反対する険悪な空気が漂い過激な言動に及ぶ者が少くなく、同被告人がその影響を強く受けたのも無理からぬ点があつたこと、殊に同被告人には、妻子六名を抱え長年勤めた身でありながら、整理の理由を明かにされないまま国鉄を去らねばならなくなつた憤懣があつたこと、(二)右のような環境の中にあつて、感受性の強い同被告人が組合幹部や他の組合員の態度を消極的、日和見的であると難じ、焦慮のあげく、自分一人で電車事故を起して全国的ストライキの口火を切り、これを契機として不当な整理を撤回させようという、客観的にはおよそ実現のできないことを考えざるを得なかつたこと、(三)本件犯行が極めて発作的偶発的であつて事前に計画されたものではなかつたこと、この点は同被告人が犯行の日自宅において俄かに電車事故を人為的に行おうと思いたつたこと、電車区車庫において、電車の脱線事故についての決意を固めるまで、入庫中の電車の制動管ホースを切断しようとする決意を抱いていたこと、脱線事故の決意を固めてから、電車の発進現場で電車の発進操作に用いる針金、紙紐を拾い集めたこと、発進させる電車は必ずしも一番線に入庫中の電車にかかわらなかつたことによつても明かである。(四)同被告人は本件犯行の重大性を強く感じていなかつたこと、この点は本件犯行により電車区構内の一旦停止の標識のある附近で脱線させ、電車の入、出庫を妨害させる程度であれば、これまで発生した構内の脱線事故と同視されて、刑事問題にならずにすむと考えたのみで、その行為により電車が一旦停車の標識がある附近を通過して突進し、電車を破壊し、ひいては人命を奪うことまで毛頭考え及ばなかつたことが明かである。(五)本件の社会的影響はその手段及び結果の重大であつた点と共に結果の発生後本件が多数の共産党員による大規模な暴力的、破壊的計画に基いたと宣伝された点にあつたが、本件の真相は被告人竹内の右のごとき発作的偶発的な単独犯行であつたこと、(六)同被告人が数次にわたる犯行の否認と単独犯行、共同犯行の自白の間に心の動揺を示した事情について考えれば、逮捕、勾留の初めに当り、犯行を否認したことは別として、一旦は単独犯行を認めながら共同犯行を自白し、又は犯行を全面的に否認したことは外部の影響にあい、生への執着を強めた結果であつて結局は真実を偽ることから生ずる良心の苛責に堪えかねて単独犯行の事実を自発的に供述するに至つたことはその人間性の弱さと素直さの一面を如実にあらわしたものであること、(七)同被告人は過去の誤つた階級意識に基づく労働運動と本件犯行について深い批判と反省をしており、殊に犠牲となつた被害者に対し心から哀悼の意を表している等、改悛の情が顕著であること、を挙げ、以上犯罪の客観的及び主観的両面を検討した結果被告人を無期懲役に処したことは所論の通りである。
検察官は被告人竹内に関する有利な情状はないと主張するので順次検察官の所論について検討して行くこととする。
(一) 国鉄その他の行政機関の人員整理については、整理の実行を担当する国鉄当局者が業務に精励しない職員を対象としてこれを実施したこと、被告人竹内が所論の昭和二十四年六月十日の所謂国電スト以来、組合運動として積極的に整理反対闘争に従事して来たこと、その間共産党員たる本件被告人等と組合運動の活溌化については同調していたことは認められるのであるが、被告人竹内の検事に対する供述調書(記録第二五冊第三八〇丁以下、被告人竹内の昭和二十五年八月三日附検事田中良人に対する供述調書第三項)によれば、同被告人は昭和二十五年七月十四日第二次整理の際その通告を受けたが、その理由を明かにされなかつたので、翌十五日他の関係者と共に三鷹電車区区長室に行きこれを区長に問いただしたところ、区長からはその理由を明かにされなかつたことが認められ、同被告人が主観的に整理理由を明かに告げられなかつた不満を抱くことはあり得るところであり、当時同被告人が多数の家族を抱え、整理されることは同被告人にとつては死活の問題であつたため強い憤懣の情を押えることができなかつたことは無理からぬことで、この点を同情的に見ることは可能である。従つて検察官主張のような前記の事情があることだけから、これを同被告人の不利な事情と見ることはできない。
しかしながら、被告人竹内が右のような憤懣があつたことに同情されるのは同被告人の家庭的事情に関する点だけであつて、整理反対の手段としてストの口火を切るために本件事故に及んだこと自体が、同情され、或は合理化されてならないことは、所論の通りであつて、この点の詳細は後に説明する通りである。
(二) 原審は被告人竹内の重い情状の第一として、国鉄職員が公共企業体労働関係法によつて、争議行為を厳禁されているにかかわらず、これに違反してストライキに導いて行こうとしたことを挙げていて、この点は手段の危険性と共に最も重い情状と考えられるのであるから、同被告人が組合幹部や他の組合員の態度を消極的日和見的であると難じ、自分一人で電車事故を起して全国ストの口火を切り、これを契機として不当な整理を撤回させようとした点を同情すべき情状として見ることのできないことは所論の通りである。原審がこの点を客観的にはおよそ実現できないことであるということと併せて同被告人に同情すべき情状であると見ていることは誤であるといわなければならない。
既に前記第四点乃至第六点において説明したように、三鷹電車区における情勢は、所謂六、九スト以後、民同派の擡頭によつて、本件発生当時においてはストを行うことには相当の困難があつたことは認められるが、七月四日の大会で決定されたストは辞さないという線は堅持されていたのであるから、全国的ストの口火とまでは行かなくとも、被告人竹内の計画が成功すれば、或は他の電車区にその影響を及ぼすことはあり得るところであつたものと認められ、原審説明のように「客観的におよそ実現できない」とまで断定できるか否かに疑問があるのである。
被告人竹内が前記のような憤懣があつたにせよ、組合運動として正当に認められた限界を無視して、厳禁された争議行為に導く目的を以て、公共の交通施設たる電車を使用し、公共の危険を生ずる手段方法を以て、本件電車事故を発生させたことは、法規を無視し、社会の平穏な生活を破壊する行為として、極めてその情状を重く見なければならない。この点の所論は理由があるものといわねばならない。
(三) 所論引用の平山検事に対する供述、第十三回公判期日における供述、第五十四回公判期日における供述、によれば被告人竹内が国電スト後闘争手段として一旦停止の脱線を考えたこと、七月十日頃からその実行についても考え初めたこと、本件事故当日たる七月十五日組合事務所で「ストは俺一人でもやれる云々」と冗談のように言つたことは認められるが、これを以て直ちに、被告人竹内の本件犯行が発作的偶発的でなくて計画的であり、同被告人が、本件犯行を主唱し、他の被告人らがこれに着目して共同犯行を計画したと見ることはできない。むしろ前記各供述を十分検討すると、平山検事に対する昭和二十四年九月五日附供述調書に「午後七時少し前に自宅に戻つて、十分ほどして夕食をとりましたが、その後新聞、雑誌等を見ておりました。かように新聞等を読んでいるうち、自分が馘になつたことを思い出し、当時の社会状態と考え併せ、何か断崖から突きおとされたような気になり、しかも通告処分の留保もいつまでも延ばせず、そのため私らが平素冗談のようにいつている、電車を何らかの状態に置き、ストの状態をつくろうという気になりました。そして急に午後九時頃たしか妻は便所に行つている間、私一人で出かけました。家を出るときは平素持ち合はせているナイフで、電車の貫通制動機の制動管ホースを切断して電車を動かせないようにしようと思つておりました。しかし家を出てから十四番線を過ぎ、七、八番線附近まできたとき、この沢山の車輛のホースを切ることは容易なことでないことに気づき急にそのときから、脱線事故を起し、電車の出庫入庫を不可能にして、事実上のスト状態を起そうと考えました。」との記載があるところから見ると、前記の被告人竹内が国電スト以来一旦停止の脱線を考えていたというのは、闘争手段としてそのような方法があると考えていたに過ぎず本件犯行をその頃から計画していたものと解することはできないのである。又前記平山検事に対する同年八月二十三日附供述調書には「私はかように電車を発車させましたが、私がさようなことを頭にえがいたのは漠然としてではありますが、第一次整理後の七月十日頃からです。……しかしかように脱線事故を起させることを頭にえがいたのも、別にそれにつき時期方法までは考えておりませんでした」との記載があるのであるから、前掲の供述と対照すると七月十日頃既に本件犯行を決意し、その具体化として七月十五日にこれを実行したものとは認められないで、結局本件犯行を現実に決意したのは電車発進現場に臨んでからであると解するのが相当であるから、この点の所論は失当である。
次に原審は前記のように当初家を出るときは制動管ゴムホースを切ろうと考えていたところ、現場に至つて急にこれを変更し、本件電車の発進を考え、発進操作用針金紙紐を拾つてこれを実行したことを以て偶発的発作的犯行と認めているのであつて、そのような認定ができないことはないのである。検察官は夜間九時頃多数の入庫車輛があつて、到底単独でそのゴムホースを切断することの困難なることを挙げ、被告人竹内が永年勤務していてこれを当然知つており、又自宅にコントローラー用鍵を所持するに拘らずこれを携帯しなかつたのは、鍵を以てコントローラーを開くときはハンドルがオフ位置となるまで、鍵の抜けないこと、現場附近に鍵に代用できる針金がおちていることを経験上知悉しているからであり、右は本件が証拠を残さぬよう周到に考慮された犯行であることを証明すると主張し、被告人竹内も単独では多数の入庫車輛全部のゴムホースを切断することは不可能であることを知りこれを本件犯行に変更したのであり、コントローラー用鍵がオフ位置になるまで抜けないこと、現場附近に鍵に代用し得べき針金がおちていることを経験上知つていたことはこれを認め得られても、それと同被告人の供述その他計画的な犯行であることを裏付ける他の証拠とが相俟たなければ右の事実だけから、本件犯行が計画的であつて、証拠を残さぬ周到な犯行であるとはいえないのである。殊に本件においては、原判決が被告人竹内の単独犯行の認定において判示しているように現場附近におちていた紙紐を以て、ハンドルの握りとパイロツトランプ(運転士知らせ燈)のコントローラー寄りにある回路電線とに掛け、その中間で一回結びこれを反対側の紐に掛け、紐の両端を二回ほど廻して結んだのであつて、この紐が事故電車先頭車運転台の中から事故直後検察官の検証によつて発見され、(検事磯山利雄外三名作成の検証調書の記載)これが本件犯行が人為発車であると認められる有力な証拠であると考えられたのであるから、本件犯行が、証拠を残さぬ周到な犯行であるとの所論は必ずしも当らない。
(四) 原判決が被告人竹内の単独犯行の認定の資料として挙示した証拠によれば、同被告人が本件の如き結果の発生は全然考えておらず、本件犯行の重大性について全く認識を欠ぎ、原判決が挙示しているように一旦停止附近の脱線による入出庫の妨害だけを考えていたことを認めることができる。勿論客観的には所論のように他の電車との衝突或は人の死傷の結果を発生する危険があることはいうまでもないところであるが、被告人竹内がその結果の発生を認容し又は未必的にも認識して本件犯行に及んだとの証拠はない。若し本件のような重大事故が発生する危険性を認識したならば、かかる重大事故の発生は捜査当局の活動開始を招来し、同被告人の意図する方法によつてストの口火を切る等の組合活動は到底推進し得なくなることは何人にとつても明瞭な事柄であるからである。
(五) 本件の社会的影響が重大であつたことは、原審が重い情状として取上げていることから、原審も十分これを考慮したことが認められるが、原審の言はんとするところは、当時の各新聞が本件は共産党員によつて計画されたものの如く報道したのであるが、(このことは証拠物として取調べられた当時の新聞によつて明かである。)本件は被告人竹内の単独犯行であつたのであるから、多数の共産党員が計画した暴力的破壊的犯罪であつた場合よりも情状において軽いと認められるとの趣旨であり、このことは是認し得るのであるから、被告人竹内の他の軽いと認められる情状と併せてこれを考慮することができるのである。
(六) 所論の被告人竹内が共同犯行自供当時最も平静な人間的な落着いた心境にあつたこと、単独犯行供述によつて労働階級の英雄となり、一面共産党員たる妻をはじめ家族えの援助を願う心理があり、共産党支持の思想があつて、供述の変転は極めて功利的打算的であるとの主張については、これを裏付けすべき確実な資料がないのであつて、原審のこの点の認定は是認できないこともない。
(七) 被告人竹内の労働運動、本件犯行についての批判及び反省、改悛の情等だけから、重大な犯罪の罪責を直ちに軽減するという考え方は勿論採るべきではないけれども、これを前記各種の事情と彼此対照して同被告人の有利な事情の一つとして加味することは勿論できるのである。
以上説明のように検察官の所論必しもそのまま肯認し得ないところもあるが、原審が無期懲役を選択した情状として掲げた理由中にもまた被告人竹内に不利益な本件の情状として考えるべきものもある。すなわち、
(一) 国鉄その他の行政機関の人員整理は殆んど同時に実施され、かつ大量の人員を対象として行われたため、被整理者にとつては詢に死活の問題に等しく、同被告人もまた長年国鉄に勤めた身でありながら、上司から直接理由を明かにされないまま国鉄を去らなければならなくなつた憤懣を押え切れなかつたこと。
(二) 本件犯行が慎重な計画の下に予め準備された方法によつてなされたものとは考えられないこと。
(三) 被告人が主観的には、一旦停止の標識ある附近で脱線させることを目的としたものであつて、本件電車が一旦停止がある附近のポイントを破つて同所を通過して、本件のような大惨事を惹起することについて予見したという証拠がないこと、は原判決に説明された通りであつて、これを同被告人の有利な情状として考慮することができるのであつて、同被告人が多数の家族を抱えながら、整理を受けて失職することが、極めて大きな打撃を与えたことは同情するに余りあるところである。
然しながら、
一、同被告人は原判決説明の通り昭和十三年以来東京鉄道局に奉職し、昭和十五年四月以降昭和二十一年三月まで電車運転士として電車運転の業務に従事して来たのであつて、電車運転に十分の知識経験を有し年令も当時既に満二十八年を超えていたのであるから事理を弁別する十分の能力を持つていたものであり、
二、国鉄その他の行政機関の人員整理の基準が業務に精励しない職員を対象として実施するものであることは、当時の新聞等によつて一般に公表されており、同被告人が昭和二十四年六月九日の所謂国電スト以来、整理反対闘争の組合運動に熱心に従事して電車に整理反対闘争のための落書する等の非行もあつたことも原判決説明の通りであるから、自ら省みれば、整理理由を考え得るところであり、(合法的な組合運動に従事することは何等の問題もないのであるが、右国電ストは前記公共企業体労働関係法によつて許されないところであるから、非合法な組合運動に該当する。)
三、前記のように国鉄職員は公共企業体労働関係法によつて争議行為を厳禁されているにもかかわらず、この禁止に違反して前記国電ストに従事し、整理通告を受けるやその辞令の受領を拒否して、前記のように全国的なストの口火を切ることを目的として本件事故を敢行し、
四、本件犯行の目的とするところが、これを契機として争議行為を禁止されている国鉄全職員をしてストライキに蹶起せしめんとしたものであつて、その目的自体法律を無視したものであり、当時の共産党三鷹電車区細胞たる被告人飯田らにおいてさえ、直ちにはストに入る目算が立たず、ストの準備態勢を整えつつ、何等かのキツカケを待つていた情勢であつたことは既に説明の通りであり、これに対し、同被告人がこれを日和見的であるとして、自らそのキツカケを作ろうとして、本件犯行に出たのであるから、その行為は、破壊的暴力的性格を持つたものであるといわなければならない。
そもそも鉄道は国家経済の動脈であつて、これに従事する職員は国家公務員に準じ、その団体行動に一定の制限が加えられる所以は、実にこの鉄道の役割の重大性によるものである。即ち国鉄はその使命を達成するため全国民の負托を受けてその業務の国家的目的に沿いその維持発展を計るものであるから、その職員は公務員に準じ、その職を忠実に遂行しなければならないのであつて、復興途上にあるわが国の現状においては、国鉄職員のストライキは全労働者を含めた全国民を窒息せしめる危地に陥れることに外ならない。それ故法律は憲法で保障する労働者の団体行動ついて、憲法で宣明する公共の福祉と権利の濫用の禁止という制限に基いて、国鉄職員のストライキを厳禁したものであり、この禁止を犯して国鉄全職員のストライキに導かんとするが如きは単に計画的でなかつたという事情によつて、その犯情が減殺されるものと見ることはできない。
五、況んや自らの憤懣を霽し、或は全労働者の怒りを示すために、公共の施設である電車を擅に発進させその脱線転覆を図り、これを全国ストライキの契機としようとするが如きは、一面公共の施設を自己または労働者の私物視するものであつて、凡そ正しい社会生活に背離する考えであり、他面公共の施設を破壊し、全国的ストライキを誘発しようとするに至つては、自己及び国鉄職員の一部の立場のみに執着して、これによつて前記のように、国家経済活動を痳痺させ、わが国復興の方向を逆転させ、その結果は全労働者を含む国民大衆をして、却つて窮乏の底に陥らしめる危険を敢て醸成せしめんとするに帰し、その罪は決して軽しとすることはできない。
六、のみならず、本件電車を原判決説明のようにコントローラーのハンドルの位置を二ノツチと三ノツチとの間において、これをパイロツトランプの回路電線に結びつけて電車を発進させた場合に、本件のような速度となる虞のあることは、前記のように長年国鉄電車運転士として電車運転の職務に従事していた同被告人として当然予見し得べきところであり、かかる速度を以て、前記車庫に停留した七輛連結の電車を三鷹駅の方向に向けて発進せしむるにおいては、或は予期の場所で脱線せずに驀進し、いかなる惨事を惹起するかも知れない危険はあり得るのであるから、同被告人において十分の注意を払えば、これを予見することも強ち不可能とはいえない。
従つて被告人竹内の本件発進操作は、被告人が本件のような結果を全く意図せず、毛頭考え及ばなかつたとしても、この結果を予見しなかつたことに重大な過失のあつたことを否定することはできない。のみならず、整理をされたことに対する憤懣を押え得ずして激情のままにかような暴力的な行為に出たことは、この過失を重大ならしめる一素因であつたと見られるにおいては、その情の軽くないこと明かである。
七、かくて原判決説明のように被告人竹内の右犯行によつて本件電車は発進し、一号ポイントを割つて突進して三鷹駅下り一番線に入り、高速度で同駅南口改札口前下り一番線車止を破壊突破して先頭車より第四輛目までを破壊し、その際右車止附近に居合せた秦俊次外五名の人命を奪うに至つたものであつて、その罪は極めて重いものといわなければならぬ。
八、而して後に被告人竹内関係の控訴趣意中法令の適用の点で説明するように、本件無人電車の暴走とその破壊及び前記の致死の結果は、所謂公共危険罪として最も重く処罰せられるところであつて、この種の行為は、人の現在する汽車又は電車を顛覆破壊させて、致死の結果を発生した場合と全く同様に取扱われ、その処罰も結局刑法第一二五条第一二七条によつて、第一二六条が適用されるのである。従つてその法定刑は死刑又は無期懲役に限られているのである。
放火、溢水その他の公共危険罪の中にあつても右刑法第一二六条がこのような厳重な刑を定めている所以は、汽車、電車、艦船等の顛覆、破壊、覆没がその中に在り又はその附近にある不特定多数の生命に危害を及ぼす危険性が極めて高いことから理由づけられるのである。
九、原審説明のように本件のような手段が伝播性を有することにおいても、本件犯罪の情状は軽視すべからざるところである。
十、次に本件が行政機関における行政整理と公共企業体における人員整理をめぐる反対闘争の最中であつて、所謂下山事件の直後、同年八月頃の労働攻勢が伝えられていた社会不安の中に突発し、その結果交通施設等に莫大な損害を与えると共に善良な市民六名の貴重な生命を奪つたことによつて社会一般の人心に深刻な不安を与えた影響も決して軽視できない。
以上被告人竹内の本件犯行の有利な事情及び不利な事情を検討して来たのであるが、同被告人には前記のような有利な事情もないではないが、右のような本件の動機目的の不法性、これから窺われる本件犯行の暴力的性格及び同被告人の暴力的性格、無人電車発進という手段の悪質であつて且極めて危険の大なること、発進操作の際における過失の重大であつたこと、結果の重大性即ち交通施設の破壊と多数の貴重な生命を奪つたこと、公共危険罪としてその罪質が極めて重いこと、手段に伝播性があり、深刻な社会不安を与えたこと等の極めて重い情状を軽減する理由とするには足らないものと認められる。従つて右に挙げた各種の重い情状を考察すると、同被告人に対しては前記法条の定める死刑を選択するを以て相当と認められるのであつて原審が被告人の家庭的事情等を重視して無期懲役を選択したことは、刑の量定が軽きに過ぎたものと謂うべきである。以上の理由によつて、被告人竹内の刑の量定が不当であると主張する所論は理由があり、原判決は被告人竹内に関する部分については破棄を免れない。
第三部 被告人石川政信外一名に対する偽証被告事件に関する検察官の控訴趣意に対する判断
〔一〕 第一点 訴訟手続に関する法令違反
原審が検察官の起訴状朗読前に弁護人及び被告人等に事件について、裁判官に予断又は偏見を生ぜしめる虞ある事項の陳述を許したこと、所論の速記録によれば、被告人金忠権及び被告人石川政信がそれぞれ所論のような陳述を為し、右は起訴状朗読前には許されない陳述であること、従つて原審がかかる事項の陳述を許したことは訴訟手続の法令違反となること、然しながら、その法令違反は結局判決自体には影響を及ぼさないものであること、従つて検察官の所論はこれを採用できないことについては総て、前記被告人飯田七三外九名の電車顛覆致死被告事件に関する検察官の控訴趣意第一点について説明したところと同一である。
〔二〕 第二点 事実誤認
原審が被告人石川政信、同金忠権の両名に対する偽証被告事件について、所論のような理由を以て無罪の言渡をしたのであるが、被告人両名が所謂高相会議の席上横谷武男外数名が中座した事実を知りながら中座したことがない旨虚偽の陳述をしたとの点については、前記被告人飯田外九名の電車顛覆致死被告事件の検察官控訴趣意書第四点乃至第六点について説明した通り、被告人横谷武男外数名が中座したとの事実自体が確認できないのであるから、被告人両名に対しては当然犯罪の証明が不十分であるものとして無罪の言渡をすべきものであつて、原審には所論のような審理不尽、経験則違反、採証法則違反にもとづく事実誤認はないものと認められるから、この点に関する所論も採用できない。
第四部 被告人竹内景助関係控訴趣意に対する判断
〔一〕 被告人竹内の控訴趣意第三点、弁護人今野義礼の控訴趣意第一点、弁護人正木〓の控訴趣意(いづれも法令適用の誤)原判決が第一被告人竹内景助に関する部分の〔三〕適条の部分において、「被告人竹内が人の現在しない電車を発進させて電車の往来の危険を生ぜしめて電車の破壊を致しよつて秦俊次外五名を死に致した行為は各刑法第一二七条、第一二五条第一項、第一二六条第三項、第一項にあたり、右は一個の行為で数個の罪名に触れる場合であるから同法第五四条第一項前段、第十条によりその最も重い秦俊次に対する罪の刑を以て処断すべきである」と判示していることは所論の通りである。
被告人竹内及び弁護人今野義礼、同正木〓はそれぞれ理由を異にするが、いづれも原審の右法律適用は誤であると主張するので順次その当否を判断することとする。
一、被告人竹内及び弁護人正木〓の本件については、刑法第一二七条の適用がないとの主張について、
その主張の要点は、刑法第一二七条は同法第一二五条に規定するように犯人が鉄道又はその標識を損壊し又はその他の方法を以て汽車又は電車の往来の危険を生ぜしめ、その結果汽車又は電車の顛覆若くは破壊を生じた場合を規定したものであつて、第一二五条は往来危険を生ぜしめたる手段について罰し、第一二七条はその手段が効を奏した場合を罰する規定であつて、前者の手段の中には予め鉄道を破壊しておいたり、信号機を狂はせておいたり、或はポイントを動かしておいたりして、その後に走つて来る目的たる汽車、電車が転覆又は破壊する場合が入るが、妨害しようとする目的物である汽車電車そのものは含まないものと解すべきである。従つて目的たる汽車電車そのものを転覆破壊した場合においては単に第一二五条第一項の既遂罪として処断すべく、若し転覆破壊の結果人の致死の結果が発生したならば同法第二一〇条の過失致死罪の規定を適用すべきものであるというに在る。所論の第一二五条第一項は犯罪の手段方法として鉄道又はその標識を損壊して汽車電車の往来の危険を生ぜしめたる場合の外明かに「その他の方法を以て」汽車電車の往来の危険を生ぜしめたる場合をも同様に規定しているのであるから、同条には犯罪の手段方法として所論のように鉄道又はその附属施設の損壊又は破壊をする場合の外広くその他の方法をも包含し本件の場合のように無人電車を使用して往来の危険を生ぜしめた場合を包含するものと解することに何等の妨げもないのである。従つて本件について第一二七条の適用があることも当然の結果であつて、所論は独自の見解に立脚して原判決の法令の適用を批難するものであつてこれを採用することはできない。
(二) 弁護人正木〓の刑法第一二七条は前条たる第一二六条を受けて当然人の現在する汽車電車を転覆破壊した場合に限り適用すべきものであつて、本件の如く、無人電車を走らせた場合には第一二七条の適用はないとの主張について、
刑法第一二六条第一項が人の現在する汽車又は電車を顛覆又は破壊したる者は無期又は三年以上の懲役に処すと規定し、人の現在することを要件とすると共に、第一二五条第一項が規定する往来の危険を生ぜしめたることの要件を挙げていないのは、人の現在する汽車又は電車を顛覆又は破壊する行為が高度の危険性を有し、それ自身当然往来の危険を包含する行為であるからであつて、第一二五条の規定する鉄道施設等の損壊等の行為が常に往来の危険を生ずるものとは限らないので、往来の危険を生じた場合にのみ、これを同条によつて処罰する趣旨であるのと比較するとこのことが明かに看取されるのである。従つて、危険性の高度な前者は極めて重く処罰せられるに反し、これに比較すると危険性が一般的には低いと考えられる後者の鉄道施設の損壊等の行為は往来の危険が発生した場合に限り、前者より低い刑罰を課せられているのである。それ故第一二六条第一項の行為の中には当然第一二五条第一項の往来危険罪を包含しているのであるから、前者の行為に対しては、ただ刑法第一二六条第一項を適用するを以て足るものと解すべきである。
本件のように人の現在しない電車を人為的に発車させる行為が、たとえ結果において電車の破壊を生じたにもせよ直ちに第一二六条第一項に該当しないことは何人にも異論のないところであり、この行為が、第一二五条第一項に該当することは前段において説明した通りである。而して第一二七条は第一二五条の罪を犯し因て汽車又は電車の顛覆又は破壊を致したる者亦前条の例に同じと規定しているから、第一二五条の往来の危険を生ぜしめた場合の結果的加重犯を規定していること及びその処罰は結果の重大性から見て、第一二六条の人の現在する場合と同一にするという趣旨であることが明かである。
抑々一の行為が第一二五条(その未遂罪を含む)と第一二六条(その未遂罪を含む)との両者に該当する場合においては、前記のように第一二六条によつてのみ処罰するを以て足るのであるから、第一二五条は第一二六条に該当する場合即ち犯人が人の現在する汽車電車の転覆又は破壊を企図し又はこれを認識して当該行為に出た場合を除き、犯人が往来危険の生ずべきことを認識しながら鉄道施設等を損壊する等の行為に出た場合にその適用を見るのである。換言すれば鉄道施設等を損壊する等の行為が人の現在する汽車電車の転覆、破壊を目的とし又はこれを認識して行われた場合は当然第一二六条のみが適用せられて、第一二五条の犯罪は観念的には成立しても、第一二六条に吸収される関係にあり、人の現在する電車の転覆又は破壊について認識がなかつた場合(過失によつてこれを認識しなかつた場合、転覆又は破壊せんとした目的物が人の現在しない汽車電車であつた場合、汽車電車の転覆又は破壊を全然目的としなかつた場合等)であつて、汽車電車の往来の危険を認識して行為に出た場合に第一二五条が適用せられるのである。
次に第一二七条について見ると、同条は第一二五条の結果的加重犯を規定していること前述の通りであり、人の現在する汽車電車の顛覆破壊であつて第一二六条の犯罪の成立する場合を除き、第一二五条の犯罪の成立するあらゆる場合の結果としての汽車、電車の顛覆、破壊の場合を包含するものと解すべきである。従つて往来を妨害された人の現在する汽車、電車であろうと、人の現在しない汽車、電車であろうと、往来妨害の手段として使用した汽車、電車そのものであろうと、いやしくも当該行為と相当因果関係ある結果として、汽車、電車の顛覆破壊の結果を発生したならば本条の適用を見るものと解するのが妥当である。
従つて本件は無人電車を暴走させて往来の危険を生じさせ、その結果当該無人電車そのものの顛覆破壊を生じた場合であるから、(その相当因果関係は明瞭であつて、所論のような不明確の点はない)これに対し、原審が刑法第一二五条第一項第一二七条を適用したことは相当である。同弁護人は第一二七条は犯人が往来を妨害せんとした汽車電車そのものが顛覆、破壊した場合にだけ適用さるべきであつて、本件のように手段たる無人電車が偶然破壊したような場合は本条の適用がない。原判決のように解するならば、無人電車が線路上を十哩暴走して、その間に偶然にも歩くべからざる線路上を歩いていた人間を殺傷しても第一二七条に触れないのに反し、往来妨害の目的で、線路の一定点まで僅かに無人電車を緩行させて来て、そこで電車を静かに顛覆させておいても第一二七条に該当することになり不合理だと論ずるが、前段の部分は前記説明の通り採用の余地がなく、後段の引例の場合はたとえそのような法律適用になつたとしても、必ずしも不合理であると考えられないところである。
(三) 弁護人正木〓の被告人竹内が無人電車を発車させた行為自体は未遂の段階であるとの主張。
所論の要旨は原判決は被告人竹内が無人電車を発進させた瞬間第一二五条が既遂になつたとし、電車が破壊したことによつて第一二七条に移り、秦俊次外五名が死亡したことによつて第一二六条第一項第三項に戻つて来て右は一個の行為で数個の罪名に触れるとし、一個の行為を強いて任意に切断して、数個の観念を作り、その一つ一つを別な条文にあてはめている。而して同被告人が電車を発進させた地域は巾六百米以上もある車輛置場であり、市民の出入を禁じられている路線で、発車地点から東方約四百米の地点にある一旦停止の標識がある地点までは本件電車の専用路であつて、一定の時間中は他の電車がこの線路に出入し得ないのであるから、一旦停止の標識に達する迄はまだ未遂の段階に過ぎないというに在る。
刑法第一二五条は所謂公共危険罪の一種として具体的危険の発生を要件とせず、往来の危険即ち汽車、電車の衝突顛覆脱線等の具体的危険発生の虞ある状態を生ぜしめるを以て足るものであり、本件記録によれば所論の電車区構内には當時電車の入出庫が行はれていたことが明かであり、本件発生直前である昭和二十四年七月十五日午後九時二十分頃、三鷹駅九時十八分着電車が入庫したことが認められるから、被告人竹内が本件電車を発進せしめた瞬間において既に第一二五条の要件である往来の危険を生じたものと見るのが相当であるから、所論は失当である。
尚原判決は所論のように一個の行為を分断して法律適用をしたものでなく、却つて被告人竹内の無人電車発進から、電車の顛覆破壊、秦俊次外五名の致死の結果までを一括して一個の行為として法律を適用していることが判文自体から明らかであるから、この点についても、所論は失当である。
(四) 弁護人今野義礼の本件については、刑法第一二六条第三項の適用はないとの主張。
その主張の要旨は、刑法第一二七条は「第一二五条の罪を犯し因て汽車又は電車の顛覆又は破壊を致したる者亦前条の例に同じ」と規定しているだけで「因て人を死に致したる者は」とは規定していない。刑法第一二六条が特に極刑を以て臨んだ所以は、人の現在している汽車、電車を顛覆破壊するときは、必然的にそれらの人達の生命に危害を加え、ひいては致死の結果も生ずる虞があるからである。ところが本件は「人の現在しない電車を走らせた結果たまたま通行人数名に致死の結果を生ぜしめた事案であつて、右の結果は偶然であつて、刑法はこのような場合を処罰する規定を設けていないのである。かかる偶然の出来事による致死の結果については、第一二六条第三項を適用すべきではない。若しこの場合にも同条項の適用があるならば、無人の自動車を暴走させて、通行人多数を轢殺した場合にこの条項の適用がないこと、若し電車が顛覆破壊しなければ、幾百人を轢殺しても同条を適用できないことと対比して著しく権衡を失することとなる。
以上の理由によつて被告人竹内は本件について刑法第一二五条第一項第一二七条第一二六条第一項と過失致死罪たる刑法第二一〇条の責任のみを負うべきものであるというに在る。
刑法第一二六条の立法趣旨が人の現在する汽車電車の顛覆破壊が、その汽車電車中に在る人々の生命を奪う危険性が極めて大であるとの理由で、極刑を以て臨んでいること、刑法第一二七条に「因て人を死に致したる者」との規定がないことは所論の通りである。而して右第一二七条が、本件のような無人電車の暴走による当該電車の顛覆破壊の場合のみならず、広く第一二六条の犯罪に該当しない第一二五条の犯罪の結果発生した汽車、電車の顛覆破壊の場合に適用せられ、第一二五条の行為の結果発生すべき危険はまことに多種多様広汎であつて、往来を妨害される汽車、電車は、通常人の現在する汽車、電車である場合を多数とするが、これに限定されることなく、転覆、破壊される汽車、電車は人の現在する場合も、人の現在しない場合も予想され、その危険の重大性は人の現在する場合は勿論、人の現在しない場合においても、軌道上に働らく人の生命を奪い或は脱線を伴う顛覆破壊によつて軌道附近に在る人の生命に危害を及ぼし致死の結果を招来することも十分考えられるところであるから、第一二七条は、第一二五条の罪を犯し、汽車又は電車の顛覆又は破壊の結果を発生した場合を、全く、第一二六条の犯罪と同程度に重大にして且人の生命に危険を加える蓋然性大なるものとして、その処罰を第一二六条と同じくしたものと解すべきである。而して右のように人の現在すると否とを問はず汽車電車が顛覆又は破壊したために、致死の結果を発生することのあるべきは看易い道理であるから、立法者が、第一二七条の場合に、致死の結果が発生したときの処罰規定に思を致さなかつたものということはできないのみならず、第一二七条の顛覆又は破壊のあつたため発生した致死の結果に対する処分を含めて、すべて第一二六条の例に同じと規定されたものと解すべく、従つて単純に顛覆又は破壊を生じた場合は同条第一項により、顛覆又は破壊のため致死の結果の発生した場合は同条第一項及び同第三項を適用するを以て相当とし、第一二七条に「因て死に致したる者」について規定がないということから、右の解釈を否定することはできない。所論引例の無人自動車の暴走による多数人の轢殺、電車の顛覆又は破壊しない場合の多数人の轢殺の場合に第一二六条の適用がないことも亦この解釈を左右するに足るものとはいえない。
従つて被告人竹内の本件行為に刑法第一二五条第一項第一二七条第一二六条第一項第三項を適用した原判決は全く正当であつて何等の法令の適用の誤もないから所論はこれを採用できない。
〔二〕 被告人竹内の控訴趣意第一、二点及び弁護人今野義礼控訴趣意第二点(いずれも量刑不当)
所論の有利な各事情を参酌しても、既に被告人飯田七三外九名に対する検察官の控訴趣意第八点(量刑不当)について説明した通り、動機目的の不法性、手段の悪質且危険の大なること、発進操作における過失の重大、結果の重大性、罪質の極めて重いこと等の極めて重い情状を軽減する理由とするに足らないものと認められるから所論は失当である。
以上それぞれ説明したように、検察官の被告人竹内景助を除く被告人ら全員に対する控訴は理由がないので、刑事訴訟法第三百九十六条によつて主文第一項のようにこれを棄却し、検察官の被告人竹内に対する控訴は理由があるので、同法第三百九十七条によつて、原判決中被告人竹内景助に関する部分を破棄するが、当裁判所は訴訟記録並に原審で取調べた証拠によつて直ちに判決することができると認めるので、同法第四百条但書によつて被告人竹内景助に関する部分について、当裁判所において更に判決することとする。
尚被告人竹内景助の本件控訴は前記のように理由がないのであるが、右のように同被告人に関する部分を破棄自判するから、特に主文において控訴棄却の言渡をしない。
当裁判所が被告人竹内景助に関する部分において認定する犯罪事実、その証拠及び法令の適用は、前記説明の通り、刑法第百二十六条第三項の所定刑中前記のような重い情状によつて死刑を選択する外すべて原判決と同一である。
よつて主文の通り判決する。(昭和二六年三月三一日東京高等裁判所第一三刑事部)